日本の歴史に名前を残す佐藤氏を挙げる。

歴史事典に名前が載る佐藤氏

「歴史に名前を残す」を「現代の歴史の教科書や事典に名前が載っていること」と見なし、各種事典を調査した。なお、人名はいずれも出生順で、職業のほか代表的な事績・肩書き、作品等を付記した。

日本史用語集

まず、高校の日本史の用語集1に立項されている佐藤氏は以下の4名である。

  • 佐藤義清[西行](歌人)『新古今和歌集』に94首入集、『山家集』
  • 佐藤信淵(経済学者)『経済要録』
  • 佐藤春夫(小説家・詩人)『殉情詩集』、『田園の憂鬱』
  • 佐藤栄作(政治家)内閣総理大臣、ノーベル平和賞受賞
特に重要な日本史上の佐藤氏

このうち最も重要度が高いのは佐藤栄作で中学校レベルの教科書にも名前が載る。また、栄作の実弟信介は岸家の養子となったため岸信介として立項されている。ほか、赤痢菌を発見した細菌学者の志賀潔も元は佐藤家に生まれたが志賀家の養子となった人物である。

さらに、同族の範疇では佐藤義清(西行)の8代前の祖先藤原秀郷が平将門の乱(939-940)鎮定の功労者として掲載されている。

日本史事典

中〜小規模の日本史事典2には上記人物のほかに4名の立項がある。

  • 佐藤直方(儒学者)『韞蔵録』
  • 佐藤一斎(儒学者)林家塾塾頭、昌平坂学問所教官
  • 佐藤泰然(蘭方医)佐倉順天堂医院(のちの順天堂医院・順天堂大学)の開設者
  • 佐藤尚中(医家)泰然の養子、順天堂医院長
重要な日本史上の佐藤氏

『国史大辞典』

最大級の日本史事典『国史大辞典』(吉川弘文館,1979-1997)では、さらに18名が加わる。差し当たり、ここに掲載されている人物たちが「(20世紀末時点の)日本史上の佐藤氏」と呼べる限度であろう。

  • 佐藤継信(武士)藤原秀衡の郎党、源義経の側近
  • 佐藤忠信(武士)継信の弟、藤原秀衡の郎党、源義経の側近
  • 佐藤藤蔵(砂防植林功労者)
  • 佐藤成裕[中陵](本草学者)『山海庶品』
  • 佐藤卯兵衛(酒造家)
  • 佐藤三喜蔵(一揆首謀者)高崎五万石騒動の指導者
  • 佐藤清臣(国学者)
  • 佐藤誠実(考証学者)『古事類苑』の編纂
  • 佐藤進(医家)尚中の養子、陸軍軍医総監、順天堂医院長
  • 佐藤昌介(農業経済学者)北海道帝国大学初代総長
  • 佐藤鉄太郎(海軍軍人)海軍大学校長、貴族院議員
  • 佐藤北江(新聞記者)
  • 佐藤紅緑(俳人・劇作家)
  • 佐藤義亮(出版業者)新潮社の創設
  • 佐藤尚武(外交官・政治家)ソ連対日参戦時の駐ソ連大使、参院議長
  • 佐藤繁彦(キリスト教神学者)
  • 佐藤惣之助(詩人)
  • 佐藤賢了(陸軍軍人)陸軍省軍務局長、東条英機の側近、A級戦犯

佐藤氏の歴史上の重要人物

ここまで日本史上の重要な佐藤氏について各種事典の項目を根拠に列挙したが、今度は当サイトの本筋である佐藤氏の歴史において重要な佐藤氏を挙げたい。選定の基準は、その人物の史実上の活動が現代の佐藤氏の人口や分布に強く影響していると想定されること、佐藤氏の中では特筆すべき事績があることの2点である。また、江戸時代以前に活動した人物を対象とした。

平安時代

  • 藤原公行(貴族・武士)源経頼の側近、佐藤氏の祖
  • 佐伯経範(武士)源頼義の側近、波多野氏の祖
  • 明算(僧侶)高野山検校
  • 佐藤元治(武士)藤原秀衡の側近、東北地方の佐藤氏の源流

佐藤氏の歴史上、誰よりも重要なのが佐藤氏の元祖藤原公行である。佐藤氏とは、本来この公行の子孫を指す称で、公行の生前最後の官職「佐渡守」に由来するからである。公行がいなければ佐藤氏は始まらないし、佐渡守に就いていなければ佐藤氏はなかったということになる。

公行の養孫にあたる佐伯経範(藤原公俊とも)は佐藤氏が全国に展開するきっかけとなる人物のひとりである。経範の子孫はのち波多野氏、松田氏、河村氏などに別れ、鎌倉幕府の御家人として本拠の相模国のほか、近畿や中国、九州に所領を得た。諸史料によるとこの一族は、波多野佐藤氏、河村佐藤氏、あるいは単に佐藤氏と称した記録があり、大分県では経範の系統の佐藤氏系図がある。確かなことは言えないが、この経範の子孫(波多野氏、松田氏、河村氏など)が九州を中心とする西日本の佐藤氏の源流の一つである可能性がある。

明算は系図上に記録はないが生没年から公行の孫世代と推定される。高野山真言宗中院流の開祖で、高野山検校(金剛峯寺の最高職)を務めるなど、高野山真言宗における重要人物である。

佐藤元治は、平泉藤原氏最盛期の重臣で、陸奥国信夫郡(福島県福島市)の領主である。元治の一族が、現代の東北地方中心に広がる佐藤氏の基層にあると考えられる。なお、朝廷の武官であるはずの佐藤氏が陸奥国の荘園領主となるに至る経緯は不詳で僭称説すらある。伝承では「前九年・後三年合戦の褒賞として拝領した」という説明と「出羽国司として赴任したのちに平泉藤原氏に招かれた」という説明の2パターンがある。

鎌倉時代

  • 伊賀朝光(武士・御家人)
  • 後藤基清(武士・御家人)
  • 佐藤業時(武士・御家人)

いずれも鎌倉幕府初期の御家人で、名字は異なるが佐藤氏出身の人物である。

伊賀朝光は、源氏に従って奥州合戦、比企能員の乱、和田義盛の乱で功績を挙げ、娘を2代執権北条義時の後妻とするなど鎌倉幕府の重鎮であった。そのため、所領を東北から中国地方の各地に得ており、子孫は伊賀氏(朝光の官職「伊賀守」による)を称して広がった。これもまた波多野氏同様に一部が佐藤氏に復した可能性がある。

後藤基清は、佐藤仲清(西行の兄)の実子で、後藤実基の養子。平氏の追討の功績で讃岐守護、のちに播磨守護などを歴任した。子基綱は評定衆・引付衆として、さらに歌人としても高名である。徳島県にこの後藤基清・基綱から続くという佐藤氏の系図があり、四国や中国地方の佐藤氏の源流の一つである可能性がある。

佐藤業時は鎌倉幕府評定衆で、子の業連もまた評定衆を務めたが、父子共に朝光や基清ほど目立った事績はない。後世、室町幕府の引付衆に佐藤氏が見え、この業時の子孫と思われる。また、鎌倉時代ごろの丹後国、出雲国、日向国の地頭に佐藤氏が見え、業時の一族の可能性がある。すなわち、この一族もまた西日本の佐藤氏の源流の一つであろうと思われる。

室町・南北朝時代

  • 佐藤清親(武士)信夫佐藤氏の総領

佐藤清親は、南北朝期の陸奥国信夫郡の佐藤家の総領で、佐藤元治の弟の系統と伝える。清親の一族は、主に北朝に従って全国各地を転戦し、伊勢国のほか、摂津国、相模国などに所領を得た。現代も三重県中部や木曽三川の下流部、神奈川県の相模川中流部に多い佐藤氏はこの系統と思われる。摂津国の一族は戦国時代に細川氏の被官として活動が見えるがその後の動向は不詳。また、一部は室町幕府で奉公衆として雇われた可能性があり、この系統は戦国時代に備後国や美作国(岡山市周辺)に移ったと伝える。

戦国・安土桃山時代

突出した事績のあった佐藤氏は特にいない。下剋上の時代にあって、蝦夷島から九州まで分布していたものの、大名レベルまで成長した家はなかった。

江戸時代

  • 佐藤堅忠(武士)

江戸時代、最も権力に近かったのは佐藤堅忠を初代とする幕府旗本の佐藤家であろう。堅忠は、美濃国出身で、織田氏、豊臣氏、徳川氏に仕えて江戸幕府成立を迎えた。遠祖は陸奥国出身と伝えるが、当家の系図は曖昧な部分が多い。諸史料や地理的関係からは先述の佐藤清親の系統と思われるが不詳である。


  1. 『山川日本史用語集』(山川出版社,2009)、『必修日本史B用語集』(旺文社,2002)より。 ↩︎

  2. 『山川日本史小辞典』(山川出版社,2001)、『日本史事典』(旺文社,2000)より。 ↩︎

公開   更新