起源

佐藤知昌・知忠父子の官名「尾張守」を起源とし、知忠の子知広の子孫が称した。

展開

尾藤氏は、佐藤氏の庶流であるが、鎌倉時代に入ると佐藤氏嫡流に代わって紀伊国那賀郡田仲荘・池田荘(和歌山県紀の川市)などを継承した。

尾藤知広の孫景綱は、鎌倉時代前期に北条氏得宗家に接近して初代家令に任じ、以後代々御内人を務め、幕府の政務の枢要を担った。倒幕後の動向は未調査である。

紀伊国

平安時代後期以来、佐藤氏の嫡流が紀伊国那賀郡田仲荘・池田荘(紀の川市)の荘官を世襲してきたが、鎌倉時代には庶流である尾藤氏が両荘を継承した(『吾妻鏡』)。

以後、詳細不明であるが、鎌倉時代後期の尾藤知信(知行)が「池田太郎」を通称とした(『尊卑分脈』)ほか、嘉元2年(1304)に田仲尾藤太と子彦太郎の所見があり(『高野山文書』)、少なくとも鎌倉時代までは田仲荘・池田荘に尾藤氏の拠点があったと思われる。

また、尾藤氏との関係は不詳であるが、嘉禎4年(1238)に有田郡の豪族湯浅氏に属した「田中三郎兵衛尉光平」が見える(『崎山家文書』)。

信濃国・遠江国・尾張国

佐藤氏が継承してきたという信濃国中野御牧(長野県中野市)を、鎌倉時代に入って尾藤氏が継承した(『吾妻鏡』)。

執権北条泰時の側近尾藤景綱の弟景信は「中野三郎」を通称とした(『尊卑分脈』)ほか、南北朝時代には貞和1年(1345)に足利尊氏が岡本良円に「中野佐藤太跡」という中野郷岩舟村(中野市岩船)を与えた記録がある。

その後、中野尾藤氏との関係ははっきりしないが、戦国時代後期に、信濃守護小笠原氏家臣の尾藤重忠の一族が所見される。重忠の子重吉は小笠原氏が滅びたのち、今川氏を経て、織田氏家臣の森氏に属して春日井郡三ッ井村(愛知県一宮市)に拠点を移した。孫知定(甚右衛門、知宣、知重、光房)は豊臣氏に仕えて軍功を重ね、讃岐国宇多津5万石の丸亀城(香川県丸亀市)主となったが、九州平定(1586-87)で失策を重ね、所領没収・追放となった。

知定の次弟清兼は母方の桑山氏を称して三ッ井村に居住し、末弟頼忠は妻の宇田氏を称した。知定の長男頼次は石田氏を継いだのち自害あるいは唐津藩に仕え、次男知則は熊本藩士として続いたという(『大日本野史』)。

また、和歌山藩士の中野氏は、尾藤景綱の弟景信(中野三郎)の子孫と伝え、今川氏を経て徳川氏に仕えたという(『寛政譜』)。

中野氏

鎌倉時代、信濃国高井郡中野郷(中野市)・志久見郷(下高井郡野沢温泉村・下水内郡栄村)の地頭職を世襲した中野氏がいた。同氏は、嘉祥2年(1170)に信濃国高井郡中野郷西条(長野県中野市西条)の下司職に補任された藤原助弘に始まり、佐藤氏や尾藤氏との関係ははっきりしない。

鎌倉時代半ばからは甲斐国市河荘(山梨県)を本貫とする市河氏の縁戚となり、建武の新政(1333-36)では中野郷西条・志久見郷は市河氏の所領となっている。南北朝時代には市河氏と同じく信濃守護小笠原氏に属した。

以後不詳であるが、小笠原氏の本拠であった松本市(1,300人)周辺に現在も中野氏が多い。

美濃国

弘安4年(1281)の安八郡大井荘(大垣市)の下司職に尾藤太郎沙弥性円(『東大寺文書』)。

尾張国

永仁3年(1295)の碧海郡小針郷(岡崎市小針町)に尾藤兵衛六郎(『紀伊続風土記』)。

山城国

尾藤村(福知山市大江町尾藤)は、同地を領した尾藤氏に由来すると伝え、同地の八幡神社では藤原秀郷を祀る。

南北朝時代、延文1年(1356)「尾藤五郎兵衛尉光」が観音寺(福知山市大江町南山)に田一反を寄進した(『室尾谷観音寺文書』)。戦国時代には、天正年間(1573-92)に尾藤政廉(長野市正)が尾藤城(福知山市大江町尾藤)を拠点としたという(『田辺旧記』)。

大和国(長谷川氏)

尾藤知広の弟知宗の子孫が、室町・戦国時代に大和国長谷川(大和川上流部/初瀬川)に居住して長谷川氏を称したという。

室町時代は足利氏に仕えた。戦国時代後期、堺の商人(あるいは京都の町衆)であった長谷川宗仁(1539-1606)は、茶人・絵師としても活動し、武将としては織田・豊臣・徳川氏に仕え、以後子孫は幕府旗本として続いた。慶長10年(1605)には長徳寺(当初京都市中京区裏寺町、のち左京区田中下柳町)を建立した。子守知は、元和3年(1617)に美濃国武儀郡、伊勢国一志郡・奄芸郡、摂津国太田郡・川辺郡・武庫郡・八部郡、備中国窪屋郡、山城国相楽郡内に所領1万石を得た。

伊予国

江戸時代後期の儒学者尾藤二洲(1745-1814)は宇摩郡川之江(愛媛県四国中央市)の出身で、船頭の家系であった。大阪に出たのち、幕府の学校である昌平黌(東京都文京区湯島)の儒官を務めた。

美藤氏

現在、尾藤氏は四国中央市(400人)に多いが、近隣の香川県観音寺市と愛媛県今治市(各200人)に同訓の「美藤」氏が多い。美藤氏の伝承によれば、観音寺市では戦国時代に今治(愛媛県今治市)から来住したといい、今治市では恵美押勝の後裔が宝亀年間(770-781)に来住したという。

日向国

正安3年(1301)、尾藤景氏の孫時綱が所領の臼杵郡田貫田[不詳]を正八幡宮(日向市富高/八幡神社)に寄進した(『島津家文書』)。

現代の分布

現在愛媛県四国中央市・和歌山県有田市・岐阜県郡上市(各400人)で最も多く、岐阜市、静岡県浜松市(各300人)と続く。

地理的には有田市は田仲・池田荘の系統、郡上市・岐阜市・浜松市は信濃守護小笠原氏および豊臣氏の旧臣の系統、四国中央市は小笠原・豊臣氏旧臣のうち丸亀城に移った系統が定着したものと思われるが要調査。

尾藤村(福知山市大江町尾藤)付近に尾藤氏は残っておらず、近隣では兵庫県神崎郡福崎町(60人)に集住地域があるが要調査。

主な参考文献

  • 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
  • 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
  • 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net
公開   更新