鎌倉時代初期の公卿藤原公清(1166-1228)、南北朝期の公卿徳大寺公清(1312-1360)とは別人です。

 藤原公清(ふじわら の きんきよ/生没年不詳/別名・藤原公成1)は、平安時代後期の武官。藤原秀郷の6世2。多くの系譜等で「佐藤氏の祖」と見なされてきたが、実際には公清の祖父公行が佐藤氏の祖である可能性が高い(後述)。

出自

 藤原公光の子で、10世紀半ばの北関東の豪族藤原秀郷から7代後の子孫にあたる。公清の家系は、秀郷の子孫のうち関東を離れて京都に進出した系統で、衛府の武官や国司などに任じられた一族である。〔cf. 軍事貴族(Wikipedia)

 公清の居所は不明であるが、父公光の邸宅は三条(京都市)にあった3。また、紀伊国那賀郡(和歌山県北中部)を所領とした4

経歴

 生没年は不詳。推定では11世紀前半から末ごろ存命した。官位は下記の通りである。

  • 長久1年(1040)右兵衛少尉正六位上(『大間成文抄』5
  • 治暦4年(1068)従五位下検非違使(『本朝世紀』6
  • 永保1年(1081)従五位〓左衛門尉として白河天皇の石清水御幸に参列(『水左記』7

 ほか、時期不明であるが、伊豆守(『江都督納言願文集』)にも補任された。

佐藤氏の祖に関する議論

詳細は「佐藤氏の起源」参照。

 佐藤氏は公清の官名左衛門尉に由来すると考えられてきた8

 しかし、系図を確認すると公清の子孫だけでなく、公清の兄弟の子孫も佐藤氏を称している。すなわち、佐藤氏は公清ではなく、その父以前の人物に由来する可能性が高い。中でも、公清の祖父公行が「渡守」に就いた記録9があることから、佐藤氏は(「衛門尉公清」というより)「佐渡守藤原公行」に由来すると考えるのが妥当である。

親族

  • 父:藤原公光(相模守)
  • 母:不明
    • 妻:不明
      • 季清(従五位下・左衛門尉・上総権守)
      • 公郷(従五位上・尾張守)
      • 公澄(従五位下・左衛門尉)
      • 明算(高野山検校)10
    • 養子
      • 助清[資清](主馬首)首藤氏の祖
  • 弟:経範[公俊]
  • 弟:公季[公仲・公脩]

参考文献

  • 野口実『中世東国武士団の研究』(戎光祥出版,2021)〔高科書店,1994〕
  • 野口実『伝説の将軍:藤原秀郷』(吉川弘文館,2001)
  • 野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館,2007)
  • 野口実『坂東武士団の成立と発展』(戎光祥出版,2013)
  • 野口実「紀伊佐藤氏:西行を生んだ武芸故実の本流」(『本郷』130,2017)
  • 目崎徳衛「佐藤氏と紀伊国田中荘」(『聖心女子大学論叢』43,1974)
  • 湯山学「一つの願文:西行の父祖」(『日本古代・中世論集』,1980)

  1. 『江都督納言願文集』 ↩︎

  2. 公清の父公光が祖父の養子となっている(『尊卑分脈』)ため、7世とも。 ↩︎

  3. 『小右記』長元1(1028)年9月8日条。 ↩︎

  4. 紀伊国那賀郡は、藤原秀郷が平将門の乱(939-940)を鎮定した功績で拝領したという(『江都督納言願文集』、『吾妻鏡』寿永3年[1184]2月21日条)。 ↩︎

  5. 『大間成文抄』寛徳2年(1045)の項。 ↩︎

  6. 『本朝世紀』治暦4年(1068)11月21日条。このとき同じく従五位下叙任者の中に源清経がいる。清経の娘は佐藤仲清・憲清(西行)兄弟の母。 ↩︎

  7. 『水左記』同日条。 ↩︎

  8. 佐藤氏が左衛門尉公清由来であるとする説は『寛政重修諸家譜』(1812年成立)の記述に基づく。姓氏研究の基本図書である『姓氏家系大辞典』に採用されたことで、以後同書を参照する多くの書籍等で見られる。 ↩︎

  9. 『左経記』万寿3年(1026)12月5日条、長元4年(1031)6月27日条、長元6年(1033)5月2日条、『小右記』万寿4年(1027)2月26日条、長元1年(1028)8月8日条に「前佐渡守公行」などと記録がある。特に『左経記』によると佐渡守退官後、散位のまま死亡している。 ↩︎

  10. 明算の記録は諸系図にないが、佐藤氏であったことや、生没年から、公清の兄弟に当たる。 ↩︎

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