中部・北陸地方の佐藤氏の歴史
目次
はじめに
この記事では,①中部・北陸地方の佐藤氏の歴史を概説したあと,②具体的な記録や伝承を時代・場所ごとに分類した。記事の主な執筆方針は下表のとおりとする。
表1. 歴史編(地方別)の主な執筆方針
| 1 | 対象とする時代 | 平安から安土・桃山時代を中心とし,江戸時代以降は主要な人名以外は載せない。 | |
|---|---|---|---|
| 2 | 場所の記述・分類方法 | 平安から江戸時代まで用いられた国・郡による。 | |
| 3 | 人名の表記 | 原則 | 「名字+実名」で表記し,通称や法名などは[ ]内に載せる。 |
| 通称等のみ判明 | [ ]を使用せずに「名字+通称」で表記する。 | ||
| 通称等も不明 | 「佐藤氏」とする。 | ||
| 4 | 信用性 | 信用できる記録等 | 「……した」などと断定で終える。 |
| 信用できない伝承等 | 「……との伝承がある」,「……と伝える」,「……という」などの表現で終える。 | ||
| 5 | 出典 | 文末・文中で〔 〕により資料名を示す。 | |
鎌倉時代
奥州合戦(1189)後,越後国三島郡・頚城郡(新潟県)や甲斐国山梨郡・八代郡(山梨県),信濃国佐久郡(長野県)に来住したという伝承があるが確証はない。鎌倉時代後期には,越中国砺波郡(富山県),能美郡軽海(石川県),坂井郡河口・坪江(福井県)の住人等のほか,元弘の乱の倒幕軍に越後国出身の佐藤氏の記録がある。
図1.鎌倉時代の中部・北陸地方の佐藤氏の分布
越後国
蒲原郡
- 元弘3年(1333),越後国の佐藤見阿[兵衛太郎入道]が,葛西谷(神奈川県鎌倉市)での戦闘に反幕府軍として参加した〔「朴沢文書」/『鎌倉遺文』32647〕。
出自不詳。当文書中で池氏(蒲原郡福雄荘・三島郡吉河荘の地頭)と並んで記録されている点や蒲原郡や三島郡に佐藤氏の伝承・人口が多い点,14世紀半ばに蒲原郡如法寺(三条市如法寺)に佐藤氏がいたこと(後述)を踏まえると,蒲原郡周辺の武士・領主層の人物と思われる。
三島郡
- 奥州合戦(1189)の際,陸奥国信夫郡(福島県福島市)の領主であった佐藤氏が三島郡寺泊(長岡市寺泊)に落ち延びたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
この説明は三島郡内の佐藤家等に伝わる複数の伝承を抽象化したもので,実際にはいくつかの異同がある。
例えば,先祖について,三島郡井鼻村(三島郡出雲崎町井鼻)では佐藤継信,三島郡中山村(三島郡出雲崎町中山)では佐藤忠信と伝える〔『佐藤一族』〕。この継信と忠信は,兄弟であり,陸奥国信夫郡(福島県福島市)の領主一族であると理解されている〔「吾妻鏡」など〕。また,古志郡文納村(長岡市文納)では,先祖は継信忠信と兄弟の之信[信夫三郎]と伝えるが,他の史料では見られない人物である。
これらに対し,三島郡中村(長岡市与板町南中)1の系図によれば,先祖は佐藤忠信の弟の清信の子・義信[二郎左衛門尉]で,義信は出羽国長井荘(山形県の南部)に居館があったという〔『佐藤一族』〕。なお,義信は,信夫佐藤氏の系図では(忠信の甥ではなく)継信の子とされることが多い。また,長井荘に関して,近世仙台藩士の佐藤家の系図によると,忠信の孫・安忠から以後6代にわたり長井荘内の置賜郡花沢(米沢市花沢・花沢町周辺)を拠点としたと伝え〔『ふるさと小斎の歴史』上〕,同地には関連する史跡,寺院が現存する。
また,室町・戦国時代の蒲原郡菅名荘(五泉市)の領主菅名氏の伝承によると,先祖は佐藤義忠で,鎌倉幕府の指示で信夫郡から寺泊(長岡市寺泊)に移住したのち,その五男の忠栄が菅名荘に領地を得たことが同氏の起源であるという〔「米府侍組由緒」,『平凡地名』〕。義忠は,信夫佐藤氏の系図では忠信の子とされることが多い。
このほか,三島郡出雲崎町には,継信忠信兄弟の母・乙和御前(音羽の前)に関する伝承が多く残る〔『角川地名』〕。
頸城郡
- 奥州合戦(1189)の際,佐藤継信の子・義信が,慈恩寺(山形県寒河江市慈恩寺)に落ち延びた後,頸城郡高田(上越市)に所領を得て移住したとの伝承がある〔「総光寺佐藤氏家世碑」,『佐藤一族』〕。
出羽国飽海郡(山形県東田川郡庄内町)での伝承による。頸城郡内の伝承等は未調査である。
刈羽郡
- 13世紀前半ごろ,陸奥国信夫郡(福島県福島市)の領主佐藤元治の孫・師隆が,二田社領(柏崎市西山町二田/物部神社)内に所領を得て移住したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
伊勢国一志郡(三重県松阪市)の系図による。ただし,具体的な領地・移住先は明らかでなく,仮に二田物部神社の所在郡としたが,前掲の三島郡の各地とは比較的距離が近い。なお,佐藤師隆が越後国に移住したことは美作国久米郡(岡山県岡山市北区)の系図にも記載がある。
越中国
砺波郡
- 弘長2年(1262),円宗寺領砺波郡石黒荘弘瀬(南砺市)の雑掌の使者に佐藤次郎〔「尊経閣所蔵文書」/『鎌倉遺文』8775〕
加賀国
能美郡
- 元亨4年(1324),能美郡軽海郷(石川県小松市軽海周辺)の住人に佐藤次郎〔「金沢文庫文書」/『鎌倉遺文』28824〕
越前国
坂井郡
- 弘安9年(1286),坂井郡河口荘兵庫郷(坂井市坂井町兵庫)の住人に左藤氏〔「成簣堂文書」/『鎌倉遺文』16142〕
- 元応1年(1319),坂井郡坪江下郷三国湊(坂井市三国町)の住人に左藤権守〔「内閣文庫蔵大乗院文書」/『鎌倉遺文』27356〕
坪江下郷の記録では,「左藤権守」のほかに,「江藤次」,「新藤次」などの名が見えるから,名字(世襲される家系の名称)というより,個人名としての使用例と思われる。
なお,坂井郡においては,鎌倉時代,三宅村(福井市三宅町)に佐藤氏流後藤氏の居館があったとの伝承がある〔「越前国名勝志」,「越藩拾遺録」〕ほか,現代の坂井市春江町中庄は福井県内で最も佐藤氏の多い地域である〔『宮本姓氏』〕ことから,鎌倉時代から佐藤氏がいて,現代まで続いているとしても不自然ではない。
甲斐国
山梨郡・八代郡
- 寿永4年(1184),佐藤信重[三郎兵衛]・師重兄弟が,甥の継信・忠信兄弟の安否を尋ねて陸奥国から来て甲斐国に留まっていたところ,翌年に継信が戦死したとの知らせを聞いたため,兄・信重は山梨郡日影(甲州市大和町日影)に,弟・師重は八代郡菱山(甲州市勝沼町菱山)に土着したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
佐藤信重・師重以後の子孫の事績は,16世紀半ばの武田氏家臣・佐藤主馬までの約350年間にわたって不詳であり,信重・師重の行動の合理性のなさも相まって,上記伝承をそのまま信用することはできない。また,信重・師重の名は,他地域の系図・伝承では見られない。
なお,伝承によって異同があり,信重・師重兄弟について,(陸奥国出身ではなく)出羽国出身とするもの,継信・忠信兄弟の(叔父ではなく)子とするものなどがある。
これに関連して,相模国愛甲郡(神奈川県相模原市緑区)には「鎌倉時代に甲斐国から移住してきた」との伝承がある〔『角川姓氏』〕。
都留郡
- 鎌倉時代初期,都留郡桂(都留市桂町)に佐藤氏が土着したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
上記山梨郡での伝承と関連するかは不明である。
これらに関連して,都留郡四方津(上野原市四方津)の奥平神社(鼓楽神社)は,承久1年(1219)の創建と伝え,佐藤継信・忠信兄弟を祭神としている〔『北都留郡誌』,『角川地名』,「山梨県神社庁」〕。
信濃国
佐久郡
- 14世紀初頭,佐久郡軽井沢(北佐久郡軽井沢町)に佐藤氏が土着したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
出自不詳。佐久郡では,戦国時代以降佐藤氏の記録があるものの,鎌倉時代から室町時代の事績は不明である。なお,隣接する上野国碓氷郡(群馬県)では奥州合戦(1189)後に陸奥国から来住したと伝える佐藤家があり,同じく隣接する上野国吾妻郡(群馬県)でも陸奥国出身という佐藤家の墓地に文永年間(1264-1275)の板碑が残る〔『角川姓氏』,「関東地方の佐藤氏の歴史」〕。
また,佐久郡梨沢(北佐久郡御代田町豊昇)では,同地の起源に関して,寿永1年(1182)に佐藤氏が,柳沢氏とともに,山城国から信濃国に来て,善光寺(長野市)に参詣した後当地に至り,梨の木を植え氏神に祀ったとの伝承がある。
伊勢国
鈴鹿郡
- 元暦年間(1184-85),佐藤継信・忠信兄弟(または継信)が,鈴鹿郡に滞在した際,鈴鹿郡鷲山(亀山市関町鷲山)に羽黒権現を勧請したとの伝承がある〔『角川地名』〕。
この経緯について,「継信またはその家来が病気にかかったため羽黒権現に祈願を続けたところ治癒したから」,「故郷を懐かしんで」といった説明がされる〔「観光三重」,「亀山こども歴史館」,「亀山市観光協会」など〕。ただし,一般に継信・忠信兄弟の「故郷」は,羽黒山のある出羽国(山形県)ではなく,陸奥国信夫郡(福島県福島市)と考えられている〔「吾妻鏡」など〕。
なお,羽黒山関連では,羽黒山のある出羽国田川郡(山形県鶴岡市)では先祖を佐藤忠信の孫・清信として代々出羽神社の修験者であったと伝える佐藤家,陸奥国岩手郡(岩手県盛岡市)では先祖を佐藤継信として鎌倉時代から代々羽黒派の修験者であったと伝える佐藤家がある。これらを踏まえると,鷲山の羽黒権現は,継信・忠信自身ではなく,その子孫を称する出羽国出身の佐藤氏(またはその関係者)が勧請したものと考えるのが妥当であるように思われる。
特に,鈴鹿郡鷲山に隣接する鈴鹿郡小野(亀山市小野町)には先祖を佐藤継信・忠信兄弟とする佐藤家があり〔『角川地名』〕,地理的には関連が窺われる。この点について,一志郡神戸(松阪市肥留町)の佐藤家系図によると,16世紀半ばごろの同家の当主佐藤信安の末弟・実信の註に「鈴鹿ノ関ニ止ル」とあり〔『福島市史』〕,実際,現代も鈴鹿関(亀山市関町)の周辺には佐藤氏の集住地域がいくつかある〔『宮本姓氏』〕。なお,同家は,14世紀半ばに陸奥国信夫郡(福島県福島市)から来住した系統であるが,系図によれば,継信・忠信兄弟の系統ではなく,同兄弟の伯父の系統である(後述)。
南北朝・室町時代
図2.南北朝・室町時代の中部・北陸地方の佐藤氏の分布
越後国
蒲原郡
- 観応1年(1350),越後守護代・上杉憲将と敵対する軍勢が蒲原郡如法寺(三条市如法寺)の佐藤氏のもとに陣を構え,上杉氏側の軍と交戦した〔「南狩遺文」/『大日本史料』,『越佐史料』〕。
不詳2。如法寺3には如法寺城(または一ケ沢城)と呼ばれる城跡がある。また,同地の海蔵院には,元亨1年(1321)建立の「誓阿」の供養碑がある〔『角川姓氏』〕。
この点について,前掲の元弘3年(1333)の反幕府軍中に見える越後国の佐藤見阿は,その名前からすると,「誓阿」の後継の人物で,蒲原郡如法寺の人物ではないかと思われる。
三島郡
- 貞治年間(1362-68),三島郡稲川(三島郡出雲崎町稲川)の荒城主・佐藤孫次郎が,上杉憲顕の攻撃を受けて敗れた〔『三島郡誌』,『日本城郭大系』〕。
魚沼郡
- 永和4年(1376),陸奥国出身の佐藤信弘[源太郎]が魚沼郡赤土(魚沼市赤土)に来住し,長禄1年(1457)に4代後の真信が上野国甘楽郡(群馬県)に移住したとの伝承がある。先祖は藤原清衡の弟・遠衡という〔『角川姓氏』〕。
上野国多胡郡(群馬県高崎市)での伝承による。
若狭国
遠敷郡
- 暦応4年(1341),遠敷郡太良荘(小浜市太良庄)の住人に佐藤太〔「東寺百合文書」は〕
- 正長2年(1427),遠敷郡太良荘(小浜市太良庄)の無宿人に太郎左藤次〔「東寺百合文書」と〕
暦応4年(1341)の記録では佐藤太の兄が紀藤太(または木藤太)を称していること,正長2年(1427)の記録では「太郎左藤次」とあることから,どちらの「佐藤」も名字ではなく個人名の一部と思われる。
信濃国
高井郡
- 14世紀前半以前,高井郡中野郷(中野市)に中野佐藤太の所領があった〔「岡本文書」/『大日本史料』〕。
当記録は,貞和1年(1345)に足利尊氏が岡本良円に「中野佐藤太跡」という高井郡中野郷を与えた旨の下文による。
高井郡中野郷(中野市)は,寿永2年(1183)以降,佐藤氏流尾藤氏の所領となっている〔「吾妻鏡」〕から,中野佐藤太もこの一族であると思われる。
なお,中野郷西条(中野市西条)の領主には,平安時代末期に「藤原助弘」,鎌倉時代前ごろに助弘の跡を継いだ「中野能成」,「中野忠能」の名前が見えるが〔「市河文書」,『信濃史料叢書』3,『角川地名』〕,尾藤氏との関係は明らかでない。
伊那郡
- 建徳2年(1371),南朝の新田氏の家臣・佐藤家信[太郎兵衛尉]が信濃国に移り,子・倫信[小藤太]のとき伊那郡浪合(下伊那郡阿智村浪合)から出羽国村山郡(山形県)に移ったとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
出羽国村山郡(山形県)の系図の記載による。この伝承に関連して,史書「鎌倉大草子」や「南山巡狩録」には,南朝の新田行啓以下の家臣団が伊那郡大河原(下伊那郡大鹿村大河原)に隠れていたが,元中2年(1385)ごろに伊那郡浪合で戦闘となって敗れ(浪合合戦),陸奥国宮城郡塩竈(宮城県塩竈市)または岩城郡付近(福島県いわき市)に逃れ,のち相模国足柄下郡(神奈川県足柄下郡)に逃げた旨の記述がある。また,この出来事を題材とした軍記物語「浪合記」も存在する。上記伝承は,これらの所伝をもとにしたものと思われる。ただし,その所伝中に佐藤氏の名前や出羽国村山郡の地名は見えない。「浪合記」によれば,浪合合戦に参加者の子孫は三河国や尾張国に居住した者がほとんどである。
伊豆国
田方郡など
- 15世紀前半,那賀郡(西伊豆町周辺)と大嶋郡(東京都大島町)の地頭・佐藤忠義[大隈守]が,上杉禅秀の乱(1416)で中立的な立場を取ったために所領を没収され,田方郡蛭ケ島吉村(伊豆の国市四日町)に移住したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
陸奥国白河郡(福島県白河市)の系図の記載による。
駿河国
安倍郡
- 14世紀ごろ,佐藤氏が安倍郡日向(静岡市葵区日向)に土着したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
飛騨国
大野郡
- 文安6年(1449),大野郡河上荘(高山市の牧谷川流域)の住人・佐藤四郎が,同じく住人の栗原衛門から田畑を譲り受けた〔「了徳寺文書」,『角川地名』〕。
美濃国
加茂郡・武儀郡
- 14世紀後半ごろ,佐藤高清[源左衛門尉]が,美濃守護・土岐頼康[在位:1342-88]に仕えたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
相模国愛甲郡(神奈川県相模原市緑区)の系図の記載による。また,武儀郡八幡(関市武芸川町八幡)でも室町時代に土岐氏に仕えたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
佐藤高清の頃の拠点は不明であるが,戦国時代ごろの子孫が加茂郡や武儀郡(岐阜県の中南部)を中心に居城を構えていることを踏まえると,当時から加茂郡・武儀郡内に同家の拠点があった可能性が高い。
当系図によると,先祖は佐藤秀信[出羽庄司]の子・次信[三郎兵衛]で,出羽国(秋田県・山形県)内の領主であった旨の記述がある。次信(継信)は,一般的には,陸奥国信夫郡(福島県福島市)の領主の佐藤元治[信夫庄司]の子であると理解されている〔「吾妻鏡」など〕。しかし,佐藤家の系図の中には,継信(と弟・忠信)の父を「秀信[出羽庄司]」とするものが,当系図のほかにも,陸奥国閉伊郡(岩手県),越後国三島郡(新潟県),阿波国阿波郡(徳島県)4にあり,また,「正信[出羽庄司]」とするものが陸奥国白河郡(福島県)にあり,いずれもその「出羽庄司」の先祖を藤原公郷・清郷父子とする。ほか,豊後国速見郡(大分県)でも「出羽庄司」が来住したとの伝承がある〔以上,『佐藤一族』,『角川姓氏』〕。
なお,同家の子孫は,以後4代にわたって土岐氏に仕えたが,その後,斎藤氏を経て,織田・豊臣・徳川氏に仕えた(後述)。
伊勢国
一志郡
- 14世紀前半,陸奥国信夫郡(福島県福島市)の武士・佐藤清親[十郎左衛門入道性妙]らの一族が,全国各地の内乱に従軍した。観応の擾乱(1350-1352)後には,南朝の伊勢国司・北畠氏に招かれて伊勢国に拠点を移し,また,北朝の伊勢守護・仁木氏にも従って軍功を上げ,一志郡神戸(松阪市肥留町周辺)・雲津(津市香良洲町・雲出本郷町周辺)などに所領を得た〔「伊勢佐藤文書」/『大日本史料』〕。
当家の系図によると,佐藤清親らの先祖は平安時代末期の信夫郡の領主の佐藤元治の弟・師泰[白河太郎]である。14世紀には,この清親が信夫佐藤氏を代表して各地を転戦していることから,元治の直系ではない系統が信夫佐藤氏の惣領の地位にあったものと考えられる。
なお,清親らの一族は,伊勢国のほかにも,相模国大住郡(神奈川県伊勢原市)や近江国蒲生郡(滋賀県近江八幡市周辺),摂津国河辺郡(兵庫県尼崎市周辺)にも所領を得て,移住している〔「関東地方の佐藤氏の歴史」,「近畿地方の佐藤氏の歴史」〕。
戦国・安土桃山時代
図3.戦国・安土桃山時代の中部・北陸地方の佐藤氏の分布
越後国
岩船郡
- 永正6年(1509),岩船郡入山田(村上市上山田)に左藤次郎〔「耕雲寺文書」,『角川地名』〕
- 天正7年(1579),鮎川氏家臣の佐藤太郎左衛門が,戦功により,岩船郡入山田(村上市上山田)に所領を得た〔「歴代古案」,『越佐史料』,『角川地名』〕。
蒲原郡
- 永正7年(1510),上杉氏家臣の佐藤修理亮が,蒲原郡五十嵐保大浦(三条市上大浦・下大浦)の領有を承認された〔「歴代古案」,『越佐史料」』,『角川地名』〕
- 慶長1年(1596),越中国(富山県)出身の佐藤惣右衛門が,蒲原郡小池村(燕市小池)を開発し,居住した〔「小池村勢要覧」,『角川地名』〕。
- 天正16年(1588),上杉氏家臣の佐藤石見守が,新発田城の守備を命じられ,「館廻」に所領を得た〔「佐藤信敬所蔵文書」,『角川地名』,『 史料綜覧』〕。
古志郡
- 天正6年(1578),上杉氏家臣の佐藤氏が,古志郡栃尾(長岡市栃尾町)の栃尾城に在城することを命じられた〔「歴代古案」,『越佐史料」』,『角川地名』〕。
魚沼郡
- 永正1年(1504),藤原氏が,石見国(島根県)から佐渡国(佐渡市)に移住して「佐藤」と改め,その後,魚沼郡小千谷(小千谷市本町)に移住したとの伝承がある〔『評伝佐藤雪山』〕。
- 天正6年(1578)の御館の乱(1578)での功績で,上杉氏家臣の佐藤弥右衛門が,魚沼郡広瀬(魚沼市の北西部,破間川流域)内の土地の領有を承認された〔「歴代古案」,『角川地名』〕
- 天正9年(1581),上杉氏家臣の佐藤新兵衛が,戦功により,魚沼郡広瀬(魚沼市の北西部,破間川流域)内に所領を得た〔「覚上公御書集」,『越後入広瀬村編年史』,『角川地名』〕。
刈羽郡
- 天正9年(1581),上杉氏家臣の佐藤仁兵衛・甚兵衛らが,刈羽郡加納(柏崎市加納)に所領を得た。
- 16世紀末,刈羽郡小国(長岡市小国町小国沢)の小国城主に上杉氏家臣の佐藤義信[大膳]がいた〔『角川姓氏』〕。先祖は源頼政と伝える〔『温故の栞』〕。
慶長3年(1598)の上杉氏の会津移封には従わず,新たに高田藩(福嶋藩)主となった堀氏に属したが,慶長15年(1610)に堀氏が改易された後,当主の佐藤頼尚[大善大夫]は,従来の居所であった刈羽郡千谷沢(長岡市小国町千谷沢)で帰農した〔『広報おぐに』181〕。
越中国
- 16世紀,新川郡池田(中新川郡立山町池田)の池田城主の寺嶋氏家臣・佐藤三郎右衛門が,落城(1583年以降?)後,新川郡松倉(中新川郡立山町松倉)に留まり,同地を開発したとの伝承がある〔「東谷村誌」,『角川姓氏』〕。
加賀国
風至郡
- 16世紀,東福寺領の鳳至郡志津良荘(輪島市周辺)の在地の代官に佐藤宗信〔「栗棘庵文書」,『角川地名』〕
石川郡
- 文明14年(1482),石川郡赤土村(金沢市赤土)の住人に佐藤六〔「鹿王院文書」〕
甲斐国
山梨郡
- 永正7年(1510),佐藤頼秀[孫左衛門尉]が山梨郡満力(山梨市万力)の地下一族の旦那を売却した〔「潮崎稜威主文書」,『熊野那智大社文書』,『角川地名』〕。
- 16世紀半ばから後半ごろ,武田氏家臣に佐藤氏がいた。永禄11年(1568)には,佐藤主馬が山梨郡勝沼郷(甲州市勝沼町周辺)に所領を得た〔「佐藤又七郎所蔵文書」,『甲州古文書』,『角川姓氏』〕。武田氏没落(1582)後は,北条氏を経て徳川氏に仕えたあと帰農した〔『角川姓氏』〕。
- 16世紀前半の武田信虎のころ,伊予国の河野氏家臣の鉄砲師の佐藤一甫斎が甲斐国に移住した。武田氏没落(1582)は上杉氏に仕えたが,小田原合戦の際に口論をして処刑された〔『角川姓氏』〕。
- 永禄9年(1566),山梨郡鶴瀬(甲州市大和町鶴瀬)に佐藤与五右衛門〔「佐藤又七郎所蔵文書」,『甲州古文書』,『角川地名』,『角川姓氏』〕
八代郡・都留郡
- 天文19年(1550),武田氏家臣の佐藤内蔵助が,「海津城において別而の奉公」があったため,八代郡黒駒(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒),都留郡吉田(富士吉田市)に所領を与えられたとの伝承がある。先祖は佐藤信忠[秀之允]という〔「相模国風土記稿」,『角川姓氏』〕。
相模国足柄下郡宮上村(神奈川県足柄下郡湯河原町宮上)の佐藤家所蔵の文書による。「海津城」は,信濃国埴科郡海津(長野県長野市松代町松代)の海津城と思われる。
都留郡
- 16世紀後半から末ごろ,都留郡吉田(富士吉田市)の上吉田宿の富士山吉田組の御師に佐藤氏〔『角川姓氏』〕
- 慶長1年(1593),佐藤帯刀が都留郡殿上(大月市猿橋町殿上)に法国山阿弥陀寺を開創した〔『角川地名』〕。
信濃国
高井郡
- 永禄11年(1568),武田氏家臣の佐藤主馬が,高井郡井上(須坂市井上)に所領を得た〔「佐藤又七郎所蔵文書」,『甲州古文書』,『角川姓氏』〕。
佐久郡
- 16世紀,佐久郡軽井沢(長野県北佐久郡軽井沢町)に武田氏家臣の佐藤氏がいたとの伝承・記録がある。享禄年間(1528-1532)から武田氏に仕え,武田氏による佐久郡平定(1553)の頃に碓氷峠の警備のために来住したといい,武田氏没落(1582)後は,真田氏,北条氏を経て豊臣氏,徳川氏に従った〔「信濃佐藤文書」,『信濃史料』,『角川姓氏』,『佐藤一族』〕。
武田氏に仕えるまでの事績は不明。先述のとおり,佐久郡軽井沢には,この伝承とは別に,14世紀初頭に土着したとの伝承があり,また,隣接する上野国碓氷郡・吾妻郡(群馬県の北西部)には鎌倉時代から居住すると伝える佐藤家が多い〔『角川姓氏』〕。これらの点から,この伝承を伝える佐藤家もまた同族で,佐久郡周辺の地侍の家系であったと思われる。
なお,上野国碓氷郡入山(群馬県安中市松井田町)には碓氷峠の南の入山峠についても佐藤氏が警備を任されていたとの伝承があり,上野国吾妻郡(群馬県吾妻郡)と片岡郡(群馬県高崎市)にも16世紀半ばから武田氏に仕えた佐藤氏がいた〔『角川姓氏』〕。
- 16世紀ごろ,佐久郡猿が窪(佐久市猿久保)の佐藤善右衛門が,武田氏家臣の跡部氏に仕えたとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
上野国吾妻郡大笹(嬬恋村大笹)での伝承による。
- 16世紀,佐久郡耳取(小諸市耳取)の佐藤氏が,大井氏に仕えたのち,武田氏に仕えたとの伝承がある。先祖は佐藤監物と伝える〔『甲信美名鑑』〕。
- 天正年間(1573-92),武田氏家臣の佐藤行信が帰農したとの伝承がある。先祖は越後国出身という〔『甲信美名鑑』,『角川姓氏』〕。
佐藤行信の伝承は佐久郡塩名田(佐久市塩名田)の佐藤家の伝承であるが,帰農した場所の明記はなく,実際,塩名田に宿場が形成されたのは慶長7年(1602)である〔『長野県町村誌』〕。そして,佐久郡耳取と塩名田は隣接する集落であり,また,塩名田佐藤家の菩提寺(鷹取山玄江院)が耳取に所在したことからしても,両者は同族と思われる。
「佐藤監物」については,16世紀半ばの上野国吾妻郡(群馬県吾妻郡)の斎藤氏家臣(のち武田氏・真田氏家臣)に見える。監物を先祖とする伝承は,上野国碓氷郡(群馬県安中市など)や甘楽郡(群馬県富岡市など)に複数あるほか,監物の兄弟の系統は上野国片岡郡(群馬県高崎市)で高崎藩士などとして続いた。また,先祖が越後国魚沼郡出身という伝承が上野国多胡郡(群馬県高崎市)にある〔以上,「関東地方の佐藤氏の歴史」〕。
- 16世紀半ば,武田氏家臣の佐藤氏が,川中島の戦い(1553-64)から退陣する際に,佐久郡三ツ井(佐久市協和三井)に立ち寄り,土着したとの伝承がある。先祖は藤原成清[佐藤冠者]という〔『甲信美名鑑』〕。
出自不詳。土着の経緯も脈絡がなく,創作的に見える。藤原成清[佐藤冠者]は「尊卑分脈」に記載がある。また,この伝承では,家祖・佐藤道玄[善左衛門]の父を「藤原清衡」とするところ,同名の「藤原清衡」を先祖とする伝承が上野国多胡郡(群馬県高崎市)にある5。
全般的に,佐久郡の佐藤氏の伝承は,上野国の佐藤氏の伝承と共通する要素が多く見られる。
小県郡
- 天正8年(1580),真田氏家臣に佐藤備中守,佐藤豊後守,佐藤備後守〔『角川姓氏』〕
真田氏は,小県郡真田(上田市真田町)を本拠とした武田氏家臣であるから,これらの佐藤氏は,佐久郡軽井沢の佐藤氏か,上野国吾妻郡・片岡郡の佐藤氏と思われる。
伊那郡
- 天文20年(1551)ごろ,武田氏家臣の佐藤氏が,伊那郡高名地(不詳/駒ヶ根市?)に移住した〔『佐藤一族』〕。
伊豆国
田方郡・加茂郡
- 15世紀末,狩野氏家臣で加茂郡大見郷(伊豆市柳瀬周辺)の地侍の佐藤行広[藤左衛門]・七郎左衛門[四郎兵衛]らが伊勢氏(のちの北条氏)に寝返り,以後,天正18年(1590)まで北条氏に仕えたとの伝承がある〔以下,『角川姓氏』〕。
- 天文12年(1543),田方郡横山郷(伊豆市城)の住人に佐藤藤左衛門
- 天文13年の(1544),田方郡長浜郷(沼津市内浦)の代官に佐藤氏
駿河国
安倍郡
- 16世紀後半,今川氏家臣の佐藤善良が,桶狭間の戦い(1560)に敗れて一時流浪したあと,安倍郡水見色村(静岡市葵区水見色)を開拓し,帰農した〔以下,『角川姓氏』〕。
- 16世紀末,武田氏家臣の佐藤氏が,武田氏没落(1582)後に,安倍郡有永(静岡市葵区有永)に来住した。
- 慶長4年(1599),安倍郡足久保(静岡市葵区足久保)に佐藤弥六太夫
敷知郡
- 永禄3年(1560),今川氏家臣に,敷知郡浜松(浜松市)の佐藤佐通[六左衛門]〔『角川姓氏』〕
美濃国
加茂郡・武儀郡など
- 16世紀半ば,土岐氏家臣の佐藤氏は,加茂郡加治田(加茂郡富加町加治田)の加治田城を主要な拠点とした。土岐氏没落(1542)後は斎藤氏に仕え,永禄8年(1565)には織田氏に寝返った。16世紀後半ごろの加治田佐藤氏の一族の居城は,方県郡城田(岐阜市城田寺),加茂郡蜂屋(美濃加茂市蜂屋町),武儀郡坂之東(加茂郡白川町坂ノ東)にあった。その後,織田氏没落(1582/本能寺の変)したため,一族のほとんどは周辺各地で帰農した。ただし,加茂郡加治田の佐藤昌信は天正11年(1583)に相模国愛甲郡(神奈川県相模原市緑区)に移って帰農したほか,可児郡兼山(可児市兼山)の佐藤堅忠は豊臣氏に仕えたあと,徳川氏に仕えた〔『佐藤一族』,『富加町史』〕。
武儀郡
- 16世紀前半ごろ,佐藤氏が,武儀郡内に所領を得て,武儀郡上有知(美濃市の中心部)に城を築いて拠点とした。16世紀半ばごろには斎藤氏に仕え,その後,織田氏,豊臣氏に仕えたが,関ヶ原の戦いでは西軍に味方して敗れ,石津郡乙坂(大垣市上石津町乙坂)で帰農した系統のほか,鳥取藩主・池田家に仕えた系統に分かれた〔『佐藤一族』,「斐太後風土記」〕。
- 16世紀,土岐氏家臣で,武儀郡八幡(関市武芸川町八幡)の領主であったという佐藤氏の伝承がある〔『佐藤一族』〕
多芸郡
- 文明年間(1469-87)の初めごろ,多芸郡志津(海津市南濃町志津)に,佐藤氏が志津山城を築いて拠点としたが,永禄7年(1564)に同城を攻め落とされた後は丸毛氏に仕え,多芸郡栗笠村(養老郡養老町栗笠)に移住して帰農したとの伝承がある〔「志津記」,「美濃国古代人物誌」,『養老郡志』,『佐藤一族』〕。
「美濃国古代人物誌」では,加茂郡加治田と武儀郡上有知,多芸郡志津の佐藤氏は同族と推定されている。
また,同書には,佐藤氏が丸毛氏に従った理由について,丸毛氏が小笠原氏庶流であり,小笠原氏と佐藤氏が遠戚であったためと伝えるが,不詳である。
尾張国
海東郡
- 元亀2年(1571)ごろ,海東郡西保市江村(愛西市西保町・東保町周辺)に佐藤明見[旧名・佐々木祐成]〔『角川姓氏』〕
- 16世紀末ごろ,海東郡佐屋村(愛西市佐屋町)に佐藤彦八郎〔『角川姓氏』〕
伊勢国
員弁郡
- 天正年間(1573-92)ごろ,佐藤六左衛門尉の子・刑部大夫が,天正2年(1574)に桑名城の服部氏を攻めた際の戦功として,員弁郡野尻(いなべ市藤原町下野尻)に所領を得たとの伝承がある。
「六左衛門尉」の通称は,美濃国武儀郡上有知(岐阜県美濃市の中心部)の佐藤氏が代々用いているから,その同族と思われる。
桑名郡
- 元亀1年(1570),織田氏家臣で桑名郡江場(桑名市江場)の城主の佐藤秀勝[杢之助]が織田氏に追放され,元亀3年(1752)には子・秀道[杢之助/敦円]が同地に法城山円通寺を開いたとの伝承がある。
鈴鹿郡
- 16世紀後半ごろ,鈴鹿郡原村(鈴鹿市東庄内町)の住人に佐藤氏
「伊勢佐藤文書」中の系図には,16世紀半ばの一志郡神戸の佐藤家の当主・信安の弟・実信[左近将監]が,鈴鹿郡に移ったとの記述がある〔『福島市史』〕。
河曲郡
- 大永7年(1527),関氏家臣で,河曲郡神戸(鈴鹿市神戸)の佐藤長門守の邸宅に,連歌師の宗長が宿泊して連歌会を催した〔「宗長日記」〕。
- 16世紀半ばごろ,下野国出身で神戸氏家臣の佐藤中務大輔[中務小輔]が,河曲郡鬼神岡(鈴鹿市岸岡町)に城を築いて拠点としたが,弘治3年(1557),神戸氏の攻撃を受けて,子・又三郎とともに討死したとの伝承がある。先祖は藤原秀郷という〔『佐藤一族』,『日本城郭大系』〕。
- 元亀2年(1571),織田氏および神戸氏家臣の佐藤和泉守がその所領を承認された〔「神戸録」,『織田信長家臣人名辞典』〕。
一志郡
- 16世紀半ば,北畠氏に仕えた一志郡神戸(松阪市肥留町周辺)の佐藤氏が,天文11年(1542)に一時浪人となって所領を失ったが,天文24年(1555)に復帰して所領を返還された〔「伊勢佐藤文書」〕。
- 天正12年(1584),一志郡戸木(津市戸木町)の城主・木造氏の家臣に佐藤氏がいたとの伝承がある〔「木造記」〕
江戸時代
戦国時代に武家であった佐藤家のほとんどは,主家の滅亡・没落と共に帰農した。江戸時代まで武家として続いたのは,上杉氏や武田氏,徳川氏に仕えた一部の家のみである。特に,美濃国加茂郡伊深(美濃加茂市伊深町)の佐藤家は江戸幕府の旗本として存続した。
佐藤氏の藩士が確認できる藩
| 国 | 藩 | |
|---|---|---|
| 北陸道 | 越後 | 高田藩,新発田藩 |
| 越中 | 富山藩 | |
| 加賀 | 加賀藩 | |
| 越前 | 福井藩 | |
| 東山道 | 信濃 | 高遠藩(→出羽・山形藩→陸奥・会津藩) |
| 東海道 | 三河 | 吉田藩,田原藩,西尾藩 |
| 尾張 | 尾張藩,尾張藩>犬山藩 | |
| 伊勢 | 亀山藩 | |
東京時代
図5.現代の中部・北陸地方の佐藤氏の分布
参考文献
中村(長岡市与板町南中)の起源について,慶長3年(1598)または慶長10年(1605)に佐藤甚左衛門が開発したとの伝承がある〔『三島郡誌』〕。 ↩︎
なお,厳密にいうと,当該記録〔『大日本史料』南朝承平5年・北朝観応1年9月16日条〕中には上杉氏に対する敵陣が「如法寺左藤」に構えられたことが記されているのみで,この敵陣内に佐藤氏がいたかどうかまでは明らかでない。しかし,「左藤」が地名であるとは考えにくいから,本記事では「如法寺の佐藤氏の居城」に陣が構えられたものと解釈する。 ↩︎
寺院名ではなく,かつて存在したという寺院名に由来する地名である。市内に現存する如法寺(三条市長嶺)は,当地にあった如法寺の末寺にあたる〔『角川地名』〕。 ↩︎
「阿波国阿波郡(徳島県)」の系図は同郡伊月村(阿波市市場町伊月)の系図を指すところ,同系図には「秀信[出羽庄司]」の記載があるのみで,継信・忠信の記載はない〔『佐藤一族』〕。 ↩︎
ただし,生存年代は異なる。 ↩︎



