豊前国の佐藤氏系図
目次
概要
この記事では,豊前国下毛郡上秣村(大分県中津市三光上秣)の佐藤家に伝わる系図について検討する。
比較的長大な系譜であるが,信用できる部分は16世紀後半以降の10世代程度に過ぎない。これより前の部分は,波多野氏の系図を継ぎ接ぎしたような構成になっており,また,そのために世代数も過剰である。
佐藤氏系図一般と比べて特徴的な部分は,東北地方の佐藤氏の系統に結びつけず,あくまで波多野氏の系統とする点である1。
秀郷から公俊まで
「尊卑分脈」と比較すると,藤原秀郷から公光までの代数は一致するが人名は一致せず,秀郷の子で(強引に)埋め合わせているようにみえる。また,公光の子も「尊卑分脈」より多い。
公光から信景まで
このあたりも「尊卑分脈」と比較して,親子・兄弟関係に混乱がある。
また,下図のとおり,藤原公俊[1057年没]の子・禅能について12人の子を載せている。しかし,一般に,禅能は豊後守護・大友能直[1223年没]の子で,能直の12人の男子のうちの一人である〔「大友氏系図」(『続群書類従』)など〕。そうすると,当系図の禅能以下の部分は大友氏の系図を,特に考証せず(または誤って)接合したものと思われる。
信景から実綱まで
このあたりは「波多野系図」〔『続群書類従』〕と共通する人名が多く,同類の系図を参照していると思われるが,位置関係はひどく混乱している。そうすると,この部分についても特に考証をすることなく(または誤って)波多野氏の系図を接合したものと思われる。
実綱から兼通まで
この部分については,単系で繋いでる上に世代数が不自然であるため,信用できない。
具体的には,麻生氏に仕えたという佐藤兼通について応安年間(1368-75)の事績を載せているところ,先述した佐藤信景は13世紀前半ごろの人物であるから,その差を16世代差(400年から500年程度)とすることは明らかに過剰である。
なお,人名については,「波多野系図」の菖蒲実経[沼田七郎八郎]以下の系統2とほとんど一致する。そして,当系図で兼通の父とされる政秀や祖父とする実清は,「波多野系図」では鎌倉時代後期ごろの位置にあるから,この観点からしても数世代足りないことになる。
総じて,「波多野系図」を無理に引き延ばし,佐藤兼通に繋げたような構成になっている。
兼通から兼久まで
佐藤兼信について,麻生氏に仕え,弘治年間(1555-58)に没した旨の註がある。この7代前の兼通は,先述のとおり,14世紀後半ごろの人物であるから,この辺りは(単系で繋いでいる点は不審であるとしても)世代数が過剰ということはない。
兼通から兼久まで
兼家について享保年間(1716-36)に別家した旨の註がある。
一般に,佐藤氏の系図は陸奥国・出羽国の佐藤氏に結びつけるものがほとんどである〔「佐藤氏の系図」〕。また,九州地方のほか,中国・四国地方における伝承でも東北地方出身とするものが多い。しかし,東北地方の佐藤氏が九州地方等に来住したことを示す確かな証拠はない。一方で,東北地方の佐藤氏とは別の佐藤氏の分流,すなわち波多野氏流の諸氏(波多野氏,松田氏,河村氏,広沢氏,菖蒲氏など)や伊賀氏,尾藤氏などが九州・中国地方に所領を得ていた確かな証拠が多数ある。しかも,彼らが「佐藤」を称したことが諸史料で確認できる。こうした点を踏まえると,伝承等を無視して確実な史料を重視すれば,西日本の佐藤氏の多くは,東北地方の佐藤氏の系統というより,波多野氏流等の系統とみる方が妥当と思われる〔以上,「中国・四国地方の佐藤氏の歴史」,「九州地方の佐藤氏の歴史」参照〕。 ↩︎
菖蒲氏は,鎌倉時代に石見国長野荘黒谷郷・美濃地村(島根県益田市美濃地町・上黒谷町・桂平町周辺)の地頭職を得て,その後も室町時代まで同地周辺で活動が見える〔「菖蒲氏」〕。 ↩︎