波多野氏の歴史
目次
波多野氏(はたの-し)1は,古代末期から中世の相模国余綾郡波多野荘(神奈川県秦野市周辺)を本拠とした豪族で,佐藤氏の最初期の分流の一つ。
起源
平安時代後期,相模国(神奈川県)に居住した武士・佐伯経範[別名・藤原公俊/1057年没]を起源とする。経範またはその子孫が余綾郡波多野荘(神奈川県秦野市周辺)を本拠としたため,経範の子孫らは波多野氏を称した。
経範の養父・藤原公光が藤原北家秀郷流の佐藤氏に分類されるため,波多野氏が「藤原氏」や「佐藤氏」を称することがある。また,波多野氏から分かれた松田氏や河村氏などが「波多野氏」を称することもある。
佐伯経範の出自
佐伯経範は,相模国に居住し,天喜5年(1057)に前九年合戦において討死した。この時点で,経範は,源頼義に仕えて30年が経過し,年齢もすでに60歳に及んでいたという〔以上,「陸奥話記」〕2。
上記のほかに経範に関する信頼できる史料はない。
系図類をみると,「尊卑分脈」には,父は藤原秀郷5代・公光[相模守]で,母が佐伯氏とある。たしかに経範の子孫は秀郷流藤原氏を称しているものの,上記「陸奥話記」の記述からすると,経範自身は最期まで佐伯氏を称したようにみえる。また,藤原公光の子は(経範を除いて)「公」を系字としている上,「経」も「範」も公光以前の秀郷流藤原氏の実名として用例がない。これらの点を踏まえると,経範が公光の実子であったとする説明は疑問が残る〔『秦野市史』参照〕。
これに対し,「諸家譜」は,経範の父を佐伯経資とし,経資が相模国司の目代3で,平忠常の乱(1028)では源頼信に属して軍功を挙げたとする。この説明は,経範が相模国に住んで源頼信の子・頼義4に30年以上仕えたという上記「陸奥話記」の記述と概ね整合する。
以上を統合すると,経範については,実父が相模目代・佐伯経資で,養父が相模守・藤原公光とみるのが妥当である〔『古代氏族系譜集成』,『波多野氏と波多野庄』参照〕。
佐藤氏流の中の波多野氏
佐伯氏から藤原氏への改氏
佐伯経範に始まる波多野氏流は,氏として「藤原」を,名字として「波多野」(ほか,「松田」,「河村」など)を称し,また,別称として「佐藤」をも名乗ったことが,さまざまな史料から明らかになっている56。
この佐伯氏が藤原氏・佐藤氏を称するに至った契機は,前項の結論を前提とすれば,佐伯経範が佐藤氏にあたる藤原公光の娘を妻とした点にある。諸系図では,経範または子・経秀が「藤原氏に改めた」とするものが多いところ,確実な史料では,すでに経秀の子・秀遠が「藤原」を称しているから〔「千載集」〕,やはり経範・経秀父子が(佐伯氏から)藤原氏に改めている可能性が高い。
佐藤氏流との共通点
改氏以後,波多野氏は名実ともに佐藤氏流らしい活動がみられる。
秀遠やその子・遠義は,佐藤氏流の人物と同様に,京都を拠点とし,上皇や天皇に所衆として近侍している〔「尊卑文脈」,「千載集」・「永昌記」参照〕7。特に,秀遠の娘は佐藤氏流の藤原文郷に嫁いで光郷を産んでおり〔「群書佐伯系図」〕8,その光郷も所衆であった〔「尊卑文脈」〕。この点で,波多野氏は佐藤氏と二重の姻戚関係にあったことになる。
また,秀遠は歌人としても活動しており,その和歌は「千載集」に撰ばれている。鎌倉時代にも,この子孫にあたる経因,経朝,朝定らが歌人として活動している〔「吾妻鏡」参照〕。佐藤氏流は,佐藤義清[法名西行]をはじめ,後藤基綱・基政・基隆,伊賀光宗[藤原光郷の孫]なども歌人として活動しているから,この点でも共通する〔「佐藤氏と文芸作品」〕。
さらに,次項でみるように,11・12世紀の波多野荘は皇室領・摂関家領であったが,佐藤氏もまた摂関家領の紀伊国那賀郡田仲荘・池田荘(和歌山県紀の川市)の預所職(荘園領主の代官)であった。
最初期の波多野氏の系譜
本項(「起源」の項)で言及する11〜12世紀の佐藤氏・波多野氏らの系図上の関係は下図のとおりである。
佐藤氏は藤原公行を,波多野氏は佐伯経範をそれぞれ氏祖とするが,氏祖自身が「佐藤」,「波多野」を名乗ったかは不明で,上図のとおり,確実な史料では12世紀に入ってからである。
波多野荘拝領の経緯
いつ・誰が・どのような理由で波多野荘を拝領したかは明らかでない。
信頼できる最も古い史料では,経範4代・遠義[筑後権守]が「波多野本庄北方」を領有していたとする〔「吾妻鏡」参照〕910。
系図では,「経範が①長元年間(1028-36)に拝領した」とするもの〔『萩藩諸家系譜』〕や「経範の子・経秀が②康平年間(1058-65)に③後三年合戦(1083-87)の恩賞として拝領した」とするもの〔『古代氏族系譜集成〕があり,一貫性がない。
互いに矛盾する上記①・②・③の説明は下表のように整理できる。
| 当主 | 主人 | 拝領年代 | 拝領原因 | |
|---|---|---|---|---|
| ①説 | 佐伯経資 | 源頼信 | 長元年間(1028-36) | 平忠常の乱(1028)の恩賞 |
| ②説 | 佐伯経範 | 源頼義 | 康平年間(1058-65) | 前九年合戦(1050-62)の恩賞 |
| ③説 | 藤原経秀 | 源義家 | 寛治1年(1087)ごろ | 後三年合戦(1083-87)の恩賞 |
あるいは,この3代のあいだに段階的に所領を広げていった可能性もある。少なくとも,経秀の孫・遠義や曾孫・義通の代までには,波多野荘のほかに,隣接する足柄上郡大友郷・河村郷・松田郷(神奈川県小田原市・足柄上郡山北町・松田町),伊勢国度会郡・飯高郡(三重県伊勢市・松阪市)などにも所領があったことがわかっている〔「吾妻鏡」,「相模国」・「伊勢国」の項参照〕。
なお,波多野荘の本家職(名義上最上位の領主)は,敦明親王の娘・儇子内親王[1019-1098]からその養女・源麗子[1040-1114/関白藤原師実正妻]を経て,麗子の実孫(のち養子)・藤原忠実[1078-1162/太政大臣]へと伝えられている〔「近衛家文書」〕。
この点につき,仮に波多野荘の立荘が儇子内親王への寄進にあるとすれば,佐伯経範の主人である源頼義が儇子内親王の父・敦明親王の判官代として近侍していたことと関係すると思われる〔『波多野氏と波多野庄』〕11。
波多野氏の始称時期
いつ・誰が波多野氏を名乗りはじめたかは明らかでない。
信頼できる最も古い史料では,経範4代・遠義[筑後権守]遠義の子の義通・義景兄弟について,それぞれ「波多野二郎」・「波多野五郎」として所見がある〔「吾妻鏡」〕。
展開
前提(最初期の展開)
平安時代末期の波多野氏は,波多野荘を本拠としつつ,朝廷に出仕して官位を得ていた〔「尊卑分脈」〕12。
経範4代・遠義の子や孫の代からは,それぞれの領地名を名字とした。
本流は波多野荘や足上郡松田郷(神奈川県足柄上郡松田町/松田氏)を拠点とし,分流は足上郡河村(足柄上郡山北町/河村氏)や足上郡大友(小田原市大友/大友氏),足上郡菖蒲(秦野市菖蒲/菖蒲氏),足上郡沼田(南足柄市沼田/沼田氏),武蔵国新座郡広沢(埼玉県朝霞市/広沢氏)などに展開した。
いずれの系統も鎌倉時代には幕府に出仕して,全国各地に所領を得ることとなった〔当記事のほか,下表および各記事参照〕。
| 人物 | 名字 | 名字地 | 主な展開先 | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 義通 | 義経 | 有常 | 松田氏 | 相模 | 足上郡松田(足柄上郡松田町) | 伯耆 | ?(鳥取県,場所不詳) |
| 出雲 | 秋鹿郡(島根県松江市など) | ||||||
| 備前 | 御野郡(岡山市) | ||||||
| 高義 | (大槻氏) | 相模 | 余綾郡波多野荘大槻(秦野市) | 陸奥 | 山辺郡(青森県南津軽郡?) | ||
| 相模 | 余綾郡小磯(中郡大磯町) | ||||||
| 和泉 | 和泉郡(大阪府和泉市) | ||||||
| 忠綱 | 経朝 | 波多野氏 | 相模 | 余綾郡波多野荘(秦野市) | 相模 | 鎌倉郡(秦野市・鎌倉市) | |
| 美作 | ?(岡山県,場所不詳) | ||||||
| 義重 | 時光 | 越前 | 吉田郡(福井県吉田郡) | ||||
| 越中 | 礪波郡(富山県南砺市) | ||||||
| 宣時 | 山城 | 愛宕郡(京都府京都市) | |||||
| 義職 | 義定 | 伊勢 | 度会郡(三重県伊勢市) | ||||
| 秀高 | 河村氏 | 相模 | 足上郡河村(足柄上郡山北町) | 陸奥 | 志和郡(岩手県紫波郡) | ||
| 名取郡(宮城県仙台市) | |||||||
| 越後 | 岩船郡(新潟県村上市など) | ||||||
| 備中 | 川上郡(岡山県高梁市) | ||||||
| 豊後 | 大分郡(大分県大分市) | ||||||
| 経家 | 大友氏 | 相模 | 足上郡大友(小田原市大友) | 美濃 | 本巣郡(岐阜県本巣市) | ||
| 筑後 | 国内(福岡県)の各地 | ||||||
| 豊後 | 国内(大分県)の各地 | ||||||
| 肥後 | 国内(熊本県)の各地 | ||||||
| 義景 | 信景 | 広能 | 波多野氏 | - | - | 紀伊 | 名草郡(和歌山市) |
| 義忠 | 時忠 | 甲斐 | 巨摩郡(山梨県南巨摩郡) | ||||
| 泰景 | 伊勢 | 飯高郡(三重県松阪市) | |||||
| 実経 | 菖蒲氏 | 相模 | 足上郡菖蒲(秦野市菖蒲) | 石見 | 長野荘(島根県益田市) | ||
| 実通 | 沼田氏 | 相模 | 足上郡沼田(南足柄市沼田) | - | (不詳) | ||
| 実方 | 広沢氏 | 武蔵 | 新座郡広沢(埼玉県朝霞市?) | 備後 | 三谿郡(広島県三次市) | ||
東北地方
陸奥国
南北朝時代,津軽地域に波多野氏の所領があった。
- 康永1年(1342),山辺郡亀山郷(不詳/青森県の津軽平野東部?)に波多野義資[次郎]の所領があった〔「新渡戸文書」,『岩手県中世文書』〕。
波多野義資は,松田義常の孫・義秀[小磯八郎]の6代孫にあたる。なお,義秀の母は波多野義景の娘で,所領は相模国余綾郡小磯(神奈川県中郡大磯町東小磯・西小磯)にあった〔以上,「松田系図」,「佐野松田系図」参照〕。
「山辺郡」の郡域は不詳で,津軽平野東部に比定する説があるものの〔『角川地名』,『弘前市史』〕,その周辺に「亀山」の地名は現存せず,南津軽郡藤崎町に「亀岡」と「亀田」が残るにとどまる。なお,津軽平野全域を対象とすると,つがる市木造亀ケ岡と北津軽郡中泊町中里に「亀山」が現存する。特に,つがる市の「亀山」は波多野氏と関係する可能性がある(後述)。
この「亀山郷」の記録から約240年後,安土桃山時代に甲斐武田氏の遺臣という波多野氏の伝承がある。
- 天正14年(1586),鼻和郡床前村(つがる市森田町床舞)の床前館の館主・波多野勘解由が,村内に石神山勝岳院(現在地は弘前市西茂森町)を開創したとの伝承がある〔以下,『森田村誌』〕。
- 波多野勘解由は,もとは甲斐国の武田勝頼の家臣で,武田氏没落(1582)後,野呂氏に改め,大浦氏(のちの津軽氏)のもとに落ち延びて,床前館の館主に任じられたと伝える。
- 江戸時代,野呂氏の本家は,慶長年間(1596-1615)に弘前藩祐筆に任じられて波多野氏に復し,以後代々弘前城下(弘前市の中心部)で続いた。一方,庶家は床前村で野呂氏として続いた。
波多野勘解由の出自については,甲斐武田氏に仕えたと伝えることからすると,甲斐国・伊勢国に定着していた波多野義景の系統と思われる〔「甲斐国」・「伊勢国」の項参照〕。一方で,南北朝時代に,義景の系統とは別流の義資の所領が「山辺郡」にあったことからすると(前述),この義資の系統とも思われる。なお,別流と言っても,先述のとおり,義資の6代祖・義秀は母が義景の娘であって,比較的近い関係の別流であり,あるいは両系統が通婚により同化していた可能性もある13。
いずれにしても,勘解由が甲斐国から津軽地域に来住した契機は,伝承中に明言はないが,上記「山辺郡」内の所領に関係するものと想像される。
なお,現在の青森県内において,波多野氏は,上記弘前藩波多野家の子孫と思われる家のほか数軒程度しか現存しない〔『宮本姓氏』参照〕。
そこで,波多野勘解由が野呂氏に改めた点に着目し,野呂氏の分布を全国の市町村別にみると,多い順に三重県四日市市(1,100人),青森県つがる市(1,000人),青森県青森市(900人),三重県松阪市(900人)と続くなど〔『宮本姓氏』参照〕,旧伊勢国と津軽地域に偏在している。どちらも中世波多野氏の所領があった地域であるから,関連する可能性はあるが,検討を要する。
さらに,つがる市内の野呂氏の分布をみると,つがる市木造亀ケ岡亀山周辺に集中しており,前記波多野義資の領地名「山辺郡亀山郷」を連想させる。ただし,先述のとおり,「山辺郡」の郡域は津軽平野東部と推定されている。
関東地方
常陸国
戦国時代,小田氏家臣(のち土岐氏家臣)に波多野(秦野)氏の所見がある。
- 天文25年(1556,弘治2年),信太郡大谷(稲敷郡美浦村大谷)に大谷城主・波多野治宗[刑部少輔,秦治宗,秦野刑部]がいた〔「楯縫神社所蔵般若経」,『常陸国誌』,『大日本地名辞書』〕。
- その後,永禄5年(1562)に,波多野刑部少輔が根古屋城(稲敷郡美浦村大谷根古屋)に移ったとの伝承がある〔『阿見町史』〕。
出自不詳。そもそも波多野荘発祥の波多野氏かどうかも明らかでない。なお,常陸国内には那賀郡幡田(はたの)郷(ひたちなか市馬渡)がある。
また,上記のほか,同地に現住する秦野家に残る位牌には,天正14年(1586)の秦野義兼[刑部少輔]の名が見えるといい〔「美浦村お散歩団」〕,年代的には治宗の子と思われる。
現在,美浦村内では,秦野氏と波多野氏がそれぞれ数軒残る〔『宮本姓氏』参照〕。
武蔵国
南北朝時代,波多野氏の所領があった。
- 観応2年(1351),波多野高道[通貞,次郎]が,関東管領・上杉氏から,余綾郡南波多野荘(秦野市/水無川以南)のほか,「河井郷」(都筑郡河井郷(神奈川県横浜市旭区川井本町周辺)?)の「波多野出雲彦五[郎]跡」を拝領した〔「仏日庵文書」〕。
波多野高道は,波多野氏のうち波多野荘に残った忠綱の系統と思われる〔次項参照〕。そして,「河合郷」については「波多野出雲彦五[郎]跡」とあることから,もとは義重[五郎出雲守/忠綱の弟]の系統が承継していた土地であったが,同系統が足利尊氏に味方したために没収されて,足利直義に味方した波多野高道に与えられたものと考えられる。
なお,「河合郷」は,相模国に近い都筑郡河井郷(横浜市旭区川井本町周辺)に比定されるが14,当記録以後の所領関係は不明である。現在,同地周辺に波多野(秦野)氏は少ない15〔『宮本姓氏』参照〕。
江戸時代には,多摩郡に幕府旗本の波多野氏の所領があった。
- 江戸時代前期,江戸幕府旗本の波多野有元の所領が,甲斐国(山梨県)内から多摩郡(東京都の西部)に移されたとの伝承がある〔「寛政譜」〕。
この波多野氏は,伊勢国出身で,甲斐国に所領があったのは有元の父・有綱が甲府徳川家に仕えたことによるものと伝える〔「寛政譜」〕。関係は不明であるが,現在,東京都武蔵村山市中央・本町に波多野氏が多い(計260人)〔『宮本姓氏』参照〕。
相模国
波多野氏が,平安時代末期の余綾郡波多野荘(秦野市)を根拠とする豪族であり,その後,同荘周辺や全国各地に一族を展開させたことはすでに述べたとおりである。
鎌倉時代以後も相模国に拠点を置いたのは,波多野義通の4人の男子(①義常,②忠綱,③義重,④義職)16のうち,①義常と②忠綱の系統である。①義常系は松田郷を承継して松田氏として別家し,②忠綱系は波多野荘を承継して波多野氏として続いた〔表1参照〕。なお,①義常系でも波多野氏を称した家系があるほか,京都や越前に拠点を移した③義重系の所領も南北朝時代までは相模国内にあった(後述)。
以下,詳しく検討する。
- 嘉応1年(1169),波多野義景[五郎]が,余綾郡波多野荘北方(秦野市/水無川以北)を相続した〔以下,「吾妻鏡」〕。
- 建暦2年(1212),波多野経朝[次郎]が,鎌倉の前浜(鎌倉市由比ガ浜・長谷周辺)に所領を得た。
波多野義景は,義通の弟にあたる。義通の死後,一旦は義景が波多野氏の惣領を継いだものの,和田合戦(1213)により没落したため,以後義通の子・忠綱が継いだものと考えられる〔「鎌倉時代の波多野氏について」(『秦野市史研究』)〕。
波多野経朝は,忠綱の子である。鎌倉時代の忠綱系の活動は鎌倉が中心となるところ,その拠点が「前浜」にあったものと思われる。
その後,南北朝時代にも忠綱系と思われる波多野氏の所見がある。
- 観応2年(1351),波多野高道[高通,次郎左衛門尉]が,関東管領・上杉氏から,余綾郡南波多野荘(秦野市/水無川以南)の一部と武蔵国河井郷(都筑郡河合郷(横浜市旭区河井本町周辺)?)の「波多野出雲彦五[郎]跡」を与えられた〔「仏日庵文書」〕。
- その後,波多野高道は,鎌倉公方・足利氏の指示で,康安2年(1362)の畠山国清の討伐や康暦2年(1380)の小山義政の討伐にも従軍した〔以下,「雲頂庵文書」〕。
- 文和1年(1352),波多野景高[小次郎]の子・経貞[佐藤五]が,父の代官として,足利尊氏の軍に属して,武蔵国入間郡小手指(埼玉県所沢市)や相模国高座郡懐島(神奈川県茅ヶ崎市)での合戦に参加し,翌年にも,南朝との戦闘のために上洛するなどした。
- 応永3年(1396)の田村庄司の乱の際には,波多野高経[小次郎,次郎左衛門]が鎌倉の警備を担当した。
上記は瑞鹿山円覚寺(鎌倉市山ノ内)に伝わる一連の記録による。高道・景高・高経らの出自およびそれぞれの関係は不詳であるが,相模波多野氏の惣領的な地位にあり,また,「次郎」を襲名していることからして,忠綱系とみるのが妥当である。
その後,享徳4年(1455)には,彼らの子孫と思われる「波多野次郎左衛門尉」と「波多野伊賀入道」が,相模守護上杉氏に従って,伊豆国三島(静岡県三島市)での合戦に参加している〔「龍隠庵文書」〕。
戦国時代の相模波多野氏は,長享の乱(1487-1505)以降,山内上杉氏家宰の長尾氏に従ったと推定される〔以下,『波多野氏と波多野庄』〕17。そして,相模国における上杉氏・長尾氏の勢力が没落した後,永正13年(1516)に伊勢氏(のちの北条氏)が国内を統一することになるが,波多野氏流のうち,松田氏と河村氏は北条氏に従ってその所領をある程度維持したのに対し,波多野氏は北条氏家臣中に所見がなく,ここにおいて平安時代以来の本領を失ったもとの考えられる。
江戸時代には,国内の各地に波多野氏がいた記録がある。
- 江戸時代,余綾郡西小磯村(中郡大磯町西小磯),高座郡新田宿村(座間市新田宿)・中新田村(海老名市中新田)に波多野氏がいた〔『神奈川県史』,『座間市史』など〕。
いずれも出自不詳であるが,地理的には上記波多野氏の末流と考えられる。
このうち中新田村の本家には応永23年(1416)の位牌が残る〔『角川姓氏』〕。
西小磯村に関しては,鎌倉時代,波多野高義の子・義秀が「小磯」を名乗るなど〔「松田系図」〕,同村周辺には古くから波多野氏の所領があったことがわかっている。特に,文亀1年(1501)には「波多野次郎左衛門尉」が関東管領から「小磯遠江守跡」を領有していることについてその根拠となる資料の提出を求められており〔「雲頂庵文書」〕,16世紀に至ってもなお小磯が波多野氏に承継されていたことが窺える。
現在,神奈川県内では,海老名市中新田に波多野氏(90人)や秦氏(70人),相模原市長竹に畑野氏(70人),藤沢市高倉に秦野氏(60人),横浜市戸塚区戸塚町に秦野氏(50人)が多い〔『宮本姓氏』参照〕。
中部・北陸地方
越後国
直接的な証拠はないが,鎌倉幕府御家人の波多野氏が越後国に関して一定の権限を持っていた可能性がある〔以下,『秦野市史』参照〕。その具体的な根拠は,波多野氏の僧侶・定憲[波多野義重の兄弟または甥]が「越後阿闍梨」を号している点〔「吾妻鏡」〕18や「波多野五郎左衛門尉」[波多野義重の子・宣時?]が越後国内の訴訟に関して同国御家人の動員に関与している点〔「後藤文書」〕19である。
なお,関連は不明であるが,波多野氏流河村氏が,鎌倉時代に岩船郡荒河保(新潟県村上市・岩船郡関川村など/荒川流域)に地頭職を得ている〔「河村氏」〕。
戦国時代には,蒲原郡に波多野氏にまつわる伝承がある。
- 永生6年(1509),蒲原郡日出谷村(東蒲原郡阿賀町日出谷)の波多野久次郎が,白山神社を開創したとの伝承がある〔「新編会津風土記」〕。
出自不詳。
現在,新潟県では,新潟市(400人),新発田市・阿賀野市・五泉市(各300人)に波多野氏が多く,中でも阿賀野市保田(110人)で特に多い。阿賀野川流域に波多野氏が多い。なお,阿賀野市保田の籏野氏(30人)は,明治年間に波多野氏から改めたと伝える。また,波田野氏が東蒲原郡阿賀町(500人)に多い〔以上,『宮本姓氏』参照〕。
越中国
鎌倉時代,礪波郡野尻荘(富山県南砺市野尻)に波多野義重の系統の所領があったことが確実視されている。その根拠は,鎌倉時代中期の波多野時光[左衛門尉/義重の子]が「野尻」を号している点〔「松田系図」〕や鎌倉時代後期の「越中国野尻村」の領主に波多野氏がみえる点〔「浄阿上人縁起」〕などである。推定では,承久の乱(1221)の恩賞地で,越前国吉田郡志比荘(福井県吉田郡永平寺町)とともに拝領したものと考えられる〔『福井県史』/「越前国」の項参照〕。
しかし,野尻波多野氏は,南北朝時代に足利尊氏および室町幕府に対抗する勢力に味方したため,その所領を没収された。
- 文和3年(1354),礪波郡野尻荘(富山県南砺市野尻)の波多野下野守とその庶子らの旧領が,足利尊氏により富樫氏に与えられた〔「四天王寺・如意宝珠御修法日記紙背文書」,『富山県史』〕。
- 延文1年(1356),波多野下野権守が,礪波郡石黒荘院林郷(富山県南砺市院林)の濫妨を幕府により停止させられた〔「三宝院文書」,『大日本史料』〕。
以後の動向は不詳である。現在,高岡市内に波多野氏が数軒あるが〔『宮本姓氏』参照〕,関係は不明である。
加賀国
江戸時代,加賀藩士に波多野家があった。寛永4年(1627)に波多野長左衛門がいた〔「加賀藩侍帳」,『角川姓氏』〕。
同じく加賀藩に畑野家もあるが,関係は不明である。
越前国
鎌倉時代,吉田郡に波多野氏の所領があった。
- 寛元4年(1246),吉田郡志比荘(福井県吉田郡永平寺町)の地頭・波多野義重が,曹洞宗開祖の道元を支援して,荘内に永平寺を開創した〔「建撕記」,『大日本史料』〕。
波多野義重[出雲守]が志比荘地頭職を得たのは,承久の乱(1221)の戦功によるものと思われる〔『福井県史』〕。道元は曹洞宗の開祖で,永平寺は曹洞宗の総本山の一つである。
義重の系統は,同荘を本領としつつ20,京都を拠点として六波羅評定衆を世襲し,室町時代に至っても幕府評定衆・奉公衆などとして存続した。戦国時代には京都を離れ,吉田郡花谷(吉田郡永平寺町花谷)の波多野城を拠点とし,戦国時代末期までには越前守護・朝倉氏と姻戚関係を結ぶなどしてその家臣となった。天正1年(1573)に朝倉氏が織田氏に敗れた後は,帰農して在地の有力者として存続した〔以上,『永平寺町史』,『福井県史』参照〕。
また,江戸時代の福井藩士の波多野家は,当家からの分家にあたるという〔「永平寺文書」〕。
現在も花谷には子孫が居住し,永平寺との関係も続いている。
甲斐国
鎌倉時代前期,波多野義景の子の盛通が「岩間三郎」を,盛通の甥・時忠が「西島二郎」を名乗り,時忠は甲斐国に居住したとされる点〔「波多野系図」〕21から,それぞれ八代郡岩間(西八代郡市川三郷町岩間)と巨摩郡西嶋(山梨県南巨摩郡身延町西嶋)に所領があったものと思われる。なお,両地は富士川を挟んで向かい合う位置にある。
しかしその後,八代郡岩間については,盛通らが和田合戦(1213)において和田氏に味方したために没収され,同じく佐藤氏流の伊賀氏に宛て行われている〔「伊賀氏」参照〕。
南北朝時代には,確実な史料に波多野氏の所見がある。
- 観応2年(1351),甲斐国の波多野清秀[又次郎]が,甲斐守護の武田氏の指示で,関東に下向する足利尊氏を警護し,その後,周辺の合戦にも従軍した〔「黄薇古簡集」〕。
波多野清秀の具体的な根拠地は不明であるが,上記波多野義景の系統と思われる。また,甲斐守護の武田氏は安芸守護も兼任しているが,同じく義景の系統で伊勢国飯高郡真弓御厨(三重県松阪市阪内町)地頭の波多野景氏が安芸守護の武田氏に従っている〔「黄薇古簡集」〕。南北朝時代に至っても,義景の系統が伊勢国・甲斐国の権益を併せて承継していたことがわかる。
清秀以後の甲斐波多野氏の動向については不詳で,尾張国において管領・斯波氏の被官となったとする説がある〔『波多野氏と波多野庄』〕。
また,関係は不明であるが,安土桃山時代の陸奥国の大浦氏(津軽氏)家臣の波多野氏は,甲斐武田氏に仕えていたが,同氏没落後に甲斐国から陸奥国鼻和郡(青森県つがる市)に移ったと伝える〔「陸奥国」の項参照〕。
現在,山梨県内には幡野氏が多く(1,300人),特に大月市(400人),甲府市(200人),南巨摩郡身延町(200人)に集中している〔『宮本姓氏』参照〕。
大月市域では,地名として近世より猿橋郡幡野(大月市猿橋町)が見え,同地には八幡神社が鎮座するから,その地名も同社由来と思われる。そうすると,大月市に多い幡野氏は,(波多野荘発祥というより)猿橋郡幡野発祥とみるのが穏当である。
他方,南巨摩郡身延町の幡野氏については,地理的には鎌倉時代の波多野盛通や時忠の所領に関係すると思われるが,南巨摩郡切石村(南巨摩郡身延町切石)の幡野家の伝承によれば源義家[1039-1106]に仕えた藤原為良[幡野藤九郎]の子孫で享禄年間(1528-32)に甲斐国に来住したという〔『峡中家歴鑑』,『角川姓氏』〕。
信濃国
鎌倉時代末期,嘉暦4年(1329)の伊那郡伴野荘(下伊那郡豊丘村・松川町・喬木村周辺)の地頭に「上野前司」が見え〔「守矢文書」〕,同人は波多野宣通に比定される〔『下伊那史』〕22。宣通は,義重の系統(京都などを拠点として六波羅評定衆を世襲した系統)にあたる〔「三河国」または「山城国」の項参照〕。
三河国
戦国時代,宝飯郡に波多野氏がいた。
- 文明9年(1477),宝飯郡御津荘森下(愛知県豊川市御津町豊沢)の大沢城主・波多野時政[全慶]は,三河守護細川氏の援助を受けて,主君の一色氏を討った。しかし,明応2年(1493)には,同じく一色氏の家臣であった牧野成時[古白]に討たれた〔「波多埜氏譜牒」,『御津町史』,『定本東三河の城』など〕。
- 先祖は波多野義重の曾孫・宣通で,宣通が足利尊氏に属して軍功を挙げて三河国内に所領を得,その後,宣通の孫・忠義のとき,宝飯郡御津荘森下(愛知県豊川市御津町豊沢)に来住し,以後代々同地の大沢城を拠点としたとの伝承がある。
先祖という波多野宣通は,「太平記」の諸本や「松田系図」に所見があり23,義重の系統(京都や越前国などを拠点として六波羅評定衆を世襲した系統)である〔「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」,「山城国」の項参照〕。
戦国時代,波多野時政の子孫は,桶狭間の戦い(1560)や長篠の戦い(1575)などに従軍しているから,時政討死(1477)後も森下を拠点とする小領主として続いたと考えられる〔『定本東三河の城』〕。
江戸時代,宝飯郡・渥美郡に波多野氏がいた。
- 寛永年間(1624-44),宝飯郡森下村(愛知県豊川市御津町豊沢)の秋葉神社の神職に波多野忠房[左右衛門]〔「神社宝飯郡史」〕。
- 貞享2年(1685),宝飯郡御馬村(豊川市御津町御馬)の組頭に波多野六太夫〔「神社宝飯郡史」〕
- 寛政4年(1792),三河吉田藩士に町郡奉行の波多野千右衛門〔「豊橋市史」〕
中世の大沢城主・波多野氏の子孫と思われる。
上記のほか,「羽田野」氏が,宝飯郡牛久保(豊川市牛久保町)の尾張藩士,宝飯郡御馬村(豊川市御津町御馬)の住人,宝飯郡上佐脇村(豊川市御津町上佐脇)の神官,渥美郡羽田村(豊橋市花田町)の八幡社の神官などがいる。家伝等は未調査であるが,地理的には同族と考えられる。
現在,豊川市御津町御馬周辺に波多野氏が多い〔『宮本姓氏』参照〕。
尾張国
江戸時代,尾張藩士に波多野氏がいた。
- 寛永14年(1637),伊勢国「甲村」(三重県)の赤井田氏出身の波多野正成[権兵衛]が,尾張藩に仕官した。正成3代・重直[林左衛門]の弟・右門は,享保3年(1718)に藩士を辞して,中島郡奥村(一宮市奥町)に住んだ〔「士林泝洄」,『角川姓氏』〕。
- 寛政から文政年間(1789-1830)ごろ,尾張藩士・波多野林左衛門の給地が愛知郡鳴海荘末森村(名古屋市千種区城山町)にあった〔「郡村徇行記」〕。
伊勢国
平安時代末期から鎌倉時代にかけて,度会郡・飯高郡などに波多野氏の所領があった。
- 治承5年(1181),波多野義通[次郎]の子・忠綱[小次郎]と孫・義定[三郎]が,義通の遺領を相続して,伊勢国に居住した〔「吾妻鏡」〕。
- 文治3年(1187),波多野義定[宇治蔵人三郎,義貞]の代官が,多気郡櫛田郷(三重県松阪市櫛田町)内の土地を押領したとして訴えられ,その後,所領を没収された〔「吾妻鏡」〕。
- なお,飯高郡真弓御厨(松阪市阪内町)について,波多野遠義にはじまり,その子・義景(義通の弟)の系統が以後戦国時代に至るまで代々承継したと伝える〔「黄薇古簡集」〕。
波多野氏は,遠義以来,伊勢国各地に所領を得ていたようで,具体的に明らかになっている地名では飯高郡真弓御厨(松阪市阪内町)のほか,遠義4代・義定が「宇治蔵人三郎」を〔「吾妻鏡」〕,遠義5代・義泰が「中島太郎」を称していることから〔「松田系図」24〕,度会郡宇治(伊勢市宇治館町・宇治今在家町・宇治中之切町・宇治浦田町周辺)・中島(伊勢市中島町・二俣町・辻久留町周辺),南北朝時代の地頭の記録〔「波多野貞雄氏所蔵文書」(後掲)〕からの推測では一志郡大阿射賀御厨(松阪市大阿坂町周辺)などが挙げられる。
なお,治承5年(1181)の時点では「住于当国」とあって伊勢国に居住していたようであるが,文治3年(1187)には「代官押領」とあるから,鎌倉幕府の成立に伴って相模国に戻り,以後代官を派遣して管理していたものと考えられる〔「吾妻鏡」,『秦野市史』〕。
また,諸系図によると,義定[宇治蔵人三郎]の父・義職[義元]が伊勢権守に補任されている〔「尊卑分脈」〕ほか,義職の妻は伊勢神宮の神官の娘で〔「吾妻鏡」〕,義職の子・義定の妻も同神官の荒木田氏であったとされる〔「松田系図」,「荒木系図」,『続群書類従』〕。
南北朝時代には,飯高郡と一志郡の地頭に波多野氏がいた。
- 建武1年(1334),波多野景氏[彦八郎]が,飯高郡真弓御厨(松阪市阪内町)の地頭職を承認され,翌年,安芸国各地の戦闘に従軍した〔「黄薇古簡集」,『四日市史』,『秦野市史』など〕。
- 南北朝時代初期,一志郡大阿射賀御厨(松阪市大阿坂町周辺)の地頭・波多野蓮寂[七郎入道]が,延元1年(1336)に京都(京都市)各地の戦闘に参加し,康永1年(1342)には度会郡玉丸(度会郡玉城町田丸)の玉丸城,飯高郡阪内(松阪市阪内町)の阪内城での合戦に参加するなどして軍功を挙げた〔「波多野貞雄氏所蔵文書」,『四日市市史』〕。
波多野景氏は義景の系統で,義景系の所領は甲斐守護・武田氏の統治下の甲斐国内にも所在したと考えられるが〔「黄薇古簡集」,「甲斐国」の項参照〕,伊勢国内の地頭である景氏が安芸国(広島県の西部)各地の戦闘に参加したのは安芸守護が甲斐武田氏の庶流であったことと関係するものと考えられる。
一方,波多野蓮寂は,義景の系統ではなく,前記の義職の系統と思われる。その根拠は,義定の法名が「蓮融」,その子朝定の法名が「蓮阿」であり,蓮寂もこれらを意識した法名と考えられるためである。
そうすると,伊勢国には依然として義景系と義職系の両系統の所領があったことになる。
さらに,両系統は戦国時代まで続いており,永生7年(1510)に蓮寂の子孫の小四郎が平秀盛より伝授された蹴鞠に関する文書〔「波多野貞雄氏所蔵文書」〕や永禄6年(1563)に景氏の子孫の弥九郎が父・景秀[平左衛門尉]から系図等を譲り受けた記録〔「黄薇古簡集」〕がある。
また,江戸幕府旗本の波多野氏は,伊勢国出身といい,同族の可能性がある。
- 戦国時代,伊勢国の波多野有俊[小次郎]が,伊勢国人の雲林院持行[兵部大輔]に仕えたとの伝承がある〔以下,「寛永系図」,「寛政譜」〕。
- 有俊4代有生は,伊勢国人の関氏を経て甲府藩・駿府藩主の徳川忠長に仕え,5代有綱から幕府旗本となったと伝える。同家の所領は,当初甲斐国(山梨県)に200石あったが,6代有元のときに武蔵国多摩郡(東京都)に移されたという。
- なお,先祖は波多野義通という。
先祖が義通であるとすると,義職系ということになる。
また,同じく旗本の中島氏は,伊勢国出身で,先祖は波多野義職の孫・義泰[中島太郎]であるという〔「寛政譜」〕。
現在,津市(200人)や亀山市(40人)で波多野氏が見られるが〔『宮本姓氏』参照〕,以上で検討した波多野氏の地頭・武将らとの関係は不明である。
近畿地方
山城国
平安時代末期より,波多野氏が,波多野荘(神奈川県秦野市周辺)を本拠としつつ,朝廷に出仕して官位を得ていたこと,その後,源平合戦や承久の乱の恩賞地を基盤として全国に展開したことは,冒頭で述べたとおりである。
このうち,波多野義通の子・義重の系統が,鎌倉時代から室町時代にかけて京都に拠点を置いたことがわかっている。
- 仁治3年(1242),波多野義重が,愛宕郡六波羅(京都市東山区轆轤町)の六波羅蜜寺近くの自邸で,曹洞宗開祖・道元から説法を受けた〔「正法眼蔵」〕。
- 建長4年(1252),波多野義重[出雲前司]が,6代将軍・宗尊親王の鎌倉下向の際,京都からこの隊列に従った〔「吾妻鏡」〕。
- 建長5年(1253),波多野義重が,新日吉大社(京都市東山区妙法院前側町)で行われた新日吉小五月会の流鏑馬で,在京御家人として射手を務めた〔「厳島野坂文書」〕。
波多野義重[五郎,出雲守,宣政]は,主に極楽寺流北条氏(北条重時の子孫)に仕えた在京御家人で,六波羅評定衆を務めたために六波羅に邸宅を構えた。なお,上記説法から4年後の寛元4年(1246)には,所領の越前国吉田郡志比荘(福井県吉田郡永平寺町)に道元を招いて永平寺を開創している〔「越前国」の項参照〕。
その後,義重の子孫は,京都と越前国などを拠点として25,六波羅評定衆を世襲した〔「建治三年記」,「公衡公記」など〕。(このほか,義重系の人物に関しては,多くの活動の記録が残っているが,本記事では割愛する26。)
鎌倉幕府が後醍醐天皇の勢力により打倒された元弘の乱(1331-33)においては,元弘1年(1331)に幕府方である六波羅探題軍のうちに義重系の波多野宣通[上野前司]と通貞[因幡前司]が見える〔「天正本太平記」〕。しかし,その後の六波羅探題軍の殉死者の一覧〔『六波羅南北過去帳』〕に波多野氏の名はなく,敗戦が濃厚になるころには幕府方を離れていたものと見られる。実際,建武政権では通貞の子・朝通[幼名毘沙王丸]が若狭国目代を務め,その後,建武5年(1338)には,建武政権を離反した足利高氏の軍勢のうちに通貞[因幡前司入道]が見え〔「小早川文書」/『南北朝遺文』中国四国編,789〕,室町幕府成立後の康永3年(1344)には幕府引付衆に名を連ねている〔「白河結城文書」/『南北朝遺文』東北編,706〕27。
さらに,通貞・朝通父子の後は,幕府奉公衆(評定衆,奉行衆)を世襲した。具体的には,応安5年(1372)の義重6世・通郷[肥後入道元喜]の記録以降,通春─通定─通直─通秀と5代にわたって同職を世襲しているが〔「花営三代記」,「斎藤基恒日記」〕,永禄6年(1563)の通秀[彦五郎]〔「永禄六年諸役人附」〕よりあとは幕府関連の記録から消える。そうすると,通貞系の波多野氏は,この前後で本領の越前国吉田郡志比荘(福井県吉田郡永平寺町)に退いたものと推測される〔以上,『永平寺町史』参照〕。
越前国では,朝倉氏の家臣あるいは姻族となって一体化し,朝倉氏衰退後は帰農して江戸時代を迎えた。
このほか,江戸幕府の徒士の波多野氏は,先祖を波多野義通とし,山城国山田村(不詳/与謝郡,葛野郡,相楽郡に山田村あり)に住んだことから代々山田氏を称していたが,寛政7年(1795),山田保春のとき,波多野氏に復したという〔「寛政譜」〕。
現在,旧山城国域では,京都市北区雲ケ畑中畑町(50人)で波多野氏が多い。(なお,京都府全体で見ると,京都市(570人)のほか,綾部市(300人)や舞鶴市(300人)で波多野氏が多い。)
摂津国
南北朝時代,延元4年(1339)および正平16年(1361)に摂津国の「畑野左(右)衛門太郎跡」が南朝の武士らに与えられた記録〔「南行雑録」,『大日本史料』〕があるが,場所の詳細や,そもそも波多野荘発祥の波多野氏であるか不明である。
戦国時代,川辺郡に波多野氏の所領があった。
- 15世紀末ごろ,丹波国多紀郡(兵庫県丹波篠山市)の波多野清秀が,川辺郡野間荘時友郷(兵庫県尼崎市武庫之荘)の代官を「久しく」務めていた〔「醍醐寺文書」,『兵庫県史』〕。
- 永正5年(1508),波多野清秀の子・元清[孫四郎]が,川辺郡杭瀬荘(尼崎市杭瀬町)を違乱したとして天龍寺に訴えられた〔「天竜寺文書」,『大日本史料』〕。
波多野清秀は,戦国時代,幕府管領・細川氏に仕え,丹波国多紀郡を本拠として桑田郡・船井郡をも支配した丹波国の有力国人である。その出自は,異説も多いが,石見国の波多野氏の系統と考えられる〔以上,「丹波国」・「石見国」の項参照〕。
丹波波多野氏は,天正7年(1579)に滅ぼされるが,その後の動向は不詳である。
現在,旧摂津国域の市区町村では,兵庫県西宮市(90人),尼崎市(80人),大阪府茨木市(60人),豊中市(50人),兵庫県神戸市東灘区(50人)の順で多い。
河内国
鎌倉時代初期の交野郡内の地頭に波多野氏流と思われる人物の記録がある。
- 建久5年(1194)の交野郡山田荘(大阪府枚方市の中央部付近)の地頭に「左藤三藤原盛高」がいた〔「豊田家文書」/『鎌倉遺文』738〕。
この「左藤三藤原盛高」は,その年代や「左藤」(佐藤)を称することからして,波多野盛高[弥藤二左衛門尉]と思われる〔「尊卑分脈」,「松田系図」,「佐野松田系図」参照〕。盛高は,松田義経の孫で,大槻高義の子にあたり〔「尊卑分脈」,「佐野松田系図」〕,和泉国和泉郡軽部郷(大阪府和泉市・泉北郡忠岡町)にも地頭職を得ている〔「和泉国」の項参照〕。
また,同じく交野郡内で鎌倉時代より続くという波多野氏の伝承がある。
- 南北朝時代,南朝楠木氏の家臣・波多野帯刀が,交野郡茄子作郷(大阪府枚方市茄子作)の土井城を拠点としていたが,その後落城したとの伝承がある〔「北河内の今昔100話」〕。
- 波多野帯刀の先祖は,茄子作・高田(枚方市茄子作・高田)周辺を開発した「波多野朝臣」で,鎌倉幕府の有力御家人であったと伝える〔「河内・歴史の古里」〕。
波多野帯刀の子孫という端野(はしの)家に伝わる伝承。同地の円墳「大将軍塚」は帯刀(または「朝臣」)の墓で,この東にはその家臣の奥野氏,「掃部」氏,清水氏の墓があったという〔「北河内の今昔100話」〕。
先祖の「波多野朝臣」の実名等は不詳であるが,地理的には前記の山田荘地頭・波多野盛高が近く,この一族郎党が茄子作・高田の開発に取り組んでいた可能性は十分考えられる。
現在も枚方市に端野氏(130人),波多野氏(40人)が見え,旧河内国域の市町村では最も多い。なお,波多野氏は,寝屋川市(40人)にも同程度見えるが,むしろ対岸(旧摂津国側)の茨木市(60人)の方がやや多い〔以上,『宮本姓氏』参照〕。
和泉国
鎌倉時代中期,和泉郡内の地頭に波多野氏がいた。
- 宝治2年(1248),和泉郡軽部郷(大阪府和泉市・泉北郡忠岡町)の地頭に「波多野弥藤二左衛門尉」がいた〔以下,「久米田寺文書」,『岸和田市史』〕。
- 「弥藤二左衛門尉」は,承久の乱(1221)の恩賞として同郷を拝領したという。
「波多野弥藤二左衛門尉」の名は「吾妻鏡」や「六条八幡宮造営注文」にも見え,その年代や通称から「尊卑分脈」や「波多野系図」の波多野盛高に比定される。なお,盛高は,交野郡山田荘(枚方市の中央部付近)の地頭職も得ている〔「河内国」の項参照〕。
現在,旧和泉国域に波多野氏等はほとんどいない〔『宮本姓氏』参照〕。
紀伊国
鎌倉時代中期ごろ,名草郡内の地頭に波多野氏がいた。
- 鎌倉時代中期ごろ,名草郡勢多郷(和歌山市小瀬田・薬勝寺・仁井辺周辺)の地頭に波多野広能[佐藤左衛門尉]がいた〔「薬王寺文書」,『海南市史』〕。
上記は正応2年(1289)から始まる勢多郷地頭・金持氏と同郷の薬勝寺との間の裁判資料による。波多野広能は,「波多野系図」で義景の孫とされる「左衛門尉弘義」と思われ,上記のほか,宝治1年(1247)の新日吉小五月会での流鏑馬において,波多野義重[宣政]の的立を務めた記録〔「黄葉記」〕がある。
現在,旧紀伊国域では,波多野氏はほとんどいないが,紀の川市長山に秦野氏(110人)が多い〔『宮本姓氏』参照〕。
丹波国
戦国時代,多紀郡・氷上郡などを拠点とした国人の波多野氏がいた。
- 幕府管領・細川氏に仕えた波多野清秀[孫右衛門尉]が,応仁の乱(1467)での一連の戦功により多紀郡(兵庫県丹波篠山市)の小守護代に任じられて同郡に来住し,その後,2代・元清のころから多紀郡八上(丹波篠山市八上)の八上城を拠点とした。3代・秀忠のころには,多紀郡・桑田郡・船井郡の3郡を支配し,同家は丹波国西部の有力国人にまで成長した。しかし,16世紀半ばに三好氏や松永氏と争って疲弊していたところ,天正7年(1579),5代・秀治のとき,織田氏家臣・明智氏の軍勢によって滅ぼされた〔以上,『丹南町史』など参照〕。
- 2代・元清は,永正5年(1508)に桑田郡上村荘(京都府亀岡市本梅町平松・中野・井手周辺)の代官職を得て,以後同職を世襲した〔「実隆公記」,「御湯殿日記」〕。
- 3代・秀忠の弟または庶流にあたる秀親は,天文3年(1534)に船井郡(京都府南丹市・船井郡京丹波町周辺)の郡代に任じられた〔「能勢文書」〕。
初代・波多野清秀[孫右衛門,宗栄/1443-1504]は,石見吉見氏の出身で,寛正1年(1460)・18歳のとき入洛し,管領・細川勝元に仕え,細川氏の助言により母方の波多野氏に改めたとの説明が定説となっている〔「幻雲文集」,『丹南町史』,『兵庫県史』など〕。
清秀の父方の吉見氏については,同氏当主の頼興の弟・頼高[小太郎]が細川勝元に仕えているから〔「幻雲文集」,『津和野町史』〕,波多野清秀も頼高と同じくして細川氏に出仕したものと思われる。
清秀の母方の波多野氏については,代々周防大内氏に仕えていたといい〔「幻雲文集」〕,実際,15世紀の大内氏家臣に波多野氏が見える。この波多野氏の出自は,安芸国三谿郡(広島県三次市)の系統か石見国美濃郡(島根県益田市)の系統の可能性が考えられるところ,石見波多野氏の方が吉見氏とは近い関係にある。具体的には,15世紀前半に波多野氏が吉見氏と結託して益田氏に対抗していたほか,16世紀半ばごろには,大内氏(および毛利氏)家臣に吉見氏から改氏した波多野興滋,吉見氏重臣に吉見隆頼の娘を妻とした波多野滋信がいた〔以上,「石見国」,「周防国」,「長門国」の項参照〕。
下記系図は,信頼できる史料(およびそれらの考証)をもとに構成した丹波波多野氏の系図である。このうち,秀親については,3代・秀忠の弟とする説〔『丹南町史』など〕もあるが,下図のように秀長を父とする別流として捉える説〔「波多野氏の丹波国支配をめぐって」〕もある。
また,丹波波多野氏の庶流が氷上郡にもいたとの伝承がある。
- 天文7年(1538),丹波波多野氏庶流の波多野宗高が,美作国から来て,氷上郡氷上(丹波市氷上町)の氷上城(霧山城)を拠点とし,以後天正7年(1579)に落城するまで,宗高─宗長─宗貞と続いたとの伝承がある〔「籾井家日記」,『生郷村志』,『日本城郭大系』〕。
この伝承は丹波波多野氏の遺臣という籾井氏による「籾井家日記」の記述にもとづくが,同書には明らかに事実と異なる記載が多い。宗高以下3代についても,その実在を裏付ける確かな史料はなく,氷上城および館の遺構が残るにとどまるから,そのまま信用することは難しい〔以上,『生郷村志』,『日本城郭大系』参照〕28。
また,同日記は,前掲の定説とはおよそ異なる系譜・人名と架空の事績を載せつつ,丹波波多野氏は伯耆国の波多野氏流松田氏の系統29で,因幡国八東郡(八頭郡八頭町)の波多野氏はこの庶流であるなどとしている〔「籾井家日記」,『多紀郷土史考』参照〕。これもまた全部を信用することはできないが,部分的に類似する伝承が関係先の因幡国八東郡(八頭郡八頭町)と但馬国朝来郡(兵庫県朝来市)にもある〔『山東町誌』,「因幡国」の項参照〕。
江戸時代,多紀郡に波多野氏がいた。
- 承応2年(1652)・明暦3年(1657),多紀郡味間奥村(兵庫県丹波篠山市味間奥)に波多野定吉[源左衛門]がいた〔以下,『角川地名』〕。
- 波多野定吉[源左衛門,幼名・甚蔵]は,多紀郡八上(丹波篠山市八上)の八上城主5代・秀治[右衛門太夫]の次男で,秀治討死(1579)後,乳母とともに黒田村(丹波篠山市黒田)に落ち延び,11歳のとき味間村(丹波篠山市味間奥)の松尾山文保寺に入門してその後寺主となったが,30歳のときに還俗し,味間村に居住したとの伝承がある。また,篠山藩主3代・松平忠邦のとき,味間および小野原(丹波篠山市今田町上小野原・下小野原)の郷代官(2郷7村/3,210石余)となったという。
現在,旧丹波国域で波多野氏が多いのは兵庫県丹波篠山市味間奥(40人)と今田町今田新田(20人)で〔『宮本姓氏』参照〕,上記八上城主であった波多野氏と関係すると思われる。
但馬国
安土桃山時代の波多野氏の伝承がある。
- 永禄2年(1559),因幡国八東郡日下部(八頭郡八頭町日下部)の高平城主・波多野秀真が丹比氏によって謀殺されたため,秀真の弟・秀光と子・孫次郎が,朝来郡礒部荘大内(兵庫県朝来市山東町大内)に逃れたとの伝承がある〔以下,『朝来志』,『山東町誌』〕。
- 秀光の孫・直之は,丹波福知山藩(京都府福知山市)の藩士となり,元和6年(1620)には,藩主・有馬氏の移封に従って筑後久留米藩(福岡県久留米市など)に移ったといい,他方,直之の弟・宗閑は,大内に残って家を継ぎ,医業に従事したという。
この伝承は『朝来志』(1903年刊)所収のもので,朝来郡大内(朝来市山東町大内)周辺に在住の子孫らによる伝承30と思われるが,旧地である因幡国八東郡西御門(八頭郡八頭町西御門)の波多野家にもこれと類似した伝承が残るから〔『山東町誌』〕,同族とみてよいと思われる。
なお,その八東郡の波多野氏は,「籾井家日記」(前述)と同様に,因幡波多野氏を丹波波多野氏の庶流としているが確証はない〔「因幡国」の項参照〕。
子孫は現在も朝来市山東町大内(40人)を中心に残っており,朝来市全体では140人にのぼる〔『宮本姓氏』参照〕。
中国地方
因幡国
鎌倉時代末期,八東郡の地頭に波多野氏がいた。
- 文保1年(1317),八東郡四部保(鳥取県八頭郡八頭町)の地頭・波多野弥五郎,六郎,六郎四郎,孫四郎入道らが,同じく地頭の斎藤氏の一族とともに,領家の検注を拒否して年貢を抑留し,その他濫妨をはたらいたとして訴えられた〔「師守記」,『平凡地名』,『角川地名』〕。
この波多野氏と斎藤氏はともに六波羅探題に仕えた家系で〔『平凡地名』〕,波多野氏についていえば義重[五郎]の系統ということになる〔「山城国」の項参照〕。弥五郎らは,年代的には義重から2〜4世代後の人物と思われる31。
なお,確かな証拠はないが,(八上郡大江郷の伊田氏(後述)などと同様に,)早ければ承久の乱(1221)後には,すでに当地を拝領していた可能性もある〔『新編八頭郡誌』〕32。
その後,南北朝時代にも国内に波多野氏が見える。
- 観応3年(1352),高草郡古海郷(鳥取市古海)内の相論に際し,幕府の指示で,波多野六左衛門尉が,伊田太郎左衛門尉とともに現地に派遣された〔「東福寺文書」,『大日本史料』〕。
- 文和・延文年間(1352-60)ごろ,因幡国の武士に波多野氏がいたほか,当時,山陰地方各国の守護を兼任した山名氏の重臣に波多野氏がいたという〔「太平記」〕。
この波多野氏は,「東福寺文書」だけでなく,「太平記」でも八上郡大江郷(八頭郡八頭町の大江川流域)の伊田氏と並んで所見があるから,大江郷に接する八東郡四部保の波多野氏の系統とみてよいと思われる。
戦国時代には,八東郡に波多野氏の伝承がある。
- 永禄2年(1559),山名氏の重臣で八東郡日下部(八頭郡八頭町日下部)の高平城(隆平城,日下部城)の城主・波多野秀真[民部大輔]が,丹比氏によって謀殺されたとの伝承がある〔「因幡志」〕。
- 秀真の弟・秀光と子・孫次郎は,但馬山名氏を頼って但馬国朝来郡礒部(兵庫県朝来市山東町)に逃れたと伝える〔『朝来志』,『山東町誌』〕。
- 秀真の子・太兵衛は,八東郡西御門村(八頭郡八頭町西御門)の郷士・高木氏のもとに預けられ,その後,高木氏を称し,子孫は明治年間に波多野氏に復したという〔『八東町誌』〕。
- また,近隣の大門城(八頭郡八頭町大門),ヨシガ城(八頭郡八頭町西御門),後山城(八頭郡八頭町市谷),天神山城(八頭郡八頭町福井)も波多野氏の出城であったという〔『山陰の城』,『日本城郭大系』〕。
この波多野氏もまた,高平城をはじめとする同氏の各拠点が四部保(四分保)内に所在することから,この伝承が史実であるとすれば,鎌倉時代末期の四部保地頭・波多野弥五郎らの系統と思われる3334。
一方で,八東郡西御門(八頭郡八頭町西御門)の波多野家に伝わる系図は,「籾井家日記」と同様に,一次史料等には所見のない人名・事績を載せながら,①因幡波多野氏と丹波波多野氏は伯耆国の波多野義基を共通の祖先とする同族で,②丹波波多野氏が嫡流で因幡波多野氏が庶流という関係にあり,③戦国時代の丹波波多野氏の当主・秀治は因幡波多野氏からの養子であるとする〔『山東町誌』35・「丹波国」の項参照〕。
①について,伯耆国の波多野義基は,「松田系図」や「佐野松田系図」に所見があり,鎌倉時代に伯耆国に定着した波多野氏流松田氏の系統である。しかし,本項や「丹波国」の項で指摘したとおり,因幡波多野氏は八東郡四部保地頭の系統(波多野義重の系統),丹波波多野氏は石見国美濃郡地頭の系統(波多野実経の系統)である可能性が高く,両氏がともに伯耆松田氏の系統であるとは考えにくい。
そして,同系統でない以上,②嫡流庶流の関係も否定されることになる。ただし,仮に因幡波多野氏の秀真・秀光兄弟が実在したとすれば,一次史料に所見のある丹波波多野氏もまた「秀」を通字としていることから,少なくとも戦国時代ごろにおいては両氏が娘や③養子を送るなどして同族化していた可能性も考えられないわけではない。しかし,そのことを裏付ける証拠がない上,そもそも当伝承において秀治以外の丹波波多野氏の人名が一次史料等と一致しない点や年代が整合しない箇所がある点からすると相当疑わしく,むしろ因幡波多野氏を丹波波多野氏に無理にこじつけた記述のようにもみえる。
なお,因幡波多野氏の重臣に松田氏がおり〔『船岡町誌』〕,仮にこれが伯耆松田氏の一族であったとすれば,すでに系図を失っていた因幡波多野氏が重臣・松田氏の系図を借用した上で(①),丹波波多野氏の同族であるように見せかけた(②,③)という可能性も考えられる36。
智頭郡には,安土桃山時代の波多野氏の伝承がある。
- 天正年間(1573-92),智頭郡南方村(八頭郡智頭町南方)の水無城の城主・波多野丹波守が富沢谷に落ち延び,その後,周囲を開発し,名字に因んで「波多村」(八頭郡智頭町波多)と命名したとの伝承がある〔『八頭郡誌』〕。
これまでの記録・伝承と異なり,四部保からはやや離れるが,四部保の波多野氏の同族としても不自然ではない。
現在,八頭郡八頭町には西御門と才代に数軒の波多野氏があるにとどまり,旧因幡国域全体をみても集住地域はない。上記で言及した郷士の高木氏や重臣の松田氏は八頭町内に残る。ほか,八頭郡智頭町南方に波多氏(20人)が残る。
伯耆国
- 建武2年(1335),伯耆国に波多野氏がいたという〔「太平記」〕。
不詳。伯耆国には波多野氏流松田氏の松田義基が居住したとされ〔「松田系図」,「佐野松田系図」〕,また,因幡国八東郡(鳥取県八頭町)などの波多野氏について松田義基の系統とする伝承がある〔「因幡国」の項参照〕。
現在,旧伯耆国域では米子市に30人程度波多野氏が見られ,地理的には島根県松江市(300人)方面からの移住者と思われるが不詳である〔『宮本姓氏』参照〕。
出雲国
神門郡では,南北朝時代に来住したという波多野氏の伝承がある。
- 建武年間(1334-36/38),相模国の波多野氏が,出雲守護・塩冶高貞に属して出雲郡佐々布荘(島根県松江市宍道町佐々布)に来住したとの伝承がある〔以下,『出雲市内神社誌』,『苗字と門名』〕。
- 15世紀半ば,子孫の波多野安重[帯刀]は,負傷したために帰農し,文安4年(1447)以降,神門郡塩冶郷薗村(出雲市園町)の妙見社の神主を務めたという。
- 寛永15年(1638),同家は,藩の指示で,波多野氏から秦氏に改めた。
出自不詳。なお,秋鹿郡(松江市など)には,鎌倉時代中期以来,波多野氏流松田氏が定着している〔「松田氏」参照〕。
戦国時代には,意宇郡に波多野氏がいたとの伝承がある。
- 戦国時代末期ごろ,波多野又五郎が,吉岡氏とともに,意宇郡上意東(松江市東出雲町上意東)の福良城を拠点としたが,毛利氏に味方したため尼子氏に討たれたとの伝承がある〔「雲陽軍実記」,「雲陽誌」,『日本城郭大系』〕。
出自不詳。前記出雲郡・神門郡の波多野氏の同族か波多野氏流松田氏の可能性などが考えられるが検討を要する。
現在,旧出雲国域では,秦氏が出雲市二部(70人),松江市湯町(60人),安来市須山福富(60人)などを中心に,出雲市(600人),安来市(300人),松江市(300人),雲南市(110人)の順で多い〔『宮本姓氏』参照〕。
石見国
鎌倉時代,美濃郡に波多野氏(波多野氏流菖蒲氏)がいた。
- 貞応1年(1222),菖蒲真盛[五郎,実盛]が,承久の乱(1221)の恩賞として,美濃郡美乃知(益田市美濃地町・有田町)・黒谷(益田市上黒谷町・桂平町・黒周町周辺)の地頭職を与えられた〔「益田家文書」,『鎌倉遺文』3000〕。
- 永仁3年(1295),「藤原実秀」が美濃郡長野荘下黒谷郷(益田市黒周町周辺)の領有を幕府に承認された〔「益田実氏所蔵文書」〕。
菖蒲真盛(実盛)は波多野義通の弟・実経[菖蒲沼田七郎八郎]の子で〔「波多野系図」〕,父・実経が相模国足上郡菖蒲(神奈川県秦野市菖蒲)を領したことから菖蒲氏を名乗ったと思われるが,上記記録のほかは波多野氏を称していることから,別記事(「菖蒲氏」)を立てつつ,本記事でも簡単に取り上げることとする。
真盛から70年後に下黒谷郷を領した「藤原実秀」は,真盛の曾孫・実秀にあたると考えられ〔「波多野系図」〕,分割相続が進んでいたことがわかる。
南北朝時代にも波多野氏が見える。
- 建武3年(1336),南朝方の高津氏に従った美濃郡黒谷(益田市上黒谷町・桂平町・黒周町周辺)の黒谷城(横山城)主・波多野彦六郎が,北朝方の石見守護・上野氏の軍勢に敗れ,同城を奪われた〔『益田市誌』,『日本城郭大系』,『中世益田氏の遺跡』〕。
- 暦応5年(1342),南朝方の高津氏に属した波多野彦三郎が,高津氏や河越氏,徳屋氏らとともに美濃郡納田郷岡見(浜田市三隅町岡見)の大多和外城を守備したが,その後,北朝方の上野氏・益田氏らの軍勢に敗れた〔「吉川家什書」,『日本城郭大系』〕
波多野氏は南朝方として周辺各地で活動が見えるが〔「長門国」の項も参照〕,本拠と思われる黒谷城を奪われるなど,苦戦を強いられたようにみえる。ただし,次の記録にあるとおり,美濃地・黒谷の地頭職はその後もしばらくは維持していたらしい。
- 応永9年(1402),益田道兼[兼世]が波多野源征との契状にもとづいて黒谷郷(益田市上黒谷町・桂平町・黒周町周辺)の地頭職を得たことについて,幕府から承認された〔以下,「益田家文書」,「益田家什書」,『大日本史料』〕。
- 益田道兼の子・益田永寿丸[波多野氏秀]が,応永13年(1406)に波多野弘正[彦五郎]から美濃郡美濃地村(益田市美濃地町・有田町)の地頭職を譲渡されたことについて,翌14年(1407)には黒谷郷の地頭職について,ともに守護・山名氏に承認された。
- 応永18年(1411)には,波多野氏秀[彦次郎,旧名・益田永寿丸]が,美濃郡長野荘美濃地村・黒谷郷の地頭職を幕府・守護に承認された。
益田氏は美濃郡長野荘(益田市)を本拠とする国人で,上記の益田永寿丸はのちに波多野氏秀を称しているから,(美濃地・黒谷をめぐって)波多野氏に養子として送り込まれたものと思われる。
上記の一連の記録より,応永年間に美濃地・黒谷地頭職が波多野氏から益田氏のもとに渡ろうとしていたことがわかる。一方,こうした益田氏の動きに対し,吉賀郡(鹿足郡津和野町)の国人・吉見氏もその領有を主張して対抗した。具体的には,文安5年(1448)から永禄13年(1570)にかけて両氏が断続的に同地の支配を争った記録が残る〔『角川地名』,「益田氏・吉見氏の『境目』地域黒谷の歴史と文化財」参照〕。
このように,石見波多野氏の支配した美濃郡美濃地・黒谷は,室町・戦国時代,美濃郡の益田氏と吉賀郡の吉見氏が争奪を繰り返す紛争地となっていた〔『津和野町史』〕37。
この間,波多野氏がどのように立ち振る舞ったかは定かでない。上記記録の内容やこれらの文書が益田家に伝わったものであることを踏まえると,波多野氏は益田氏に近かったようにみえるが38,吉見氏側の波多野氏の所見も多い。例えば,隣接する長門国阿武郡(山口県萩市)で吉見氏家臣として度々波多野氏が見える〔「長門国」の項参照〕ほか,周防国(山口県)等で活動した大内氏・毛利氏家臣の波多野興滋や丹波国多紀郡(兵庫県丹波篠山市)の細川氏家臣・波多野清秀はいずれも吉見氏から波多野氏に改めている〔「丹波国」・「長門国」の項参照〕。
益田氏家臣には美濃郡波田(益田市波田町)発祥の波田氏が見えるが,この一族のうち江戸時代前期の萩藩の絵師・波田光久[等有]が波多野氏に改めている〔『萩市史』〕。
現在,旧石見国域の波多野氏は,大田市(200人)と邑智郡美郷町(70人)に多いが,旧美濃郡域(益田市)にはほとんど見えず,むしろ隣接する山口県萩市(400人)で多くなっている〔『宮本姓氏』参照〕。
美作国
鎌倉時代に波多野氏の所領があった。
- 安貞1年(1227),波多野経朝[中務二郎]が,鎌倉で不審者を捕えた功績により,幕府から美作国内の一村を拝領した〔「吾妻鏡」〕。
場所の明記がなく,また,その後も国内での波多野氏の記録がないため不詳である。波多野経朝は,忠綱の子で,義重の兄にあたる16。承久の乱(1221)時点では波多野氏の惣領で〔「吾妻鏡」〕,子孫は波多野荘(神奈川県秦野市)周辺に残った〔「相模国」の項参照〕。
現在,旧美作国域で波多野氏はほとんど見られない。なお,秦野氏が苫田郡鏡野町(50人)に現存するが,関係は不明である〔以上,『宮本姓氏』参照〕。
安芸国
高田郡に,南北町時代から続くという波多野氏の伝承がある。
- 江戸時代後期の高田郡吉田村(安芸高田市吉田町吉田)の波多野氏の先祖は,康永年間(1342-45)の「藤原氏就」で,その後,明応年間(1492)に元実[刑部左衛門],永正年間(1504-21)に元吉,永禄年間(1558-70)に政宗,文録年間(1593-96)に元辰がいたと伝える。慶長年間の正宗の次子・神七は,同村の祇園社の神官で,以後文政年間(1818-31)の加賀までで7代という。
- 江戸時代後期の高田郡小山村(安芸高田市吉田町小山)の波多野氏の先祖は,永正年間(1504-21)の豊前で,代々同村で神官を務め,文政年間(1818-31)の佐渡までで10代という〔以上,「芸藩通志」〕。
出自の明記はないが,地理や年代,「元」の用字からして,戦国時代には安芸毛利氏に仕えたと思われる。特に,近隣の備後国三谿郡(三次市)には鎌倉時代より波多野氏流広沢氏が定着しており,この一系統である和智氏は毛利氏に仕えて,「元」を含む実名を称している〔「広沢氏(和知氏・江田氏)」〕。この点を踏まえると,高田郡の波多野氏は波多野氏流和智氏の系統と考えられる。
戦国時代には,佐東郡に波多野氏の所領があった。
- 天文14年(1545)ごろ,佐東郡下安(広島市安佐南区祇園)に大内氏家臣・波多野成実[淡路守]の給地があった〔「厳島野坂文書」〕。
実名に「実」を含む点〔「広沢氏(和知氏・江田氏)」参照〕や前記の高田郡での伝承からして,波多野氏流和智氏の系統と考えられる。ただし,大内氏家臣には,石見波多野氏の系統もいる〔「周防国」の項参照〕。
また,豊田郡にも波多野氏がいた。
- (年代不詳)豊田郡中河内村(東広島市河内町中河内)の茶臼山に,「波多野千手丸」の拠点があったとの伝承がある〔「芸藩通志」〕。
推定では戦国時代で,地理的には波多野氏流和智氏の系統と思われる。
また,拠点は不明であるが,戦国時代に安芸国に来住して毛利氏に仕えたという波多野氏の伝承・記録がある。
- 天文11年(1542)以降,和田就雅[源兵衛,左衛門三郎]が安芸国に来住して毛利氏に仕え,その後,波多野氏に改めて,安芸国各地の戦闘で功績を挙げた〔以下,「萩藩閥閲録」,「防府市史」〕。
- 天正16年(1588)に波多野平四郎と源六(就雅との関係不明)の給地が長門国大津郡三隅荘(山口県長門市三隅上・三隅中・三隅下)内にあり,慶長7年(1602)に就雅3代・就信[対馬守]の給地が長門国豊東郡内日郷(山口県下関市内日上・内日下)にあった。
- 江戸時代,萩藩士(家格:大組)として続いた。
この和田氏は神石郡永野村和田(神石郡神石高原町永野和田)発祥と思われることから〔『神石郡史』,『萩藩諸家系譜』〕,備後国の出身と考えられる。そして,安芸国に来住して波多野氏に改めたとすると,高田郡の毛利氏家臣の波多野氏(先述)との関係が想定される3940。
現在,旧安芸国域では,広島市安佐北区(70人),安佐南区(70人),西区(60人)で多いが,割合で見ると安芸高田市(0.11%/50人)で高い。旧備後国域を含めた広島県全体では,尾道市(70人),福山市(70人)でも多いが割合は低い〔以上,『宮本姓氏』参照〕。
周防国
室町時代,吉敷郡に波多野氏がいた。
- 応永14年(1407),大内氏家臣に波多野明実[蔵人入道],範実[弾正忠]がいた〔「興隆寺文書」,「萩藩閥閲録」〕。
- 応永29年(1422),大内氏家臣に波多野沙弥[安芸入道,入道智得]がいた〔『大友史料』〕。
- 永享3年(1431),大内氏家臣に波多野新蔵人がいた〔『大友史料』〕。
- 文明11年(1479),大内氏家臣・波多野盛秀[日向守]が,吉敷郡宇野令村「永山前」(山口市亀山町周辺)の田畑を屋敷地として利用することを許可された〔「興隆寺文書」,「萩藩閥閲録」,『大日本史料』〕。
- 文明年間(1469-87)ごろ,大内氏重臣の周防守護代・陶弘護の側近に波多野藤左衛門尉がいた〔「益田家文書」,「萩藩閥閲録」〕。
出自不詳であるが,正平21年(1366)に大内氏が石見守護に補任されて以降,石見吉見氏が大内氏に属しているから〔『津和野町史』〕,石見吉見氏家臣で石見国美濃郡(島根県益田市)を拠点とした波多野氏の系統と思われる〔「石見国」の項参照〕。実際,石見波多野氏は実名に「実」や「秀」を好んで用いる〔「波多野系図」〕。
戦国時代には,吉敷郡と都濃郡に波多野氏がいた。
- 永正3年(1506),大内氏家臣・波多野安貞[勘解由左衛門尉]が,すでに長男・安郷[彦六]が戦死していたため,次男の成郷[小太郎]に家督を譲った。16世紀半ば,この子孫の勝実[彦九郎,彦左衛門尉]のとき,大内氏が衰退したため,以後毛利氏に仕えた。勝実の所領は都濃郡切山保(下松市切山)にあった〔以下,「萩藩閥閲録」〕。
- 大永4年(1524),大内氏家臣・波多野重郷[次郎三郎]が,吉敷郡小鯖(山口市上小鯖・下小鯖)内の所領などを,子・繁郷[備後守,幼名・薗千代]に譲った。繁郷は,大内氏衰退後,毛利氏に仕えた。
安郷・成郷兄弟および重郷・繁郷父子は「郷」の用字からして同族と思われる。なお,この時期の大内氏重臣に吉見頼郷がおり,その子と思われる吉見興滋がのちに波多野氏を称していることから,波多野氏と吉見氏は相当近い関係にあったと考えられる。
また,その出自については,やはり石見波多野氏の系統とみるのが妥当で,実際,波多野重郷・繁郷父子の所領は長門国阿武郡奈古郷(阿武郡阿武町奈古)にもあったとされるが,同郷内には文明12年(1480)に石見吉見氏家臣の波多野秀信(本拠:阿武郡小川/後述)に与えられた土地があった〔「萩藩閥閲録」〕。ただし,秀信と重郷・繁郷父子の関係は不明である。
上記の波多野氏は江戸時代に至っても続いており,享保年間(1716-36)には,波多野安貞の子孫に周防国熊毛郡塩田村(光市塩田)の医師・波多野周益,波多野重郷の子孫に長門国厚狭郡目出村(山陽小野田市小野田)の波多野源七がいた〔「萩藩閥閲録」〕。
現在,旧周防国域では,山口市(300人),周南市(200人),防府市(80人)の順で多い。旧長門国も含めた山口県全体では,萩市(400人)で最も多く,宇部市(200人),下関市(200人)でも多い。人口に対する割合では,萩市(0.48%)や阿武郡阿武町(0.22%),山口市(0.13%)で高くなる〔以上,『宮本姓氏』参照〕。
長門国
南北朝時代,石見波多野氏の波多野彦六郎〔「石見国」の項参照〕が,建武4年(1337)に,南朝方の三隅氏・高津氏らに従い,北朝方の虫追氏が立て篭もった阿武郡嘉年(山口市阿東嘉年上・嘉年下)の賀年城(勝山城)を攻めたが,敗れている〔「益田家什書」,『西石見の豪族と山城』,『日本城郭大系』〕。
その後,戦国・安土桃山時代には国内の各地で波多野氏の記録・伝承が多数ある。その本流は,石見吉見氏の重臣で,阿武郡小川を拠点とした波多野家である。
- 戦国時代初期,吉見氏家臣・波多野真信[但馬守]が,阿武郡小川(萩市上小川・中小川・下小川)の水車城主となり,以後代々同城を拠点としたという〔「萩藩閥閲録」,『萩藩諸家系譜』〕。
- 天文23年(1554),この同族で,阿武郡嘉年(山口市阿東嘉年上・嘉年下)の賀年城(勝山城)主・波多野滋信[内蔵助]が,味方の内応により,大内氏家臣・陶氏の軍勢に敗れた〔「風土注進案」,『西石見の豪族と山城』,『山口県自治大観』〕。
- 所領は,文明12年(1480)から阿武郡奈古郷(阿武郡阿武町奈古),天文22年(1553)から豊西郡神田別府(下関市豊北町神田上・神田),天正19年(1591)から阿武郡椿郷(萩市椿),慶長6年(1601)から厚東郡(山陽小野田市周辺)などにあった。また,居所は,小川のほかに,阿武郡松本(萩市椿東)にあったという〔以下,「萩藩閥閲録」,『萩藩諸家系譜』,『萩市史』〕。
- 江戸時代,萩藩士(家格:大組)であった。
- 先祖は,波多野義景の子・信景で,信景の子・景定が吉見為頼に従って能登国に赴き,その後,弘安5年(1282)に吉見頼行とともに石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)へ移ったと伝える。
この波多野氏の出自は,地理的に,阿武郡小川に隣接する石見国美濃郡美濃地・黒谷(島根県益田市美濃地町・黒谷町・桂平町・黒周町周辺)に鎌倉時代より定着している石見波多野氏(菖蒲氏)の系統とみるのが妥当である〔「石見国」の項参照〕。
これに対し,当家の系図には「吉見氏に従って能登国から石見国に来住した」旨の記述があるが,そもそも吉見氏が能登国から来住したかどうかについて確かな証拠がない〔『津和野町史』参照〕。そうすると,やはりこの波多野家は(能登国出身ではなく)石見国出身とみる方が適当である。
また,当家の系図において,真信2代とされる秀信[左衛門尉,助太郎]の記録が文明12年(1480)のものであるのに対し,真信3代とされる頼次[助左衛門尉]の記録が天文22年(1553)となっており,1世代に73年もの差があり異常で,この間に2〜3世代の欠落があると思われる。
同族とされる賀年城主・波多野滋信[内蔵助]は,吉見氏の系図では吉見氏当主・隆頼の娘を妻として迎えているなど重要な地位にあったことがわかるが,当系図には滋信の記載すらない。滋信には,弟・滋遠[治部丞],子・秀信[孫左衛門尉]がいて,その子孫は賀年城の南麓に現在まで残るという〔『日本城郭大系』〕。
なお,この時期に阿武郡内にいたという波多野氏も,水車城主・波多野氏の同族と思われる。
- 天正19年(1591),吉見氏家臣・波多野作兵衛丞が,戦功により,阿武郡福井郷(萩市福井上・福井下)のうち高坂と「福厳寺領」を拝領した。文政年間(1716-36)の子孫・吉兵衛は,福井下村(萩市福井下)に居住していた。
- 戦国時代の波多野高勝から3代・定盛[右衛門「太」夫]が,阿武郡萩(萩市の中心部)の萩春日社の神官となり,文禄年間(1592-96)の4代・元重[宮内大輔]のとき小南氏に改めたが,6代・就豊[式部大輔]のとき波多野氏に復した。また,5代・元信[宮内「太」輔]の三男 ・就正[源左衛門]から始まる別家がある〔『萩藩閥閲録』〕。
さらに,大内氏重臣の波多野氏も,水車城主・波多野氏の同族と思われる。
- 大永4年(1524),大内氏家臣・波多野重郷[次郎三郎]が,子・繁郷[備後守,幼名・薗千代]に家督を譲った。その際,所領が周防国吉敷郡小鯖(山口市上小鯖・下小鯖)のほか,阿武郡奈吾郷(阿武郡阿武町奈古),美祢郡厚保(美祢市東厚保町・西厚保町)にあった。
- 16世紀半ばごろ,大内氏重臣に波多野興滋[備中守,大和守,源右衛門尉]がいた。興滋は,当初吉見氏を称していたが,天文23年(1554)から波多野氏に改めた。大内氏衰退後は毛利氏に仕えたが,永禄2年(1559)に豊前国企救郡の門司城を侵攻した際,子・兵庫允とともに討死した。所領は美祢郡伊佐「七ヶ名」(美祢市伊佐町),厚東郡須恵(山陽小野田市小野田・宇部市東須恵)にあったほか,天文10年(1541)以前に豊東郡清末(下関市清末)内の土地についての領有を承認されている〔「洞雲寺文書」〕。
石見吉見氏のうちには,早くから石見国の本家を離れて周防大内氏に従った庶家があると考えられており〔『津和野町史』〕,同様に波多野氏のうちでも,長く吉見氏のもとにとどまった阿武郡小川・嘉年の系統(長門系)と,早くから大内氏(のちに毛利氏)に従った上記波多野重郷・繁郷父子や興滋らの系統(周防系)に分かれていたと思われる〔「周防国」の項参照〕。
以上のほか,萩藩士(家格:大組)で,安芸国出身という波多野家の所領が,安土桃山時代に国内にあった。
- 天正16年(1588)に毛利氏家臣・波多野就雅の同族の波多野平四郎と源六の給地が大津郡三隅荘(山口県長門市三隅上・三隅中・三隅下)内にあり,慶長7年(1602)に就雅3代・就信[対馬守]の給地が豊東郡内日郷(山口県下関市内日上・内日下)にあった〔「萩藩閥閲録」〕。
波多野就雅は,備後国から安芸国に来住し,天文11年(1542)から毛利氏に仕えた〔「安芸国」の項参照〕。なお,波多野平四郎と源六の記録は,この就雅の子孫に伝わる文書によるものであるが,就雅との関係は不明で,世代的にはその子か孫の代である。
現在,旧長門国域では,萩市(400人)で最も多く,宇部市(200人),下関市(200人)の順で多く,旧周防国域も含めた山口県全体では山口市(300人),周南市(200人)でも多い。人口に対する割合では,萩市(0.48%)や阿武郡阿武町(0.22%),山口市(0.13%)で高くなる〔以上,『宮本姓氏』参照〕。
九州地方
対馬国
室町・戦国時代の宗氏の家臣に波多野氏がいた。確実な史料では,応永8年(1401)以降所見があり,拠点は三根郡久地木之村(対馬市峰町吉田)にあった。
対馬藩士に波多野家が8家あった〔『対馬藩分限帳』〕。大小姓の1家,御徒士に2家,卯麥村に2家,大綱村に2家,志多浦村に1家である。
子孫は対馬市に波多野氏(80人)として現存する〔『宮本姓氏』参照〕41。
豊前国
- 応永25年から27年(1418-20)にかけて,大内氏家臣・波多野三郎左衛門尉が,在宮奉行人として,宇佐郡(大分県宇佐市)の宇佐宮(宇佐神宮)一之殿・若宮殿・北辰殿の造替に携わった〔「宇佐宮玄記」,『山口県史料』〕。
- 文亀1年(1501),仲津郡沓尾崎での合戦で,大内氏家臣・波多野彦六が討死した〔『大友史料』〕。
大内氏に仕えて周防国での活動が見える波多野氏と思われ,この場合,石見波多野氏の系統にあたる〔「周防国」・「石見国」の項参照〕。
『角川地名』には,時代不詳であるが,遠賀郡黒崎(北九州市八幡西区藤田1丁目)の黒崎春日社や小倉(北九州市八幡東区春の町4丁目)の小倉八幡宮(豊山八幡宮)の神官に波多野氏がいたとある。この波多野氏の伝承によると先祖は古代の岡県主42というが,いつ・どのような経緯で波多野氏を称するに至ったかは不詳である。
現在,旧豊前国域では,北九州市若松区(200人),北九州市八幡西区(140人),中間市(100人)の順で多い〔『宮本姓氏』参照〕。
豊後国
不案内に候へども申入候,波多野惣左衛門,能一茂右衛門上下四十人暇之儀分別候,御船約諾之由候之条能様頼存候恐恐謹言 八月廿四日 門司勘解由允親家
- 永正年間(1504-21),大友氏家臣・波多野善介が,速見郡山香郷立石村(杵築市山香町立石)に城を築いて拠点としたとの伝承がある〔『豊後国志』〕。
なお,戦国時代,立石村に「波多次郎四郎」の給地があった〔『大友史料』〕。
- 文禄の役(1592-93)に,大野郡緒方荘(豊後大野市緒方町)の波多野上総助,波多野宮内丞が従軍した〔「豊後国諸侍着到帳」,『大分県地方史』〕。
出自不詳。確実な記録では,弘安8年(1285)の大分郡稙田荘千歳名(大分市木上)の地頭に相模国御家人という「川村新五郎清秀」の所見があり〔「豊後国図田帳」/『大分県史料』〕,伝承では河村時秀が大野郡栗ヶ畑(豊後大野市犬飼町栗ケ畑)に来住したとするものがある〔「九州地方の佐藤氏の歴史」〕。先述のとおり,河村氏は波多野氏流(波多野義通の弟・河村秀高に始まる系統)で,「河村系図」〔『続群書類従』〕によれば,河村清秀と時秀は兄弟で,河村秀高の孫にあたる。
現在,旧豊後国域では,波多野氏が大分市(400人),豊後大野市(140人),由布市(90人)の順で多。また,羽田野氏が豊後大野市(1,500人),大分市(800人),竹田市(300人)の順で多い〔以上,『宮本姓氏』参照〕。
現代の分布
波多野氏の分布
波多野氏の人口は,全国で約24,800人にのぼると試算されている〔以下,『宮本姓氏』参照〕。
その分布をみると,岐阜県南部から静岡県西部にかけて最も多く,市町村別では岐阜県関市(800人),愛知県春日井市(600人),静岡県浜松市(500人)と続く。このほか,新潟県北部,京都府北部,岡山市周辺,山口県北中部,大分市周辺にまとまって見られる。
町字別では,上記地域を除くと,東京都武蔵村山市中央・本町(計260人),静岡県伊豆市修善寺(130人),神奈川県海老名市中新田(90人)に多い。
これらの地域の多くは,既に指摘したとおり,歴史的に相模国波多野荘発祥の波多野氏と関係する地域であり,同族である可能性が高い。ただし,ハタノやハタと訓む地名は全国各地にあり,また,古代より秦(ハタ/ハダ)氏という有力な渡来系の一族(職業集団)もいるから,同族でない可能性も十分あることを考慮しなくてはならない。
例えば,波多野氏の多い濃尾平野に限っても,岐阜県山県市畑野,愛知県名古屋市熱田区幡野町,愛知県瀬戸市幡野町などの地名がある。
異表記とその分布
波多野氏(24,800人)には異表記も多い。人口順では,羽田野氏(8,500人),畑野氏(7,300人),秦野氏(5,100人),幡野氏(3,800人),波田野氏(3,100人)などがある43。この多くは,その分布を考慮しても,主には波多野荘発祥の波多野氏に関係すると思われるが,渡来系の秦氏に由来するもの,地名(羽田,畑,端)に由来するものも含まれる。
表記ごとの特徴
表記ごとに分布をみると,羽田野氏は大分県と愛知県・岐阜県に多い。畑野氏は特に強い傾向はないものの神奈川県相模原市と熊本市に多い。秦野氏も特に傾向はないが,大分市と和歌山県紀の川市,神奈川県藤沢市に多い。幡野氏は山梨県,波田野氏は新潟県東蒲原郡阿賀町で多い。
県ごとの特徴
異表記の多い各県について,次のような特徴がある。
- 神奈川県
- 県内では波多野氏(1,600人)が最も多いが,畑野氏(600人)と秦野氏(600人)がいる。
- 相模原市では畑野氏(300人)が全国の市区町村で最も多く,その下流にあたる藤沢市では秦野氏(110人)が多い。
- 新潟県
- 多い順に,波多野氏(1,400人),波田野氏(700人),羽田野氏(400人),畑野氏(200人),畠野氏(150人),秦野氏(120人)と続く。
- 山梨県
- 幡野氏(1,300人)が特に多く,畑野(300人),波多野(80人)と続く。
- 幡野氏と地名の幡野(大月市猿橋町猿橋幡野)との関係については,「甲斐国」の項で述べたとおりである。
- 畑野氏は,当県と隣接する神奈川県相模原市に同数程度見られる畑野氏と関係すると思われるが来歴は不詳である。
- 静岡県
- 波多野氏(1,000人)に対して羽田野氏(900人)が同数程度いる。また,秦野氏(200人)もいる。
- 愛知県
- 多い順に,波多野氏(3,400人),羽田野氏(1,100人),畑野氏(300人),秦野氏(300人),幡野氏(200人),波田野氏(130人)と続く。
- 岐阜県
- 波多野氏(1,700人)に対し,畑野氏(300人)が見られる。
- 和歌山県
- 波多野氏(60人)に対して秦野氏(300人)が多い。特に,紀の川市と和歌山市(計300人)に多く,全国でも大分市(300人)に次いで多い。
- 歴史的にも波多野氏の記録のある地域ではあるが〔「紀伊国」の項参照〕,地名としても畑野(紀の川市畑野上や畑野)がある。
- 大分県
- 人口順に羽田野氏(2,800人),波多野氏(700人),秦野氏(400人)と続く。
- 地名としては大分市羽田がある。
系譜
以下の系図は,平安時代末期から南北朝時代(12〜14世紀)ごろまでの波多野氏系図である。
「吾妻鏡」等比較的信頼できる史料により復元した系図〔「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」44〕を基礎として(系図の黒字部分),本記事で扱った家系・人物について『続群書類従』所収の各種系図と「波多野氏血統鑑」〔『秦野市史』,『永平寺町史』〕により補った(系図の薄字部分)。なお,父子関係等が確実といえない箇所については斜体で示した。
以下は,平安時代末期から鎌倉時代前期までの系図である。この時点で兄・義通の系統と弟の義景,実経の系統があり,主にその子・孫の代のとき,承久の乱(1221)の戦後処理によって各地に恩賞地を得て,全国に展開した。
義通の系統は,義通の子のうち,義常は相模国松田郷を,忠綱は相模国波多野荘を,義重は越前国志比荘を,義職は伊勢国度会郡を主な所領とした。
義景の系統は,甲斐国巨摩郡と伊勢国飯高郡に主な所領があった。
主な参考文献
辞典
- 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典』(角川書店,1978-1990)
- 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
- 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net)
書籍・論文等
- 今野慶信「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」(『駒沢史学』,駒沢史学会,2023)
- 野口実「相模国の武士団」(『坂東武士団の成立と発展』,戎光祥出版,2013)〔弘生書林,1982〕
- 葉貫磨哉「中世秦野地方の社会と文化」(『秦野市史』,秦野市,1990)
- 松原信之「志比庄と波多野氏」(『永平寺町史』通史編,永平寺町,1984)
- 湯山学『波多野氏と波多野庄:興亡の歴史をたどる』(夢工房,1996)
表記と訓について,名字としては「波多野(はたの)」が多数派である〔『宮本姓氏』参照〕。一方,地名の表記は,古代「幡多野」,中世・近世「波多野」または「秦野」があり〔『角川地名』〕,訓は「はだの」と濁る〔『秦野市史』〕。近代以降の自治体名には「秦野(はだの)」が採用されている。 ↩︎
「是時官軍中有散位佐伯経範者。相模国人也。将軍厚遇之。軍敗之時,囲已解,纔出不知将軍処。問軍卒。軍卒答曰,将軍為賊所囲。従兵不過数騎。推之、叵脱矣。経範曰,我事将軍,已経卅年。老僕年,已及耳順。将軍歯,又逼懸車。今当覆滅之時。何不同命乎。地下相従是吾志。還入賊囲中。其随兵両三騎,亦曰,公既与将軍同命死節。吾等,豈得独生乎。雖云陪臣,慕節是一也。共入賊陣,戦甚捷。則殺十余人。而□□□□□□殺死□□如林,皆歿賊前。」〔「陸奥話記」(『秦野市史』1,秦野市,1985,43頁)〕 ↩︎
「目代」とは,国司が,現地に赴任せず中央にとどまる場合に,現地派遣した代官のこと。 ↩︎
なお,源頼義は長元9年(1036)より相模守に補任されている〔「範国記」〕。河内源氏に従った佐伯経資が相模目代であったのは,まさに源頼義の時代であった可能性も指摘される〔『波多野氏と波多野庄』〕。 ↩︎
系図類では『続群書類従』所収の「波多野系図」,「河村系図」,「松田系図」,「佐野松田系図」などで,波多野氏流(佐伯経範の子孫)にあたる多くの人物が,通称(または名字)として「佐藤」を称している〔「『続群書類従』の佐藤氏流系図」〕。また,確実な史料では,鎌倉時代に波多野氏流松田氏の「佐藤三藤原盛高」〔「豊田家文書」/『鎌倉遺文』738〕,波多野氏流沼田氏の「沼田佐藤太」〔「吾妻鏡」〕,波多野氏の「波多野佐藤左衛門尉広能」〔「紀伊薬王寺文書」/『鎌倉遺文』19934〕,波多野氏流河村氏の「河村佐藤五郎入道」〔「徴古文府坤」/『鎌倉遺文』21871〕,南北朝時代に波多野景高の子の「佐藤五経貞」〔「雲頂菴文書」〕などの記録がある。 ↩︎
波多野氏流における「佐藤」は,前註なども踏まえると,氏よりは狭いが名字よりは広い同族概念として位置付けることができる。 ↩︎
秀遠について,「尊卑分脈」の註に「鳥羽院蔵人所衆」,「イ本成近」とあるところ,「千載集」には鳥羽上皇時代の蔵人所に勤務したという「藤原成親」の和歌が撰ばれており,同一人物と考えられる。また,秀遠の子・遠義については,「永昌記」に保安5年(1124)の蔵人所衆として「遠能」の名が見え,崇徳天皇の蔵人所に勤務した可能性がある〔以上,『坂東武士団の成立と発展』参照〕。 ↩︎
系譜上,波多野秀遠と藤原文郷は同世代であるから,秀遠の娘が文郷に嫁いだとする点は年代的に誤りのように思える。しかし,そもそも佐伯経範は,義兄・公清よりもかなり年上で,むしろ義父・公光の年齢に近かったと思われる。具体的には,佐伯経範は天喜5年(1057)時点で60歳を超えている〔「陸奥話記」〕のに対し,その義理の祖父・藤原公行は長元6年(1033/経範30代後半)に死亡しており〔「左経記」〕,経範が公光と同世代であるようにすら思える。また,経範の義兄・公清は永保1年(1081/経範没年から24年後)に白河天皇の石清水御幸に「左衛門大夫」として供奉している記録〔「水左記」〕が終見であるが,仮に公清と経範が同い年だとしても,公清は80代半ばにして石清水八幡宮まで天皇を警護したことになってしまい,公清が経範より年長であるとは考えにくい。これらの点から,経範は,公清にとってはかなり年上の兄であり,父・公光の同世代としてもおかしくないほどの年齢差があったと思われる。したがって,「陸奥話記」の記述を信頼する限り,文郷の妻が秀遠の娘であったとしても,そこまで大きな問題にはならない。 ↩︎
波多野荘の南側も領有していたと思われ,鎌倉時代には子孫が「渋沢」,「菖蒲」を名乗っており,また,南北朝時代に「南波多野荘」内に所領があったとする記録〔「仏日庵文書」〕がある。 ↩︎
遠義の子らは,足柄上郡の地名である「河村」,「沼田」,「大友」などを称しているから,当時(12世紀半ば),波多野荘の周辺にも所領があり,これを兄弟間で分割して相続したことが想定される。 ↩︎
また,経範5代・秀高は,藤原忠実の勾当であったとされる〔『古代氏族系譜集成』〕。 ↩︎
例えば,経範の2代経秀は「民部丞」,3代秀遠は「刑部丞」,4代遠義は「筑後(権)守」に補任されている〔「尊卑分脈」〕。また,文化面でも,3代秀遠(成親)や5代忠綱の弟・経因の和歌が「千載集」に撰ばれているほか,5代忠綱の子・経朝,同大甥・朝定は歌人としての活動がみられる〔「吾妻鏡」〕。 ↩︎
例えば,伊勢国において義景系と義職系という別系統の所領が中世を通じて存在した〔「伊勢国」の項参照〕。また,憶測ではあるが,16世紀前半に波多野荘を追われた相模波多野氏〔「相模国」の項参照〕の末流が,近国の甲斐武田氏に仕えた可能性もある。 ↩︎
同訓の地名として近世多摩郡川井(東京都西多摩郡奥多摩町川井)がある。 ↩︎
関係は不明であるが,地理的に近接するものとして,16世紀末,隣接する都筑郡久保(横浜市緑区三保)に佐藤三郎兵衛が居住していたとの伝承がある〔「武蔵風土記稿」,『角川姓氏』〕。 ↩︎
「尊卑分脈」および「続群書類従」では,忠綱と義重が父子の関係になっている。しかし,人名表記がほぼ正確な『吾妻鏡』において義重が忠綱の官途を名乗りに使用していないため,父子ではなく,兄弟とみるほうが適切と考えられる〔「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」参照〕。 ↩︎
相模波多野氏が長尾氏に従ったとする根拠は,本項で挙げた波多野氏の記録が長尾氏に関係する文書とともに長尾氏が再興した雲頂庵・龍隠庵において保管されていた点である。実際,長尾氏没落(1509)後の文書は保管されていない。また,同所に文書が納められたのは,長尾氏の衰亡とともに波多野氏が本領を失ったためとも考えられる〔以上,『波多野氏と波多野庄』参照〕。 ↩︎
「越後阿闍梨」〔「吾妻鏡」〕の「越後」は,一般論からすると,父祖の官途である〔『秦野市史』〕。波多野義重の兄弟または甥とされる定憲の父や祖父は,遠義や義通,忠綱ということになるが〔「松田系図」,「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」〕,彼らについて越後国に関連する記録・伝承はない。 ↩︎
弘長3年(1263),波多野義重の子・宣時と思われる「波多野五郎左衛門尉」が,越後国での争訟に関して,越後守護に対し同国の御家人を「一人も洩らさず」上洛させるよう命じている〔「後藤文書」〕。 ↩︎
また,「越藩拾遺録」〔『越前若狭地誌叢書』〕によると,鎌倉時代,波多野氏は後藤氏や斎藤氏とともに越前守護を歴任したことになっている。 ↩︎
また,「波多野系図」には,時忠について,妹は岩原氏(足柄上郡岩原(南足柄市岩原周辺))の妻で,妻は渋谷氏(高座郡渋谷(神奈川県藤沢市長後周辺))の娘とあるから,相模国にも地盤があったようにみえる。 ↩︎
現在も下伊那郡松川町・喬木村に波多野氏や羽田野氏がわずかに見えるが〔『宮本姓氏』参照〕,これらの家はむしろ東海地方から来住したものと考えられる〔「現代の分布」の項参照〕。 ↩︎
波多野宣通は,「天正本太平記」に「波多野上野前司宣道」として,「松田系図」には「上野介孫太郎宣通」として所見がある〔「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」参照〕。 ↩︎
また,「吾妻鏡」や「松田系図」では,義定[宇治次郎]の子で義泰[中島太郎]の兄・義典が「白河左衛門尉」を名乗っており,「白河」は上記関係からして伊勢国内の地名と思われるが不詳である。(近代の鈴鹿郡白川村(亀山市)は白木村と小川村,鷲山村の合併による合成地名であって関係しない。) ↩︎
なお,京都や越前のほか,相模国内にも一定の所領・拠点があった。そもそも,義重は,鎌倉での活動の記録も多く〔「吾妻鏡」参照〕,名越(鎌倉市大町)に邸宅があった〔「波多野氏と波多野庄」,「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」〕。また,観応2年(1351)まで余綾郡南波多野荘(秦野市/水無川以南)などに義重の子孫のものと思われる所領があった〔「相模国」の項参照〕。 ↩︎
義重系の波多野氏については,『秦野市史』や『永平寺町史』,『波多野氏と波多野庄』,「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」(『駒沢史学』)で手厚く紹介されている。 ↩︎
「天正本太平記」の六波羅探題軍中にみえる宣通と通貞のうち,通貞の系統が以後代々室町幕府に仕えたことは本項のとおりであるが,宣通の系統については記録がない。この点につき,「西源院本太平記」の建武2年(1335)の新田義貞の軍中に「波多野三郎信通」の名が見え,これを宣通に比定する説がある〔「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」〕。これによれば,義重系のうちでも,通貞は北朝(幕府)に,宣通は南朝に従ったことになる。一方,宣通を先祖とする三河国宝飯郡(愛知県豊川市)の波多野家の伝承によると,宣通は足利高氏に従って三河国内に所領を得て,その孫の頃から宝飯郡内に土着したという〔「三河国」の項参照〕。 ↩︎
『生郷村志』(生郷村志編集委員会,1976)は,「籾井家日記」にみえる氷上城波多野氏の記述について,一次史料等と対照した上で,「まぼろしという外はない」と結論づけている。 ↩︎
厳密には,「籾井家日記」は「松田氏」ではなく「伯耆波多野家」と表現しているが,同書に「義通公に五代の末,経基公[……]御父義基公を伯耆波多野家と申奉り」とあって,このことは「松田系図」や「佐野松田系図」が波多野義通5代・松田経基の父を義基とし,「二郎伯州」,「住伯州」と註することと合致する。 ↩︎
また,『朝来志』には,波多野氏の先祖について「秀郷五世ノ孫,又太郎忠綱」としているが,同じ秀郷流の足利忠綱[又太郎]と波多野忠綱[小二郎中務丞]を混同していると思われ,いずれにしても「秀郷五世」ではない。さらに,続けて「其裔通経,相模国ヲ領シ波多野庄ニ居ルニ因テ氏トス」とあるが,経範や子・経秀ではなく「通経」という人物が波多野氏祖であるといい,独特な記述になっている。 ↩︎
「松田系図」は,波多野義重の孫世代(2世代後)で通称に「五郎」を含む者として,宣義[五郎],景秀[五郎],時綱[孫五郎]などの名を載せる。ここから想像するならば,弥五郎は,宣義か景秀の子または時綱自身にあたると思われるが,検討を要する。 ↩︎
当地周辺の東国御家人と思われる武士は,八上郡大江郷の伊田氏のほか,八東郡安井保の青木氏,八東郡若桜郷の矢部氏,八東郡私都郷の毛利氏,智頭郡土師郷の東氏などがいる。このように,因幡国に多くの東国御家人の流入を許したのは,鎌倉時代前期の同国の知行国主が反幕府的な態度を示していた源通親であったことも影響していると考えられる〔以上,坂本敬司「荘園と国衙領」(『新編八頭郡誌』1,八頭郡町村会,1988,60・61頁)参照〕。 ↩︎
本記事では,すでに述べたとおり,波多野氏の四部保領有は早ければ承久の乱(1221)後にまで遡れると考えている。これに対し,「因幡志」(1796年成立)には波多野秀真が謀殺(1559)されるまで200年間続いたとあり,『朝来志』(1903年刊行)には文和年間(1352-56)に因幡国に来住したとあって,「太平記」にある因幡波多野氏の頃,すなわち14世紀半ばまでと考えられていたか,あるいは,領有はしていたが実際に当地に来住したのがその時期であったことを意味すると思われる。 ↩︎
また,八東郡「日下部」の「高」平城には,年代不詳であるが,但馬国二方郡田公郷(兵庫県美方郡新温泉町の中央部付近)を本貫とする因幡守護代・田公氏が在城していたといい,このことは田公氏が本姓を「日下部」とし,代々「高」を通字としていたことからも妥当といえる〔「因幡弓河内日月宮享縁文書」,「因幡志」,『太田姓氏』参照〕。 ↩︎
『山東町誌』では,八東郡の波多野系図と『朝来志』,「籾井家日記」を比較して考証をが行われている〔木村丑郎「波多野秀光と山垣合戦」『山東町誌』上,山東町,1984,621-628頁参照〕。しかし,その考証は,これらの二次史料が一次史料等による裏付けがないどころか矛盾点も多いことを踏まえておらず,肯定できない。 ↩︎
一般に義重は義基の大伯父(祖父の弟)または大伯父の子とされるところ〔「松田系図」,「佐野松田系図」〕,因幡波多野氏関連の系図では義重は義基の曽祖父とすることがある〔『多紀郷土史考』〕。この点につき,推測ではあるが,義重の系統であることは認識していた因幡波多野氏が,伯耆松田氏の系図を借用するにあたり,強引に義重の系統に位置付けようとした痕跡ともとれる。 ↩︎
また,波多野氏領の美濃郡美濃地・黒谷と同じく,工藤氏流内田氏領の美濃郡豊田郷も,益田氏と石見氏の紛争地となった。なお,波多野氏も内田氏も,承久の乱(1221)後に補任された地頭(新補地頭)の系統である。 ↩︎
なお,益田氏側の文書は豊富に保存されているのに対し,吉見氏側の文書はほとんど逸失している点に注意を要する。 ↩︎
なお,厳密には,安芸国への来住と毛利氏への仕官の先後関係は不明である。 ↩︎
同家の系図には「本名和田後以芸州後郷在名波多野」とあり,「本名は和田,後に芸州後郷に在りて名を波多野とす」と訓み下せる。安芸国内に「後郷」はないが,「後」を含む中世以来の地名は山県郡後有田,佐西郡後原,佐東郡後山などがある。『防府市史』や『萩藩諸家系譜』では当該箇所を「波多野に居住したため」と解しているが,地名に「波多野」は見られず,中世加茂郡女子畑,近世佐伯郡畑,安芸郡畑賀,賀茂郡原畑などが見られるにとどまる。 ↩︎
なお,対馬市内では波田氏(200人)が多いが〔『宮本姓氏』参照〕,波多野氏との関係は未調査である。 ↩︎
岡県主(をか-の-あがたぬし)は,「日本書紀」に所見のある職名(人名)で,その名称からして古代遠賀(古代:をか/現代:おんが)郡の支配者層にあたる。 ↩︎
さらに少ない表記は次のとおり:畠野氏(1,000人),羽多野氏(800人),籏野氏(700人),旗野氏(200人),葉田野氏(70人),破田野氏(70人),畑農氏(60人),榛野氏(60人),葉多野氏(50人),波夛野氏(50人),葉多埜氏(50人),畑埜氏(40人),羽多埜氏(30人),波田埜氏(20人),波多埜氏(20人),将野氏(10人),機野氏(10人),籏埜氏(10人),畠埜氏(ごく少数),將野氏(ごく少数),畑𡌛氏(ごく少数),簱野氏(ごく少数) ↩︎
今野慶信「鎌倉・南北朝期の波多野氏について」『駒沢史学』,駒沢史学会,2023,56-57頁参照 ↩︎