後藤氏(佐藤氏流)
目次
後藤氏(ごとう-し)は,本来的には藤原北家利仁流の氏族であるが,藤原北家秀郷流の佐藤氏の分流にあたる系統がある。
本記事では,秀郷流佐藤氏の分流としての後藤氏(以下,「佐藤氏流後藤氏」)を中心に検討する。
起源
後藤氏は,藤原公則の官職名「備後守」か「肥後守」に由来する。
この後藤氏の系統のひとつである佐藤氏流後藤氏は,佐藤能清の弟基清が後藤実基の養子となったことに始まる。
展開
後藤基清は,12世紀末に讃岐守護,13世紀初頭に播磨守護を務めた。
越前国
13世紀前半に後藤基綱,14世紀初頭に後藤基頼,14世紀前半に後藤基雄が越前守護を務めた。基頼は基綱の2代後,基雄は基頼の2代後である〔尊卑分脈〕。
これに関連して,越前国坂井郡三宅村(福井市三宅町)での伝承では,越前守護の後藤基清が以下数代にわたって同地に住んだという〔「越前国名勝志」,「越藩拾遺録」〕。
基清が越前守護を務めた記録はないが,その子基綱以下3名が越前守護を歴任していることから〔『日本史総覧』〕,数代にわたって住んだ居館が同地にあったとしても不自然ではない。
伊勢国
後藤基清が伊勢国一志郡川口(三重県津市白山町川口)の地頭職を務めた〔吾妻鏡〕。
三重郡采女(三重県四日市市采女町)の伝承では,文応1年(1260)に,後藤基秀[伊勢守]が采女郷の地頭となり,采女城を築いて拠点としたという。系図では,基清─基綱─基隆─基秀─基秋─方綱─藤勝─某(弾正)と続く〔以上,三国地誌〕。同城は,永禄11年(1568),藤勝のとき,織田氏により落城した。また,天文5年(1536)の加富神社(四日市市波木町または山田町)の修造の願主に後藤方綱とあり,永禄13年(1570)の遷宮の願主には後藤藤勝とある。
上記伝承で,後藤基秀が采女郷地頭とされることを踏まえると,「尊卑分脈」の基秀の註にある「山田郷地頭」は,三重郡山田(四日市市山田町)の地頭を指すものと考えられる〔三国地誌〕。
このほか,戦国時代に,桑名郡では西別所城(桑名市西別所)を後藤基成[弥五郎]が,額田城(桑名市額田)を後藤基則[太郎左衛門]が,員弁郡では宇野城(いなべ市員弁町宇野)を後藤実重が,それぞれ拠点とした。なお,いずれも永禄・天正年間に落城した〔以上,桑名志,勢陽五鈴遺響〕。
丹後国
後藤基清が丹後国丹波郡丹波荘(京都府京丹後市峰山町丹波)地頭職を務めた〔吾妻鏡〕。
建久6年(1195)には,子基綱が丹波国志楽荘(舞鶴市)・伊禰保(宮津市・伊根町)を濫妨したとして訴えられている。
その後も当地は後藤氏が継承したらしく,元弘3年(1333)には丹波郷の城主後藤佐渡次郎入道が足利尊氏に属した熊谷直久に攻略されている。また,同郷内の鶴ヶ尾城(京丹後市峰山町丹波)は後藤駿河守の居城と伝わり,戦国時代末期に織田氏の武将明智光秀・細川藤孝に攻略されている。
播磨国
基清の孫(または子)の基重の所領が播磨国多可郡安田荘(兵庫県多可郡多可町八千代区・中区)にあった1。
子孫は,室町時代に赤松氏被官として活動し,また,戦国時代まで同荘内の公文職を継承した。
ほか,神崎郡矢田部(姫路市香寺町矢田部)には,鎌倉時代末期に後藤頼康[彦次郎]が安田荘から来住したという。子行重が開発した地や居館の所在地が地名として現存する(香寺町行重,香寺町矢田部穴虫後藤屋敷)ほか,行重の建てた供養塔も残る〔角川地名〕。
その他
- 六角氏家臣の後藤氏は秀郷流後藤氏の養子の流れと伝える。
- 美濃国出身の金工後藤祐乗の先祖は,後藤基雄と伝える。
- 讃岐後藤城主の後藤氏は,讃岐守護基清ではなく,中納言藤原家也の12世・後藤石見守資盛が後藤山に居住したために後藤を称したと伝える〔全讃史〕。中世,羽床氏の配下に後藤氏があり,近世は生駒氏に仕えた。
主な参考文献
- 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
- 角川書店『角川日本地名大辞典』(角川書店,1978-1990)
- 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
- 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net)
より正確にいうと,基重はもともと安田荘の公文を務めており,承久の乱(1221)の戦功により,その妻(寡婦)が同荘を安堵された〔角川地名〕。 ↩︎