平安時代
信夫佐藤氏
12世紀の陸奥国信夫郡(福島市周辺)の領主に佐藤氏(信夫佐藤氏)がいた。確実な史料では、12世紀末に、佐藤元治(通称・湯庄司)、その子継信と忠信、同族の秀員などの名が見える〔『吾妻鏡』など〕。特に、継信・忠信兄弟は、源義経に従って各地を転戦して殉職し、後世、歌舞伎や浄瑠璃の題材となったため著名である。
現代でも、東北地方に限らず、信夫佐藤氏の子孫を自称する家系は極めて多い。
出自
出自は不明1。現存する諸家伝の多数説は、11世紀後半の下級貴族(武官)藤原公清の子孫とする説を採る。ただし、これを裏付ける正確な史料はなく、系譜にも異同が多いため、安易に信用はできない。
- 師清説 12世紀初頭に、藤原師清が、出羽国司として赴任したことを契機とする説。
- 清郷説 11世紀後半に、藤原清郷(あるいはその子か孫)が、前九年・後三年合戦の恩賞として信夫郡を得たことを契機とする説。
活動とその範囲
12世紀の奥羽地方を統治した平泉藤原氏(奥州藤原氏)の重臣で、大鳥城(福島市飯坂町舘ノ山)を拠点とした。
また、信夫郡だけでなく、南東北一帯にまで勢力を広げていた可能性もある。伝承によれば、陸奥国本吉郡(気仙沼市周辺)や刈田郡(白石市周辺)、出羽国飽海郡(山形県北西部)などに佐藤氏の居館があったという。さらに、元治の兄弟らが「白河太郎」を称しており〔「伊勢佐藤家文書」2〕、陸奥国白河郡にも拠点があったことを示唆している。ただし、あくまで伝承・系図の記述である。
関連人物
佐藤氏を称してはいないものの、12世紀の信夫郡の領主に下記の人名が見える。信夫佐藤氏の同族か、相当近しい人物であると考えられる。
- 大庄司季春
- 説話集『古事談』と『十訓抄』(鎌倉時代成立)に記載がある。12世紀前半の信夫郡の領主で、主人である平泉藤原氏を庇い、陸奥国司に背いたために一族とともに処刑されたという。→ 仮にこれが実話だとすれば、信夫郡の「庄司」という役職や名前にハル(春・治)を含む点から、大庄司季春は、佐藤元治の同族であり、その先代か先々代にあたる人物ということになる。一方、一族が処刑されたという点や、佐藤氏の系図に季春の記録が一切ない点からは、別の一族とも解される。
- 藤原真年
- 天王寺(福島市飯坂町天王寺/大鳥城の北側)境内から発掘された陶製経筒(国指定重要文化財)に記銘がある。承安1年(1171)、大檀主(檀那の代表者)として堂を造立したという。→ 当時は平泉藤原氏政権の全盛期にあたる。大鳥城の北側という地理関係や堂を造立できるだけの経済力、藤原氏である点などを考慮すると、信夫佐藤氏の一族、あるいは佐藤元治の別名と思われる。
その他の佐藤氏の伝承
以下は、平安時代にまで遡る伝承であるが、(東北地方では珍しく)信夫佐藤氏と関連しない。
- 由利郡琴浦(秋田県にかほ市平沢琴浦)
- 同地の溜め池(通称・大同堤)について、同地の佐藤氏の先祖が、大同1年(806)に築いたと伝える。→ 佐藤氏「が」築いたわけではない。
- 山本郡白岩前郷・広久内(秋田県仙北市角館町白岩・広久内)
- 同地の佐藤氏の先祖は、京都出身の狩人で、戦乱の際に敗走して当地に落ち延び、天治1年(1124)に玉川以東の原野を開拓し、土着したと伝える。
- 田川郡田川(山形県鶴岡市田川)
- 同地の佐藤氏は、12世紀の田川郡の領主・田川太郎行文の子孫と伝える。→ しかし、この根拠となる系図は、『池田玄斎随筆』(19世紀前半成立)によると、田川氏の子孫と伝える百姓の奥村氏が困窮したため、庄屋の佐藤氏に買い取ってもらった系図であるといい、後世の詐称であることがわかっている。
分布
図1.平安時代末期の東北地方の佐藤氏の分布
鎌倉時代
信夫佐藤氏
文治5年(1189)、平泉藤原氏は鎌倉幕府によって滅ぼされた(奥州合戦)。平泉藤原氏の重臣であった佐藤氏も、石那坂(位置不詳)にて幕府軍を迎え撃ったが、元治ら18人が討ち取られるなどして敗れた〔『吾妻鏡』〕3。
ただし、佐藤氏は滅亡したわけではない。諸家伝によれば、元治の子や孫たちは生き残り、信夫郡のほか、伊達郡(福島県伊達市など)の各地、置賜郡花沢(山形県米沢市花沢)などに据え置かれたという。
隆治の系統
元治の長男・隆治(前信)の系統。信夫郡や伊達郡湯野を拠点とした〔「伊勢佐藤家文書」〕。
なお、伊具郡川張(伊具郡丸森町)の佐藤氏は、隆治の子孫と伝え、隆治が病弱であったため、奥州合戦の直前に家臣らとともに阿武隈川を下り、川張に来住したことが契機という。
治清の系統
元治の次男・治清の系統。信夫郡大森(福島市大森)や佐場野(福島市平野鯖野周辺)を拠点としたか〔「三明寺系図」/「伊勢佐藤家文書」〕。
なお、美作国久米郡(岡山県岡山市)の佐藤氏は、治清の系統であるといい、系図が存する〔「三明寺系図」〕。
継信の系統
元治の三男・継信の系統。
継信の子・義信は、奥州合戦の際、祖父元治の妻・乙和子姫ら一族とともに慈恩寺(山形県寒河江市慈恩寺)に逃れ、その後、越後国高田(新潟県上越市)に領地を得て移住したという〔以下「宮曽根系図」〕。
義信の弟・祐信の系統は、祐信から3代後の忠正の代まで、信夫佐藤氏の本拠たる大鳥城(福島市飯坂町舘ノ山)を拠点としたという。しかし、文永3年(1266)には、佐竹信国(不詳)と争って敗れ、和久屋城(遠田郡涌谷町)に移った。
忠信の系統
元治の四男・忠信の系統。忠信の子・信隆(義忠)は、大河兼任の乱(1185-86)での功績で、最上郡豊田村(最上郡鮭川村)に所領を得た。その子・安忠は、置賜郡豊田村(長井市)に所領を得て、以後6代に亘って花沢城(米沢市花沢/八木橋館)を拠点としたという〔「小斎系図」〕。
米沢市の佐氏泉公園(米沢市駅前三丁目)は、佐藤継信・忠信の父「正信」の別邸跡との伝承があるが、実際には、上記の花沢城主・佐藤安忠の曾孫「正信」の別邸であると考えられる。
→ まず、佐藤継信・忠信の父を、信夫郡大鳥城主の佐藤元治ではなく、置賜郡花沢城主の佐藤正信とするのは通説に反する。一方で、仙台藩士の佐藤家の系図によると、忠信の孫・安忠の系統が置賜郡の花沢城を拠点としており、この安忠の3代後に「正信」の名が見える。そして、まさにこの正信のときに伊達氏に攻められて花沢を離れ、磐前郡(福島県いわき市)に移っている〔「小斎系図」〕。つまり、花沢城の最後の城主が正信なのである。よって、佐氏泉公園は「佐藤継信・忠信の父・正信の別邸跡」ではなく、「佐藤忠信の子孫の正信の別邸跡」と考えるのが妥当である。 → また、佐氏泉公園の付近にある寺院・常信庵は、正信の後室による開創と伝えるが、同系図によれば正信の父の名が「常信」であり、彼の名前に因むと考えられる。
また、信隆の子・師忠の系統の信辰は、正安3年(1301)から大鳥城を拠点とし、その子・信継が、建武3年(1336)に本吉郡馬籠(気仙沼市)に移り、葛西氏に仕えたという〔「永井系図」〕。
その他の系統
上記のほか、信夫佐藤氏の本流である元治の一族との関係は明らかでないものの、鎌倉時代の御家人の家臣に佐藤氏がいた旨の伝承がある。関東から新たに領主として入植してきた幕府御家人たちに、在地の有力者一族として重用されたものと考えられる。
- 南部氏(糠部郡三戸[青森県三戸郡])
- 葛西氏(牡鹿郡石巻[宮城県石巻市])
- 留守氏(宮城郡岩切[宮城県仙台市])
- 小野寺氏(雄勝郡稲庭[秋田県湯沢市])
- 大江氏(村山郡寒河江荘[山形県寒河江市])
また、以下の地域では、信夫佐藤氏の一族で、奥州合戦(1189)の後に来住した旨の伝承がある。ただし、創作的な伝承も多い。
- 陸奥国
- 津軽郡石名坂、閉伊郡山田、胆沢郡西窪、江刺郡伊手、栗原郡島体、名取郡湯元、伊具郡川張、伊達郡南保原、石川郡中野
- 出羽国
- 由利郡西沢、田川郡松ヶ岡・小波渡
このほか、岩手郡雫石村繋(盛岡市繋)で鎌倉時代から続くという羽黒派の修験者の佐藤氏、13世紀末ごろに下野国足利郡(栃木県足利市)から刈田郡平沢(刈田郡蔵王町平沢)に移住したという佐藤氏がいる。
記録
なお、ここまでの信夫佐藤氏の記述の大半は、諸家の系図によるものであるから、決して信用性の高いものとはいえない。確実な史料では、以下の平泉周辺の住人の記録があるのみである。
- 正安2年(1300)胆沢郡瀬原村(奥州市衣川瀬原)住人の佐藤次〔「高野山文書宝簡集」〕。
- 文保2年(1318)磐井郡骨寺村(一関市厳美町本寺)住人の佐藤五、佐藤二郎〔「陸奥中尊寺文書」〕。
分布
図2.鎌倉時代の東北地方の佐藤氏の分布
南北朝・室町時代
清親の系統
南北朝が分裂すると、元治の子の系統ではなく、元治の弟師泰の系統である清親(十郎左衛門尉/性妙)が、信夫佐藤氏の総領として、主に北朝に従い各地を転戦した。(なお、要請に応じて南朝にも転じた。)
この功績により、清親の系統は、伊勢国や摂津国、相模国に所領を得て、移住した。
祐信の系統(継信系)
鎌倉時代後期に大鳥城(福島市)から和久屋城(遠田郡涌谷町)に移った継信の子・祐信の系統は、南北朝時代には遠田郡・玉造郡(宮城県)を拠点としていたが、14世紀後半に飽海郡(山形県)に移り、14世紀末に戦乱に敗れて帰農した。
- 和久屋城(遠田郡涌谷町)主の佐藤正信(または守信)は、延文1年(1356)に玉造郡柏山城(大崎市?)に移ったが、康暦1年(1379)に落城し、飽海郡中山稲荷沢(酒田市稲荷沢)に移り、中山城(酒田市松山/松山歴史公園)を築いた〔以下「宮曽根系図」〕。
- さらに、至徳1年(1384)には洞龍山総光寺(酒田市総光寺)と薬師堂(酒田市外山越)を開創した。
- しかし、応永3年(1396)余目(東田川郡庄内町周辺)の地頭安保光康と争い、槙島(庄内町槙島)で討死した。あるいは応永4年(1397)に田尻村(酒田市竹田)で討死または病死したともいう。これにより一族や家臣は離散した。
- 正信の嫡子正利は、父の死を受けて遊学中の京都から帰郷したが、家臣たちの行方が分からなくなっていたため、しばらく総光寺の境内で生活したのちに、餅山村(酒田市上餅山・下餅山)に移住し、帰農したという。
信隆の系統(忠信系)
継信の子・信隆の系統のうち、信隆の子で安忠の系統は、置賜郡花沢(山形県米沢市)から磐前郡(福島県いわき市)の岩城氏のもとに移り、同じく信隆の子・師忠の系統は、信夫郡大鳥城(福島市)から、本吉郡馬籠(宮城県気仙沼市本吉町)に移り、葛西氏に仕えた。
- 置賜郡花沢城主で、信隆の子・安忠から3代後の正信は、至徳2年(1385)伊達氏に攻められ、磐前郡大館城(いわき市)の岩城氏のもとに移った〔「小斎系図」〕。
- 信夫郡大鳥城主で、信隆の子・師忠から4代後の信継は、葛西高清に仕えて建武3年(1336)に武功があり、信夫郡大鳥城(福島市)から本吉郡馬籠館(気仙沼市)に移った〔「永井系図」〕。
その他
上記のほか、下記の地域に武士の佐藤氏がいた旨の伝承がある。
- 陸奥国
- 磐井郡・登米郡・気仙郡(葛西氏家臣)、栗原郡(大崎氏家臣)、宮城郡(留守氏家臣)、伊達郡(北畠氏家臣)、刈田郡(伊達氏家臣)、行方郡(岩松氏家臣)、石川郡(石川氏家臣)
- 出羽国
- 比内郡(北畠氏→浅利氏家臣)、田川郡(大宝寺氏家臣)
また、14世紀後半に磐井郡沖田(岩手県一関市大東町沖田)で帰農した家、15世紀初頭ごろ宇多郡駒ケ嶺(福島県相馬郡新地町駒ケ嶺)で社家となった家がある。
分布
図3.南北朝・室町時代の東北地方の佐藤氏の分布
戦国・安土桃山時代
下記の地域に武士の佐藤氏がいた旨の記録や伝承がある。
- 陸奥国
- 津軽郡(青森県青森市・黒石市・弘前市など)──北畠氏家臣
- 糠部郡(青森県三戸郡三戸町など)──南部氏家臣
- 二戸郡(岩手県二戸市)──浄法寺氏家臣
- 和賀郡(岩手県北上市)──和賀氏家臣
- 紫波郡(岩手県紫波郡)──斯波氏家臣
- 志田郡・加美郡・栗原郡・玉造郡・遠田郡(宮城県大崎市・栗原市など)──大崎氏家臣
- 本吉郡・登米郡・栗原郡(宮城県気仙沼市・大崎市・栗原市など)──葛西氏家臣
- 宮城郡(宮城県仙台市・多賀城市・塩竈市など)──留守氏→伊達氏家臣
- 相馬郡(福島県相馬市・南相馬市)──相馬氏家臣
- 信夫郡・伊達郡・刈田郡・伊具郡(福島県福島市〜宮城県白石市)──伊達氏家臣
- 田村郡(福島県)──田村氏家臣
- 白河郡(福島県白河市)──結城氏家臣
- 岩崎郡・岩城郡・楢葉郡(福島県いわき市)──岩城氏家臣
- 会津郡(福島県)──蘆名氏家臣
- 出羽国
- 山本郡(秋田県)──浅利氏家臣
- 仙北郡(秋田県)──戸沢氏家臣
- 雄勝郡・仙北郡(秋田県)──小野寺氏家臣
- 由利郡(秋田県)──由利十二頭家臣(?)
- 田川郡・飽海郡(山形県)──大宝寺氏家臣
- 最上郡・村山郡(山形県)──最上氏家臣、天童氏家臣
- 村山郡(山形県西村山郡・寒河江市)──寒河江氏→最上氏家臣
- 置賜郡(山形県)──伊達氏家臣
分布
図4-1.戦国・安土桃山時代の東北地方の佐藤氏の分布
図4-2.青森県・岩手県の分布
図4-3.宮城県・福島県の分布
図4-4.秋田県・山形県の分布
江戸時代
下記の藩の藩士に佐藤氏がいた。
- 陸奥国
- 弘前藩、黒石藩、八戸藩、盛岡藩、仙台藩、会津藩、棚倉藩、二本松藩、中村藩
- 出羽国
- 久保田藩、亀田藩、本庄藩、矢島藩、庄内藩、新庄藩、山形藩、上山藩、天童藩、米沢藩
図5.現代の東北地方の佐藤氏の分布
参考文献
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当時から佐藤氏を自称し、佐藤氏と認知されていたことは確実である。同時代史料である『玉葉』には、文治2年9月21日条に忠信について「佐藤兵衛」との表記がある。1300年ごろ成立の『吾妻鏡』には、元治や継信・忠信について「佐藤」と表記がある。 ↩︎
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陸奥国白河郡由来か。南北朝時代の信夫佐藤氏の総領家に伝わった肥留系図に記録がある。ほかにも通称で、「石河」「田川」「元吉」「安達」などの地名も確認できる。 ↩︎
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合戦の経緯は、次の通りである:文治5年(1189)7月19日、幕府軍が、源義経を匿った平泉藤原氏追討のため、鎌倉から進軍を開始した。8月8日、佐藤元治を筆頭とし、叔父河辺高経、伊賀良目高重らが、石那坂(位置不詳)で幕府軍を迎え撃ったが、元治含む幹部18人が討ち取られるなどして敗れ、厚樫山(伊達郡国見町)で梟首された。翌9日には、佐藤秀員父子が、厚樫山で討死した。その後21日に平泉が陥落し、9月3日に平泉藤原氏当主の藤原泰衡が殺害されて終結した。 ↩︎