近畿地方の佐藤氏の歴史
目次
はじめに
この記事では,①近畿地方の佐藤氏の歴史を概説したあと,②具体的な記録や伝承を時代・場所ごとに分類した。記事の主な執筆方針は下表のとおりとする。
表1. 歴史編(地方別)の主な執筆方針
| 1 | 対象とする時代 | 平安から安土・桃山時代を中心とし,江戸時代以降は主要な人名以外は載せない。 | |
|---|---|---|---|
| 2 | 場所の記述・分類方法 | 平安から江戸時代まで用いられた国・郡による。 | |
| 3 | 人名の表記 | 原則 | 「名字+実名」で表記し,通称や法名などは[ ]内に載せる。 |
| 通称等のみ判明 | [ ]を使用せずに「名字+通称」で表記する。 | ||
| 通称等も不明 | 「佐藤氏」とする。 | ||
| 4 | 信用性 | 信用できる記録等 | 「……した」などと断定で終える。 |
| 信用できない伝承等 | 「……との伝承がある」,「……と伝える」,「……という」などの表現で終える。 | ||
| 5 | 出典 | 文末・文中で〔 〕により資料名を示す。 | |
平安時代
佐藤氏は,11・12世紀を通して,朝廷の武官として皇族や摂関家に近侍してきた。そして,その嫡流は,摂関家領の紀伊国田仲荘・池田荘(和歌山県紀の川市)を継承して財を成し,12世紀後半には平氏政権に接近したが,治承・寿永の乱(1180-85)によって同政権が打倒されたことで後ろ盾を失った。元暦1年(1184)には,源氏に仕えた庶流の尾藤氏が,田仲荘・池田荘をはじめとした佐藤氏嫡流の所領と思われる土地の領有を源頼朝から承認されている。
山城国
- 長元1年(1028),三条(京都市)に藤原公行[前佐渡守]の自宅があった〔「小右記」〕。
藤原公行は,佐藤氏の祖で,佐藤氏の「佐」は公行の「佐渡守」に由来するものと考えられる〔『中世東国武士の研究』〕。ただし,公行自身が「佐藤」を称していたかは明らかでなく,確実な同時代史料では,公行の6代後にあたる藤原能清が,文治2年(1186)に「左藤左衛門尉能清」〔「高野山文書宝簡集」27/『平安遺文』108)〕と記録されている例が最も古い。後世(鎌倉時代)の史料まで含めると,公行の2代後と思われる僧侶・明算や5代後の僧侶・西行について,出家前は佐藤氏であったと説明する記録がある〔「元亨釈書」,「百錬抄」〕(後述)。
- 承安3年(1173),佐藤太が,左京の大宮大路の西・塩小路の北に面する土地(京都市下京区和気町付近)の西側を取得した〔「東寺百合文書」メ/『平安遺文』3624〕。
この記録は,先述の能清の記録(1186)よりも古い「佐藤」の(確実かつ同時代の)用例であるが,公行の子孫にあたる一族(いわゆる佐藤氏)であるかどうかは直ちに判断できない。
大和国
- 寿永2年・3年(1183・84),佐藤能清が,東大寺領広瀬郡小東荘(北葛城郡河合町)の仏聖免田を押妨したとして訴えられ,敗れた〔「東南院文書」6-3/『平安遺文』4100,6147〕。
紀伊国
那賀郡
- 天永1年(1110),藤原季清[上総権介]が,那賀郡名手郷(紀の川市名手市場から長田中周辺)に寺院を建立した〔「江都督納言願文集」〕。
藤原季清は,佐藤氏の祖・藤原公行の曾孫で,佐藤仲清・能清兄弟の祖父にあたる〔「尊卑分脈」〕。なお,厳密には,上記の大江匡房作成の願文(寺院建立にあたって仏に対して読み上げる文書)が存在するだけで,実際に寺院が建立されたかどうか,建立されたとすればどこに建立されたかについては明らかでない。
同願文では,名手郷について「始自高祖下野守秀郷朝臣……即求勝地之所」と記されており,季清から7代前(約170年前)の藤原秀郷以来の所領であるとしている。また,那賀郡田仲荘・池田荘についても秀郷以来の所領であることを主張して,佐藤氏流尾藤氏が領有を承認されている〔「吾妻鏡」〕。
- 12世紀後半ごろ,那賀郡田仲荘(紀の川市の中西部/田中荘とも)の荘官の佐藤仲清・能清父子が,同荘の境界について,隣接する高野山領荒川荘と約27年間(1159-1186)にわたって断続的に訴訟で争った〔「高野山文書宝簡集」,「高野山文書続宝簡集」,「高野山文書又続宝簡集」,「金剛峯寺御影堂文書」,「東大寺図書館所蔵文書」/『平安遺文』551,2979,3235,3236,3496,3676,3910,3982,6102,6397,『鎌倉遺文』108〕。
- 寿永2年(1183),佐藤仲清らと同族の尾藤知宣が,那賀郡田仲荘と池田荘(紀の川市の北西部)について,木曽義仲によって領有を承認され,元暦1年(1184)には信濃国高井郡中野牧(長野県中野市)とともに,改めて源頼朝によって承認された〔「吾妻鏡」〕。
佐藤仲清は,佐藤氏の祖・藤原公行の5代後で,僧侶で歌人の西行(佐藤義清)の兄弟,鎌倉時代前期の讃岐・播磨守護を務めた後藤基清の実父にあたる〔「尊卑分脈」〕。
伊都郡
- 11世紀末の伊都郡の高野山金剛峯寺の検校(最高位の住職)に明算がいた。出身は那賀郡神崎(紀の川市竹房)で,長元5年(1032)に出家するまでの名字は佐藤氏であった〔「元亨釈書」/『大日本史料』〕。
出身地からして,那賀郡の佐藤氏と同族と思われる。「尊卑分脈」に記載はないが,「嘉承元年十一月十一日寂、年八十六」〔「元亨釈書」〕とあることから,治安1年(1021)生まれであり,藤原公清(佐藤公清)の同世代と思われる。
播磨国
播磨国明石郡奥畑(神戸市垂水区名谷町)の佐藤氏の先祖は,源義経に従い,一ノ谷の合戦(1184)で先導役を務めたと伝える〔『角川地名』〕。先祖を継信・忠信兄弟とする伝承の変種と思われる。なお,『平家物語』では,一ノ谷の合戦を先導したのは源義経ということになっている。
その他
- 保延6年(1140),佐藤憲清(義清)が出家した〔「百錬抄」,「台記」/『大日本史料』〕。西行と号して,歌人として活動した〔「西行物語」など〕。
佐藤憲清は,朝廷の武官で紀伊国那賀郡田仲荘の荘官の佐藤仲清(先述)の兄弟にあたる〔「尊卑分脈」〕。
鎌倉時代
図1.鎌倉時代の近畿地方の佐藤氏の分布
近江国
- 文保2年(1318)から元徳3年(1331)ごろ,滋賀郡葛川(大津市葛川)の住人に左藤次・左藤五大夫〔「近江葛川明王院文書」,「国立国会図書館所蔵葛川明王院文書」,「京都大学所蔵葛川明王院文書」/『鎌倉遺文』26712,26918・26919,27068,27069,27442など〕
山城国
北面武士・西面武士
- 文治4年(1188),後白河院の下北面に佐藤増包[左衛門],佐藤俊信[近衛]〔「桜会類聚」/『大日本史料』〕
- 建保1年(1213),後鳥羽院の西面に花山佐藤兵衛尉〔「華頂要略」/『大日本史料』〕
九条家家人
- 九条道家の家人に,寛元4年(1246)佐藤成季[左衛門]〔「皇代暦」/『大日本史料』〕,宝治2年(1248)佐藤宗兼[左衛門尉]〔「具支灌頂日記」/『大日本史料』〕
宗兼は,年代からして「尊卑分脈」の「宗兼[左衛門]」(尾藤知広の弟知宗の曾孫)と考えられ,この系統が南北朝時代まで所衆を世襲していることとも整合する。一方,成季の名は「尊卑分脈」には見えないが,宗兼の父に宗季,祖父に季康とあるから同族と思われる。
六波羅探題奉行人
- 文永9年(1272),六波羅探題の奉行人に佐藤四郎兵衛入道〔「大和額安寺文書」/『鎌倉遺文』10903〕
- 嘉元2年(1304),六波羅探題の奉行人に河村佐藤五郎入道〔「徴古文府坤」/『鎌倉遺文』21871〕
その他
- 建久9年(1196),紀伊郡拝志荘(京都市南区)の住人に佐藤太〔「東寺百合文書」/『鎌倉遺文』968〕
- 弘長2年(1262),東寺(京都市南区九条町)の使者に佐藤次郎
- 弘安7年(1284),佐藤員正,佐藤太(場所不詳)〔「筑波大学所蔵北野神社文書」/『鎌倉遺文』15291〕
- 正和5年(1316),葛野郡上野荘(京都市西京区上桂)住人に佐藤二〔「東寺百合文書」チ/『鎌倉遺文』26029〕
- 元亨4年(1324),乙訓郡上久世荘(京都市南区久世)に佐藤氏〔「東寺百合文書」を/『鎌倉遺文』28736〕
摂津国
河辺郡
- 河辺郡多田荘の多田院(兵庫県川西市多田院/多田神社)に属した武士団(多田院御家人)中に,弘安1年(1278)佐藤三,井谷佐藤太入道,正安2年(1300)佐藤二,正和5年(1316)対津佐藤九郎〔「摂津多田神社文書」/『鎌倉遺文』13007,20598,20609〕
出自不詳。多田院御家人の名字はいずれも多田荘内の地名であるから,この佐藤氏も同荘内に所領のあった人物と思われる。同時期に島下郡粟生村にも佐藤氏(後述)が見えるものの,関連は不明である。
島下郡
- 元応2年(1320)・正中3年(1326),島下郡粟生村(大阪府箕面市粟生)の住人に白井田佐藤五・佐藤次〔「摂津勝尾寺文書」/『鎌倉遺文』27578・27621〕
河内国
- 建久5年(1194),交野郡山田荘(枚方市の中央部付近)の地頭に佐藤盛高[三]〔「筑前大倉氏採集文書豊田家文書」/『鎌倉遺文』738〕
但馬国
- 寿永年間(1181-84),佐藤主膳督が朝来郡新堂(朝来市山東町新堂)に来住し,同地に向山城を築いて拠点としたとの伝承がある〔『朝来志』,『山東町誌』〕。
南北朝時代初期には足利氏に攻められて転出したという(後述)。
- 弘安8年(1285),七美郡熊次別宮(養父市別宮)の地頭に佐藤二郎入道道性〔「中野栄夫氏校訂本」/『鎌倉遺文』15774〕
出自不詳。『続群書類従』の諸系図では,鎌倉時代に法名「道性」を名乗った者として波多野義継[五郎],沼田波多野家秀[六郎]がいるものの,どちらも「二郎」ではない。
大和国
- 弘安3年(1280)の西大寺(奈良市西大寺芝町)過去帳に左藤三郎〔「大和西大寺蔵叡尊像胎内文書」/『鎌倉遺文』14092〕
- 永仁2年(1294),山辺郡(天理市・山辺郡山添村周辺)の住人に佐藤三〔「東大寺文書」/『鎌倉遺文』18517〕
- 文保1年(1317),添下郡大川・忍熊(奈良市中山町・秋篠町)の住人に佐藤三〔「大和西大寺文書」/『鎌倉遺文』26505〕
紀伊国
伊都郡
- 伊都郡柏原(橋本市柏原)の住人に,文永10年(1273)佐藤次大夫〔「紀伊西光寺文書」/『鎌倉遺文』11355〕,正応2年(1289)佐藤次〔「紀伊葛原家文書」/16848〕,正応6年(1293)に佐藤大夫〔「紀伊西光寺文書」/『鎌倉遺文』18304〕
那賀郡
- 正応4年(1291),那賀郡長田荘上田井(紀の川市上田井)地頭に左藤太郎入道〔「高野山文書又続宝簡集」八十五/『鎌倉遺文』17753〕
なお,那賀郡田仲荘・池田荘に関しては,嘉元2年(1304)に田仲尾藤太と子・彦太郎が見え〔「高野山文書」〕,尾藤知宣の3代後に知信[池田太郎]が見える〔「尊卑分脈」〕 ことから,鎌倉時代には依然尾藤氏が田仲・池田荘を根拠としていたことがわかる。このほか,嘉禎4年(1238)湯浅氏に属した武士団の中に田中光平[三郎兵衛尉]が見え〔「崎山家文書」〕,知信の父が信平,祖父が知平を称している〔「尊卑分脈」〕ことからして,これも尾藤氏と思われる。
名草郡
- 永仁7年(1299),名草郡勢多郷(和歌山市小瀬田周辺)の地頭に波多野佐藤広能〔「紀伊薬王寺文書」/『鎌倉遺文』19934〕
南北朝・室町時代
図2.南北朝・室町時代の近畿地方の佐藤氏の分布
近江国
- 応永20年(1413),犬上郡西今村荘宝蔵寺地蔵田(彦根市地蔵町)の住人に佐藤次〔「大徳寺文書」4〕
- 貞治2年(1363),佐藤基清[兵衛尉新蔵人,元清,浄勝]が,蒲生郡安吉保御厨(近江八幡市など)の領家職を得た〔「伊勢佐藤文書」/『大日本史料』〕。
山城国
幕府奉行衆
室町幕府の右筆方奉行衆(法曹官僚)に佐藤氏の記録がある。
- 暦応2年(1339),佐藤治部左衛門尉〔「田代文書」/『大日本史料』〕
- 康永3年(1344),佐藤次郎左衛門尉・佐藤九郎左衛門尉〔「伊勢結城文書」/『大日本史料』〕
出自不詳。鎌倉幕府評定衆の佐藤業時・業連の系統か,六波羅探題奉行の佐藤四郎兵衛入道,河村佐藤五郎入道の系統と思われる。
これに関連して,美作国久米郡三明寺(岡山県岡山市北区建部町三明寺)の系図によると,14世紀末ごろの佐藤元好[孫四郎]について,内談衆1であり,訴訟関連業務に従事した旨の註がある。同家は信夫佐藤氏の系統を称する〔『佐藤一族』〕。
幕府番衆
室町幕府の番衆(御所の警備を担当する職,幕府直属の軍)に佐藤氏の記録がある。
- 応永4年(1397),幕府の弓場始の射手に佐藤総左衛門尉〔「御的文書」/『大日本史料』〕
「弓場始」は年初に弓を射る儀式のこと。佐藤氏が選ばれたのはこの年(1397)のみである。
出自不詳。14世紀当時,軍事面で定評のあった佐藤氏というと,伊勢国一志郡や大和国葛上郡に拠点を移していた信夫佐藤氏の一族(後述)が挙げられる。ただし,鎌倉時代以来,政権の中枢に近いのは,評定衆・引付衆の佐藤氏や波多野氏流の各氏,佐藤氏流後藤氏,伊賀氏などである。
関連室町幕府の中の佐藤氏流
その他
- 応安6年(1373),東寺の西(京都市南区八条内田町周辺)の住人に佐藤次〔「教王護国寺文書」/『大日本史料』〕
摂津国
河辺郡
- 建武1年(1334),河辺郡多田荘(兵庫県川西市)の多田院御家人に佐藤次〔「多田神社文書」/『大日本史料』〕
- 応安2年(1369)と同3年(1370)に,佐藤基清[兵衛尉新蔵人,元清,浄勝]が,河辺郡橘御園光貞名・雅楽寮領(兵庫県尼崎市など)の代官職を得た〔「伊勢佐藤文書」/『大日本史料』〕。
豊島郡
- 暦応2年(1339),東寺雑掌の佐藤太右衛門尉が,東寺領の豊島郡垂水荘(大阪府吹田市周辺)に摂津守護・赤松氏が入部するのを拒んだ〔「東寺百合文書」ぬ〕。
- 康永2年(1343),豊島郡垂水荘の住人に佐藤三〔「東寺百合文書」わ〕
- 至徳3年(1386),豊島郡垂水荘の住人に佐藤三〔「東寺百合文書」ぬ〕
島下郡・河辺郡
摂津守護・細川氏の被官に佐藤氏の記録がある。
- 応永26年(1419),摂津小守護代に佐藤師恒[新左衛門尉]〔「大徳寺文書」/『大日本史料』〕
- 永享5年(1433),永享11年(1439),佐藤頼清[左兵衛尉]・家清[小次郎]が,島下郡粟生村(箕面市粟生)の所領を勝尾寺に寄進した〔「勝尾寺文書」/『大日本史料』〕。
- 文安1年(1444),摂津分郡守護・細川持賢の使者に佐藤因幡入道性通〔「建内記」〕。
「師恒」や「頼清」,「家清」,「性通」などの命名からして〔「伊勢佐藤系図」参照〕,応安2年(1369)ごろに河辺郡橘御園(尼崎市付近)の代官職を得た佐藤基清(後述)の子孫で,これが守護細川氏の被官に転じたものと思われる。なお,島下郡や河辺郡には鎌倉時代から佐藤氏が定着している(前項参照)。
但馬国
- 元弘3年(1333)に朝来郡新堂(朝来市山東町新堂)の向山城主・佐藤掃部頭が城を改築したが,子・新左衛門のとき,延元2年(1337)に足利氏の軍勢が但馬国に侵攻したため,城を捨てて逃げたとの伝承がある〔『朝来志』,『山東町誌』〕。
先祖は寿永年間に同地に来住・築城した佐藤主膳督であるという(先述)。
大和国
葛上郡
- 明徳の乱(1391)と応永の乱(1399)の功績で,佐藤満好[左衛門尉]・守好[民部]父子が,葛上郡高天(御所市高天)に所領を得たとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
同家の系図によれば,信夫庄司佐藤元治の次男治清の系統という。この後も大和国葛上郡の小領主として活動するが,戦国時代に羽柴秀吉に攻められ,一族は美作国や備前国に移住する(後述)〔『佐藤一族』〕。
その他
- 永和3年(1377),添上郡川上(奈良市川上町)の伴寺山付近の住人に佐藤次〔「東大寺文書」9〕
- 嘉慶2年(1388),醍醐寺領(不詳)内に左藤二〔「醍醐寺文書」9〕
紀伊国
- 正平9年(1354),伊都郡隅田南荘須河(和歌山県橋本市菅生)の住人に佐藤太郎〔「高野山文書」/『大日本史料』〕
戦国・安土桃山時代
図3.戦国・安土桃山時代の近畿地方の佐藤氏の分布
近江国
- 大永3年(1523),伊香郡丹生郷(滋賀県米原市丹生)内に佐藤介が土地を購入した〔「上丹生区有文書」/『大日本史料』〕。
- 大永3年(1523),伊香郡菅浦荘(滋賀県長浜市西浅井町菅浦)の住人に佐藤五〔「菅浦文書」/『大日本史料』〕
山城国
- 永正12年(1515),佐藤宗次入道の子又次郎が,鴨社領の愛宕郡出雲路(京都市北区出雲路周辺)・江鳥小路(?)を押妨したとして訴えられ,敗れた〔「賀茂御祖皇太神宮諸国神戸記」/『大日本史料』〕。
和泉国
- 文亀2年(1502),日根郡佐野・上郷・熊取(大阪府泉佐野市周辺)などにおいて,和泉下守護細川氏の被官の佐藤久信[惣兵衛尉]が,日根野荘(大阪府泉佐野市周辺/日根荘とも)をめぐり,根来寺衆(和歌山県岩出市)や紀伊守護畠山尚順,神於寺(大阪府岸和田市神於町)と結託して,和泉下守護側の軍勢と戦闘した〔「九条家文書」,『新修泉佐野市史』など〕。
出自不詳。付近では,鎌倉時代前期に,波多野盛高[左藤三]が,承久の乱(1221)の恩賞として,和泉郡軽部郷(大阪府和泉市・泉北郡忠岡町)の地頭職を得ている〔「久米田寺文書」,「波多野氏」〕。江戸時代の日根郡佐野村(泉佐野市元町・本町周辺)の豪商・唐金氏は,もと佐藤氏であったと伝える〔『宮本姓氏』〕。
- 天文4年(1535),大鳥郡堺南荘中町(堺市堺区中之町東・中之町西)に佐藤六郎左衛門〔「開口神社史料」,『角川地名』〕
大和国
- 元亀3年(1572),葛上郡高天(御所市高天周辺)の高間城主の佐藤氏(先述)が,羽柴秀吉に攻落され,美作国久米郡などに逃げ,同地で帰農したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
紀伊国
- 天文21年(1552),海部郡木本西荘(和歌山県和歌山市木ノ本・西庄周辺)の住人に佐藤大夫〔「向井家文書」,『和歌山県史』,『角川姓氏』〕
江戸時代
佐藤氏の藩士が確認できる藩
| 国 | 藩 | |
|---|---|---|
| 東山道 | 近江 | 彦根藩 |
| 畿内 | 山城 | 伏見藩 |
| 摂津 | 高槻藩 | |
| 河内 | 狭山藩 | |
| 南海道 | 紀伊 | 紀州藩 |
東京時代
図5.現代の近畿地方の佐藤氏の分布
参考文献
単に「内談衆」という場合,引付方の内談(訴訟に関する合議)を行う機関を指す〔『世界大百科事典』〕。 ↩︎



