1. 佐藤氏の歴史
  2. 東北地方
歴史編

東北地方の佐藤氏の歴史

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はじめに

この記事では,①東北地方の佐藤氏の歴史を概説したあと,②具体的な記録や伝承を時代・場所ごとに分類した。記事の主な執筆方針は下表のとおりとする。

表1. 歴史編(地方別)の主な執筆方針
1対象とする時代平安から安土・桃山時代を中心とし,江戸時代以降は主要な人名以外は載せない。
2場所の記述・分類方法平安から江戸時代まで用いられた国・郡による。
3人名の表記原則「名字+実名」で表記し,通称や法名などは[ ]内に載せる
通称等のみ判明[ ]を使用せずに「名字+通称」で表記する。
通称等も不明「佐藤氏」とする。
4信用性信用できる記録等「……した」などと断定で終える。
信用できない伝承等「……との伝承がある」,「……と伝える」,「……という」などの表現で終える。
5出典文末・文中で〔 〕により資料名を示す。
当サイト全般の方針は別記「凡例」のとおりとし,参考文献は「参考文献一覧」に掲載する。

概説

起源

信用できる史料によれば,平安時代末期(12世紀後半ごろ)の陸奥国信夫郡(福島県福島市)の領主に佐藤氏(信夫佐藤氏)がいたことがわかっている〔「吾妻鏡」参照〕。また,直ちに信用はできないが,伝承や系図等によると,同時期の陸奥国磐井郡(岩手県一関市),本吉郡(宮城県気仙沼市),刈田郡(宮城県刈田郡),白河郡(福島県白河市),出羽国飽海郡・田川郡(山形県酒田市・鶴岡市周辺)など,東北地方南部の各地に信夫佐藤氏の拠点があったとされる〔本記事参照〕。

現代の佐藤氏の分布(図5)をみると,東北地方の中南部に佐藤氏が集中していることから,東北地方の佐藤氏の起源は平安時代末期の信夫佐藤氏の一族と関係する可能性が高い。

詳細
信夫佐藤氏の起源

信夫佐藤氏の起源について信用できる史料はない。

しかも,本来,佐藤氏は,近畿地方を拠点とした武官の一族であるから,東北地方の豪族の佐藤氏は別族とする説もある。

これに対し,多くの伝承・系図等では,信夫佐藤氏を近畿地方の佐藤氏の同族とし,その来住の経緯について①佐藤清郷・有清らが前九年・後三年合戦(1050-62・1083-87)での戦功により陸奥国内に所領を得たため,または,②佐藤師清が出羽守に任じられた関係で平泉藤原氏に仕えて陸奥国内に所領を得たためとする(後述)。

これらの説明を裏付ける確実な証拠はないが,一応の妥当性はあることを指摘しておきたい。例えば,ⓐ実際に佐藤氏と同族の首藤氏が前九年・後三年合戦の戦功で出羽国内に所領を得たことが判明している。また,ⓑ当時の中央貴族・官人が地方豪族の娘と結婚してそのまま土着することは珍しいことではないし,ⓒ平泉藤原氏が中央出身の官人を採用することにも合理性はある。

展開

鎌倉時代

奥州合戦(1189)により,平泉藤原氏が滅び,信夫佐藤氏の当主佐藤元治も討死した〔「吾妻鏡」〕。しかし,その子孫らは生き残り,武家としては,信夫郡・伊達郡周辺の小領主のほか,出羽国置賜郡花沢の領主,新たに地頭などとして来住した幕府御家人の家臣などとして続いた。ただし,確実な史料では,胆沢郡と磐井郡の住人に佐藤氏の所見があるにとどまる。

このほか,直ちに信用はできないが,奥州合戦(1189)後に来住したとの伝承が各地にある。

南北朝・室町時代

武家として続いた佐藤家が各地に見え,北は津軽郡,南は石川郡・岩崎郡にまで及ぶ。それぞれ主家に従って,南北朝の動乱を経験した。動乱の後,帰農したという家も磐井郡や飽海郡などにある。

中でも,信夫郡の佐藤家は,南北朝時代前半から半ばにかけて全国各地を転戦したあと,伊勢国一志郡(三重県松阪市)に移住した。また,摂津国河辺郡(兵庫県尼崎市)や相模国大住郡(神奈川県伊勢崎市)にも所領を得て,同地にも同族が移住したものと考えられる。

戦国・安土桃山・江戸時代

広い地域で佐藤氏の記録がある。

「戦国大名」と呼べるほど成長した佐藤家はなかった。比較的有力な家は,鎌倉時代に出羽郡置賜郡花沢の領主であった系統で,戦国時代には伊達氏および岩城氏に仕え,江戸時代には仙台藩士久保田藩家老として続いた。

東京時代

図5.現代の東北地方の佐藤氏の分布(市町村別)

現代の東北地方の佐藤氏の分布 参照:「姓名分布&姓名ランキング写録宝夢巣」,「平成27年国勢調査」

現代の分布をみると,仙台市(7.1万人/6.58)が最多で,以降,秋田市(2.4万人/7.54%),福島市(2.3万人/7.70%),郡山市(1.7万人/5.12%),鶴岡市(1.7万人/13.40%),一関市(1.5万人/12.16%)と続く。

全人口に占める割合を考慮すると,①秋田県南部から山形県庄内地方一帯②岩手県一関市を中心とする一帯③仙台市から福島市・郡山市にかけての一帯で特に多くなっている。

反対に,青森県,岩手県北部,秋田県北部,山形県の村山・置賜地方,福島県南部では,周辺に比べて佐藤氏が少ない。

また,明治年間以降,一部は北海道へ移った。

平安時代

図1.平安時代末期の東北地方の佐藤氏の分布

平安時代末期の東北地方の佐藤氏

」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。その他の記号等については「凡例#歴史編の分布地図」参照。

陸奥国

磐井郡

  • 12世紀前半ごろ,信夫郡(福島県福島市)の大鳥城主の佐藤師文の四男・師久[但馬守]は,陸奥国司に任じられて磐井郡奥玉(岩手県一関市千厩町奥玉)の橘城を拠点とし,永治1年(1141)に磐井郡奥玉の興玉社(一関市千厩町奥玉/桜森神社)境内に伊勢社を祀ったとの伝承がある〔『奥玉村誌』〕。
  • また,同じく永治1年(1141)に,橘館城主の佐藤師久[隼人助]が,磐井郡奥玉の地蔵院を勧請したとの伝承もある〔『角川地名』〕。
  • 遡って,長承3年(1134)には,師久[但馬守]が,磐井郡羽根折沢(一関市大東町摺沢中羽根折沢)の羽根折沢館の初代城主となったとの伝承もある〔『大東町史』〕。

これらの伝承は全体的に信用できない。まず,師久の名は他の系図にすら所見がない。これに対し,その父という師文については信夫郡の佐藤氏の系図〔「伊勢佐藤系図」(『福島市史』),『ふるさと小斎の歴史』など〕に所見があるものの,そもそもこれらの系図における師文の周辺は世代数が過剰で,別の系譜を繋げたものか架空の系譜と思われるから,師文の存在自体が疑わしい。また,師久が,陸奥国司といいながら国府(宮城県仙台市)から離れた磐井郡の山中に住んだ点,平安時代末期の陸奥国の地方豪族といいながら「但馬守」や東百官である「隼人助」を称する点1など,不自然な部分が多い。

たしかに,後掲のとおり,磐井郡やその周辺では,鎌倉・南北朝時代から続くという家系の伝承が多いから,当地にこのような古い伝承があることは何ら不自然ではなく,また,実際に佐藤氏が住んでいた可能性も考えられるが,少なくともその人名や職業については,戦国時代ごろ以降の創作・脚色と思われる。

信夫郡

平安時代末期の信夫郡の領主が佐藤氏であったことは確実視されているが〔「吾妻鏡」など〕2,その出自についての確かな証拠はない。

各地の伝承によれば,朝廷の武官の佐藤氏〔「近畿地方の佐藤氏の歴史」〕の系統といい,近畿地方から信夫郡に来住した契機については,大別すると,①佐藤清郷・有清らが前九年・後三年合戦(1050-62・1083-87)での戦功により陸奥国内に所領を得たためとするものと②佐藤師清が出羽守に任じられた関係で陸奥国内に所領を得たためとするものがある。

①佐藤清郷・有清-前九年・後三年合戦説

まず,①の代表的な伝承は以下のとおりである。

  • 11世紀後半ごろ,佐藤清郷[大夫]らの一族が,源氏に従い,前九年・後三年合戦(1050-62・1083-87)に従軍して戦功を挙げ,清郷の子・有清が陸奥国に所領を得て,信夫郡湯野(福島県福島市飯坂町)に大鳥城を築いて拠点とし,以後,平泉藤原氏に仕えたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

美濃国加茂郡(岐阜県加茂郡)や越後国三島郡(新潟県長岡市)の系図による。

「清郷」と「有清」については,「尊卑分脈」に記載はあるが,祖父と孫の関係となっている。また,有清が陸奥国に所領を得たとする確実な記録はない。ほか,出羽国飽海郡(山形県東田川郡)に清郷の子が信夫郡から来住したとの伝承がある(後述)。

なお,同族(清郷の伯父の系統)の首藤氏は前九年合戦後に出羽国飽海郡(山形県酒田市)に所領を得ており3,一応,類例は存在する。そうすると,朝廷に仕えた武官の家系で,近畿地方を拠点としたはずの佐藤氏が東北地方に所領を得ることも全く現実味のない話とはいえない。

②佐藤師清-出羽守説

次に,②の代表的な伝承は以下のとおりである。

  • 保延1年(1135),佐藤師清[左衛門尉]が,陸奥国に所領を得て,信夫郡飯坂(福島県福島市飯坂町)に大鳥城を築いて拠点としたとの伝承がある〔『ふるさと小斎の歴史』〕。

江戸時代に仙台藩士であった佐藤家の系図による。また,類似の記述が美作国久米郡(岡山県岡山市北区)の佐藤家の系図にある〔『佐藤一族』〕。

「師清」については,「尊卑分脈」に記載はないが,上記仙台藩での系図では天永1年(1110)に出羽守に任じられたことになっている。この点について,確実な史料では,元永2年(1119)に藤原師清という人物が出羽権守に任じられた記録があり〔「大間成文抄」〕,同一人物の可能性がある。

補足
両説の系図の比較
①前九年・後三年合戦説の系図は,代数は問題ないものの,佐藤継信・忠信兄弟の父を元治[信夫庄司]ではなく,秀信[出羽庄司]としている点で通説と異なる。一方,②出羽守説の系図は師清から元治までを3〜4代で繋げているところ,元治は12世紀初めごろに生まれた人物であるから,師清の子世代とみるべきで,明らかに代数が多いという問題点がある。
詳細
信夫佐藤氏の活動範囲

12世紀,平泉藤原氏の重臣・信夫佐藤氏の拠点について,後世の伝承を含めると,東北地方南部の広い範囲にわたっている。

例えば,佐藤氏の居館が,陸奥国本吉郡(宮城県気仙沼市周辺)や刈田郡(宮城県刈田郡),出羽国飽海郡(山形県北西部)などにあったという。また,系図を見ると,通称として「白河」,「石河」,「田川」,「元吉」,「安達」などの地名が見える〔「伊勢佐藤家文書」〕。

その他
  • 承安1年(1171),藤原真年が,信夫郡飯坂(福島県福島市飯坂町)の天王寺の裏山に如宝堂を造立した〔『福島県史』など〕。

天王寺境内で発掘された「陶製経筒」(国指定重要文化財)の銘による。天王寺は大鳥城の北に位置する。この時代・場所に堂を造立できる藤原氏の人物となると大鳥城主の佐藤氏,特に佐藤元治の別名の可能性が高いが,佐藤氏の系図に「真年」の名前は見られない〔『福島県史』〕。

  • 12世紀前半,信夫郡(福島県福島市周辺)の領主・大庄司季春が,平泉藤原氏を庇い,陸奥国司に背いたために一族とともに処刑されたとの伝承がある〔「古事談」,「十訓抄」〕。

鎌倉時代成立の説話集(「古事談」,「十訓抄」)による。

仮に,この説話が実話に基づいたものだとすると,信夫郡の「庄司」という役職や名前にハル(春・治)を含む点から,大庄司季春は佐藤元治の同族であり,その先代か先々代にあたる人物ということになる。ただし,佐藤氏の伝承・系図等では,一族が処刑されたエピソードや「季春」の記述は一切ない。

出羽国

陸奥国では平安時代末期から佐藤氏がいた確実な記録があるのに対し,出羽国ではいくつかの伝承があるにとどまる。また,各地の佐藤氏の伝承も,陸奥国信夫郡(福島県福島市)の佐藤氏の系統を自称するものが多い。しかし,現代の佐藤氏の人口分布を見ると,旧出羽国の佐藤氏の比率は,旧陸奥国での比率に匹敵するか,それ以上に高い。そうすると,出羽国にも,陸奥国同様に,平安時代末期ごろから佐藤氏が土着していた可能性がある。

飽海郡

  • 寛治年間(1087-94),佐藤氏である酒田次郎[坂田二郎]が,飽海郡酒田湊(山形県酒田市)の酒田城を拠点としたとの伝承がある〔「筆濃余理」,『太田姓氏』〕。

江戸時代後期の庄内藩士・安倍親任の調査による。酒田氏(坂田氏)は,その後,鎌倉時代に幕府御家人,南北朝時代に最上氏家臣として所見がある〔『太田姓氏』〕。

佐藤氏の系図で「酒田二郎」の名や「酒田」の地名を載せるものは確認できない。

田川郡

  • 治暦年間(1065-69),藤原清衡の家臣で,陸奥国信夫郡(福島県福島市周辺)の荘官の佐藤清郷の子・知基が,田川郡余目(山形県東田川郡庄内町余目町)に余目城(余目八幡神社周辺)を築いて拠点とした〔『飽海郡誌』〕。

余目八幡神社での伝承による。先述のとおり,佐藤清郷の子・有清が前九年・後三年合戦の恩賞で陸奥国に所領を得た旨の伝承は各地で見られるが,これはその変種で,子・知基が信夫郡より飽海郡に来住したとする。

佐藤清郷と知基は「尊卑分脈」に記載はあるが,父子ではなく従兄弟の関係になっている。また,管見の限り,佐藤氏の系図で知基を載せるものはない。

なお,「余目」の地名も,佐藤清郷・知基が,信夫郡余目(福島市下飯坂・沖高・宮代周辺)に居住していたことに因むと伝える〔『飽海郡誌』〕。

関連
「信夫庄司」と「出羽庄司」

信夫郡の佐藤元治が「信夫庄司」と呼ばれていたことは周知のとおりであるが〔「吾妻鏡」など〕,これに対し,先祖を「出羽庄司秀信」や「出羽庄司正信」とするものが各地にある。

例えば,「出羽庄司秀信」とする系図が陸奥国閉伊郡(岩手県),越後国三島郡(新潟県),相模国愛甲郡(神奈川県),阿波国阿波郡(徳島県)に,また,「出羽庄司正信」とするものが陸奥国白河郡(福島県)にあるほか,豊後国速見郡(大分県)でも「出羽庄司」が来住したとの伝承がある〔以上,『佐藤一族』,『角川姓氏』〕。

加えて,いずれの系図も,「出羽庄司」の先祖に藤原清郷・有清を挙げており,上記田川郡余目の伝承と関連する可能性がある。

なお,「酒田」への言及はない。

その他

以上のほか,出羽国では,先祖について次のような伝承がある。いずれもそのまま信用することは難しい。

  • 由利郡琴浦(秋田県にかほ市平沢琴浦)の溜め池「大同堤」は,大同1年(806)に,同地の佐藤氏の先祖によって築かれたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
  • 山本郡白岩(秋田県仙北市角館町白岩)の佐藤氏の先祖は,京都出身の狩人で,戦乱の際に敗走して当地に落ち延び,天治1年(1124)に玉川以東の原野を開拓し,同地に土着したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
  • 田川郡田川(山形県鶴岡市田川)の佐藤氏の先祖は,12世紀の田川郡の領主・田川行文[太郎]であるとの伝承がある〔『飽海郡誌』〕。

なお,田川郡田川の伝承については,江戸時代末期の随筆に,田川氏の子孫と伝える百姓の奥村氏が困窮したために庄屋の佐藤氏に系図を買い取ってもらったとのエピソードがあり〔「池田玄斎随筆」〕,詐称であるらしい。

鎌倉時代

図2.鎌倉時代の東北地方の佐藤氏の分布

鎌倉時代の東北地方の佐藤氏

」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。その他の記号等については「凡例#歴史編の分布地図」参照。

前提(奥州合戦と信夫佐藤氏)

鎌倉幕府成立(1185)後,平泉藤原氏は,源義経を匿ったとして幕府により滅ぼされた(奥州合戦)。この合戦において,平泉藤原氏の重臣であった信夫佐藤氏の一族は,平泉藤原氏に従って信夫郡・伊達郡で幕府軍を迎え撃ったが敗れた。

  • 文治5年(1189),藤原泰衡の家臣で,信夫郡(福島県福島市)の荘官・佐藤元治[湯庄司]が,叔父の河辺高経[太郎],伊賀良目高重[七郎]らとともに,「石那坂」(位置不詳)で幕府軍と戦闘し,討死した。この翌日,藤原国衡の家臣・佐藤秀員[三郎]とその子が,阿津賀志山(福島県伊達郡国見町)で討死した〔「吾妻鏡」〕。

しかし,信夫郡の佐藤氏は滅亡したわけではない。諸家伝によれば,元治の子や孫,兄弟の子孫たちは各地で生き残った。

陸奥国

津軽郡

  • 奥州合戦(1189)後,佐藤元治が津軽郡石名坂(青森県黒石市石名坂)の石名坂館を拠点とし,元治の孫から石名坂氏を称したとの伝承がある〔「浅瀬石川郷土誌」,『日本城郭大系』,『角川地名』〕。

しかし,佐藤元治は奥州合戦で討死しているから〔「吾妻鏡」〕,現実的には,16世紀末の石名坂館の館主・石名坂氏が佐藤元治の子孫を称したことが誤って伝承されたものと思われる。

糠部郡

糠部郡三戸(青森県三戸郡)では,同地の佐藤氏の先祖について,①甲斐国の武士で,建久2年(1191)に新たに領主となった甲斐国御家人の南部氏に従って来住したと伝えるものと,②糠部郡三戸の村人で,南部氏が来住した際にこれを手厚くもてなしたため南部氏に仕えたと伝えるものがある〔『田子町誌』,『三戸町史』など〕。

正確な記録で,糠部郡において佐藤氏が見えるのは16世紀以降である。そもそも南部氏が鎌倉時代初期から糠部郡の領主であったかどうかも定かではない。また,②については佐藤氏が一切登場しないパターンもある。いずれにせよ,上記伝承は信用できない。

岩手郡

  • 13世紀ごろ,岩手郡雫石村繋(盛岡市繋)に佐藤氏が土着し,以後代々羽黒派の修験者として続いたとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

江刺郡

  • 建久4年(1193),佐藤元治の三男の「継信の子の信隆」の子・信泰[刑部]が,出羽国置賜郡(山形県米沢市)から江刺郡伊手(岩手県奥州市江刺伊手)に来住し,建久館を築いて拠点としたとの伝承がある。その子・為信は江刺郡のほかに和賀郡にも所領を得たという〔『江刺の古文書』6,『過疎河内名』〕。

鎌倉時代,出羽国置賜郡花沢(山形県米沢市)に佐藤氏がいたことは多くの系図・伝承にあり,また,後述のとおり,関連する遺跡・寺院も残っているから,信用できる。しかし,信隆[義忠]を継信の子とする系図は当系図のみで,誤記と思われる。

胆沢郡

  • 文治年間(1185-90),佐藤持信が,胆沢郡姉体村漆林(岩手県奥州市水沢姉体町漆林)に観音堂を勧請したとの伝承がある。持信は,源頼朝から磐井郡の東部に所領を与えられて磐井郡薄衣村諏訪前(一関市川崎町薄衣諏訪前)を居所としていたが,天正年間(1573-92),子孫の佐藤豊後のときに,姉体村漆林に来住したと伝える〔『角川地名』〕。
  • 正安2年(1300),胆沢郡瀬原村(奥州市衣川瀬原)の住人に佐藤次〔「高野山文書宝簡集」〕

鎌倉時代の東北地方の佐藤氏にまつわる伝承は多いが,確実な記録は,佐藤元治らの一族を除くと,胆沢郡の「佐藤次」と磐井郡(次項)の「佐藤五」,「佐藤二郎」のみである。

なお,中世「佐藤」は(名字としてではなく)個人名の一部として用いられた例もあるから,これが名字であったかは直ちに判断できない。仮に名字であるとすれば,平泉藤原氏の本拠の平泉に近いことから,その遺臣の佐藤氏が土着したものと思われる。

磐井郡

  • 文保2年(1318),磐井郡骨寺村(一関市厳美町本寺)の住人に佐藤五,佐藤二郎〔「陸奥中尊寺文書」〕

(胆沢郡の項参照)

閉伊郡

  • 文治5年(1189),佐藤秀信[庄司]の三男・信政[豊前/判官]が,出羽国から閉伊郡関口(下閉伊郡山田町関口)に来て,閉伊郡大沢(下閉伊郡山田町大沢)で源義経に面会して陸奥国内を案内したとの伝承がある〔『佐藤一族』,『角川姓氏』〕。

「佐藤信政[豊前]」については,相模国愛甲郡(神奈川県相模原市)の系図にも「出羽庄司秀信」の子,継信・忠信の兄弟として記載がある。

気仙郡

  • 奥州合戦(1189)後,平泉藤原氏遺臣の佐藤氏が,気仙郡司の金氏の保護を受け,花輪氏とともに,磐井郡平泉(岩手県西磐井郡平泉町)から気仙郡綾里(岩手県大船渡市三陸町綾里)に来住したとの伝承がある。先祖は佐藤元治[備前守]と伝える〔『角川姓氏』〕。

同家の先祖の墓は平泉にあり,現代まで墓参が続く〔『角川姓氏』〕。

本吉郡

  • 12世紀末ごろ,信夫郡(福島県福島市)の「佐藤荘司勝信」の妻が,本吉郡馬籠・津谷(気仙沼市本吉町馬籠町・津谷)を所領とし,馬籠の信夫館(気仙沼市本吉町信夫)の館主であったとの伝承がある〔「安永風土記」,『角川姓氏』〕。

「佐藤荘司」とあることから「信夫佐藤庄司」〔「吾妻鏡」〕を称した佐藤元治を指すと思われるが,この実名を「勝信」とする系図・伝承は他にない唯一の例である。

これに関連して,磐井郡永井(一関市花泉町永井)の佐藤家の系図によると,建武3年(1336)に佐藤信継[兵庫介平次郎]が「本吉信夫館」に移った旨の記述,信継から7代後の信郷[四郎太夫/15世紀前半]が「本吉馬籠信夫館」を築いた旨の記述がある〔『佐藤一族』〕。

登米郡

登米郡蓬田(登米市中田町石森蓬田)の佐藤家の先祖は,奥州合戦(1189)で討死した佐藤秀員の三男・秀完[三郎太夫]といい,その後,奥州総奉行となった葛西氏に仕えたと伝える〔『角川姓氏』〕。

奥州総奉行・葛西氏は,胆沢郡・磐井郡・雄鹿郡などに拝領し〔「吾妻鏡」など〕,磐井郡平泉(岩手県西磐井郡平泉町)または雄鹿郡石巻(宮城県石巻市)を拠点としたとされる。当伝承の佐藤秀員・秀完父子もこれらの地域の人物と思われるが,不詳である。

栗原郡

  • 12世紀末ごろ,佐藤継信・忠信兄弟が,栗原郡島体(栗原市一迫嶋躰)に赤松館の館主として来住し,源義経の死(1189)後,佐藤継信が同地で帰農したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

佐藤継信は源義経の身代わりとなって討死したことが有名なエピソードとされているのに対し〔『平家物語』など〕,当伝承は義経の死後に帰農したことになっている点で特異である。

宮城郡

  • 文治6年(1190)に伊沢家景(のち留守家景)が陸奥留守職に任じられた際,その案内役として佐藤氏が選任され,以後代々留守氏に仕えたとの伝承がある。なお,先祖は佐藤公康と伝える〔「留守家文書」,「余目氏旧記」,『佐藤一族』〕。

留守氏の拠点は,宮城郡の多賀城(宮城県多賀城市)または岩切城(宮城県仙台市宮城野区岩切)にあった。平泉藤原氏から鎌倉幕府御家人による統治に切り替わるにあたり,平泉藤原氏時代以来の在地の豪族の佐藤氏が実務家として登用されたものと考えられる。

また,先祖を佐藤公康とする家は全国でも珍しく,当サイトの調査範囲の限りでは唯一の例である。公康は「尊卑分脈」では紀伊国に住んだとされるところ,陸奥国信夫郡の佐藤元治と同じ世代にあたる。

名取郡

  • 壇ノ浦の合戦(1185)後,平家の落人の従者の佐藤氏が,名取郡司(熊野別当)のもとに身を寄せ,奥州合戦(1189)の後に名取郡秋保(宮城県仙台市太白区秋保町)に来住したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

このほか,奥州合戦以前から住んでいたとの伝承もある。

刈田郡

  • 12世紀末ごろ,佐藤元治の叔父・河辺高綱[高経]が,刈田郡円田(刈田郡蔵王町円田)の築館に居住したとの伝承がある〔「奥羽観蹟聞老志」,『角川姓氏』,『日本城郭大系』3,『佐藤一族』〕。

河辺高綱は「吾妻鏡」に佐藤元治の叔父として記録があることから実在したとみてよいと思われるが,佐藤家の系図・伝承には所見がない。

築館の館主については「佐藤太郎」とも伝えるが,高綱の別名か。なお,付近の花楯城について,奥州合戦(1185,後述)の際に,「佐藤庄司と佐藤太郎」が立て篭もって防戦したと伝える〔『日本城郭大系』〕。

「河辺」の称からして,本拠は信夫郡河辺(福島市郷野目)と考えられる。また,信夫郡平石(福島市平石)の砦城は,文治5年(1185)の河辺高綱の居館と伝える〔『日本城郭大系』〕。さらに,平泉藤原氏の本拠である磐井郡平泉(西磐井郡平泉町)にも屋敷があったという。

  • 13世紀後半ごろ,佐藤信綱[九郎]が,下野国足利郡(栃木県足利市)から刈田郡平沢(刈田郡蔵王町平沢)に移住したとの伝承がある〔『佐藤一族』,『角川姓氏』〕。

伊具郡

  • 奥州合戦(1189)の直前,佐藤元治の長男・隆治[七郎前信,左近大夫将監]は,病弱であったため,弟・治清や家臣らとともに阿武隈川を下り,伊具郡川張(宮城県伊具郡丸森町大張川張)に来住したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

伊達郡

  • 奥州合戦(1189)後,佐藤景義[右京大輔]が,伊達郡南保原(福島県伊達市保原町)に逃げ延びて土着したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

信夫郡・伊達郡

  • 13世紀ごろ,佐藤元治の長男・隆治[七郎前信,左近大夫将監]や次男・治清[庄司次郎]の子孫が,信夫郡(福島県福島市)や伊達郡(福島県伊達市,伊達郡周辺)を拠点としたとの伝承がある〔「伊勢佐藤家文書」,『福島市史』,『佐藤一族』〕。

伊勢国一志郡(三重県松阪市)および美作国久米郡(岡山県岡山市北区)の佐藤家の系図による。

隆治に関しては,治承年間(1177-81)に信夫郡飯坂の高館を居所としたとの伝承〔『日本城郭大系』〕や奥州合戦(1189)の直前に,弟の治清や家臣らとともに伊具郡川張(宮城県伊具郡丸森町大張川張)へと退避し,そのまま土着したとの伝承がある(前述)。しかし,上記の伊勢国一志郡の系図では,隆治の子孫が最も豊富に記載されていて,「信夫次郎」,「信夫六郎」,「湯村太郎」を名乗っているから,信夫郡内の小領主として展開したように見える。また,北秋田郡(北秋田市)には,隆治の直系と伝える佐藤家がある〔『佐藤一族』〕。

治清に関しては,上記の美作国久米郡の系図に「大森古舘」(福島市大森/大森館)に居住したとの記載があり,また,伊勢国一志郡の系図でその子孫が「佐羽野二郎」(福島市平野鯖野周辺)を名乗っていることから,兄・隆治の系統と同じく,信夫郡内に残ったものと思われる。

そして,奥州合戦(1189)以前の信夫佐藤氏の本拠であった大鳥城(福島市飯坂町舘ノ山)に関しては,次の伝承がある。

  • 13世紀前半ごろ,佐藤元治の四男の継信の子・祐信から3代後の忠正の代まで大鳥城(福島市飯坂町舘ノ山)を拠点としたが,文永3年(1266)に佐竹信国(不詳)と争って敗れ,遠田郡涌谷(遠田郡涌谷町)の和久屋城に移ったとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
  • 正安1年(1301)以降,佐藤元治の三男の忠信から5代後の信辰が,「奥州目代」に任じられて信夫郡に所領を得,大鳥城(福島市飯坂町舘ノ山)を拠点としたが,その後は葛西氏に仕え,建武3年(1336)からは本吉郡馬籠(宮城県気仙沼市)に移ったとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

前者は出羽国田川郡(山形県東田川郡),後者は陸奥国磐井郡(岩手県一関市)・本吉郡(気仙沼市本吉町)の佐藤家の系図による。

これらの伝承を踏まえると,大鳥城に関しては,鎌倉時代に入っても佐藤氏の居館となっており,少なくとも13世紀半ばごろまでは継信系が居所とし,その後一時不明であるが,14世紀初頭には忠信系が居所としていたことになる。

出羽国

雄勝郡

  • 宝治2年(1248),雄勝郡(湯沢市周辺)の地頭の小野寺氏の居城が攻め落とされた際に,「小野寺式部介」(不詳)の三男が,実母が佐藤氏であったことから佐藤正義[山城守]と称し,仙北郡千屋(秋田県仙北郡美郷町千屋)の勝手大明神(勝手神社)の神職となり,以後代々続いたとの伝承がある〔『佐藤一族』,『秋田佐藤一族』〕。

由利郡

  • 文永1年(1264),佐藤信直[信太郎]が,由利郡西沢(由利本荘市西沢)に巴館を築き,以後代々居住したとの伝承がある。信直の父は佐藤忠信で,忠信の妾(摂津池田氏の娘)の子と伝える〔『佐藤一族』〕。

田川郡

  • 奥州合戦(1189)後,佐藤元治の三男の継信の子・経信[三郎兵衛尉]が,出羽国秋田(秋田県秋田市)に逃れたが「秋田城介」と争って敗れ,飽海郡升田(山形県酒田市升田)を経て,田川郡松ケ岡(山形県鶴岡市羽黒町松ケ岡)に移住したとの伝承がある〔『飽海郡誌』〕。

飽海郡下小泉(山形県酒田市小泉)の佐藤家の系図による。

  • 奥州合戦(1189)後,佐藤元治の孫・信通が,一族や家臣ら18家を率いて,田川郡小波渡(山形県鶴岡市小波渡)に来住したとの伝承がある〔「佐藤五郎右衛門家系譜」〕。
  • 13世紀前半ごろ,佐藤元治の四男の忠信の子の信隆の子・清信が田川郡の羽黒山の麓に居住し,以後代々出羽権現(鶴岡市羽黒町/出羽神社)に修験者として奉仕したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

最上郡

  • 大河兼任の乱(1185-86)での功績で,佐藤元治の四男の忠信の子・信隆(義忠)が,最上郡豊田(最上郡鮭川村)に所領を得たとの伝承がある〔『ふるさと小斎の歴史』,『佐藤一族』〕。

村山郡

  • 奥州合戦(1189)後,佐藤元治の三男の継信の子・義信が,元治の妻・乙和子姫ら一族とともに,一時,村山郡慈恩寺(山形県寒河江市慈恩寺)に逃れ,その後,越後国高田(新潟県上越市)に移住したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

田川郡宮曽根(東田川郡庄内町)の佐藤家の系図による。なお,村山郡慈恩寺(寒河江市慈恩寺)周辺では,14世紀末や江戸時代にも佐藤氏の所見があることから,当伝承のとおり,鎌倉時代ごろには継信らの系統が当地周辺に来住していた可能性がある。

  • 承久の乱(1221)の後,武蔵国入間郡入間(埼玉県狭山市入間川周辺)の領主・佐藤基春が,大江氏(のちの寒河江氏)に従って村山郡入間(山形県西村山郡西川町入間)に来住したとの伝承がある〔『寒河江市史』〕。

「入間」の地名は,旧領の武蔵国入間郡入間に由来するという。

置賜郡

  • 13世紀初頭ごろ,佐藤元治の四男の忠信の孫・安忠が,置賜郡花沢(米沢市花沢町・駅前周辺)に移り,同地の八木橋館を本邸,花沢館を別邸として,以後6代にわたって同地を拠点としたとの伝承がある〔『ふるさと小斎の歴史』,『佐藤一族』,『大鳥城記』〕。
  • 徳治年間(1306-1308)に安忠4代の正信が陸奥国岩崎郡・岩城郡(福島県いわき市)の岩城氏に仕え,以後,代々同氏に仕えた。

佐藤安忠は,最上郡豊田に所領を得た信隆(先述)の子にあたる。花沢を拠点とした伝承については,遺跡や関連する寺院が同地に現存することから,信用してよいと思われる。

同家のその後については後に詳述するが,岩城氏に仕えるようになったあと,南北朝時代に置賜郡内で伊達氏が勢力を強めたために陸奥国岩崎郡(福島県いわき市)に移り,江戸時代までに伊達氏に仕えて仙台藩士として続いた。

関連
佐氏泉公園の由緒について
米沢市に所在する「佐氏泉公園」(米沢市駅前三丁目)は,平安時代末期の佐藤継信・忠信の父「正信」の別邸跡との伝承がある。しかし,実際には,南北朝時代の花沢城主・佐藤安忠の曾孫「正信」の別邸(上記)であると考えられる。

  • そもそも,佐藤継信・忠信の父は,一般に,「正信」ではなく「元治」(基治,家信とも)であって,しかも,置賜郡花沢の領主ではなく,陸奥国信夫郡(福島市)の領主と理解されている。
  • そして,「佐氏泉公園」付近にある寺院の「常信庵」は正信の後室による開創と伝えるところ,同系図によれば正信の父の名が「常信」であり,寺院名もこれに因むと考えられ,また,同寺には安忠─安信─常信という正信の直近3代の先祖を供養する碑があるという。
  • そうすると,「佐氏泉公園」は,忠信から5代後の「正信」の別邸跡であって,父の「正信」と伝えるのは誤りであって,信用できない。

南北朝・室町時代

図3.南北朝・室町時代の東北地方の佐藤氏の分布

南北朝・室町時代の東北地方の佐藤氏

」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。その他の記号等については「凡例#歴史編の分布地図」参照。

陸奥国

津軽郡

  • 14世紀半ばごろ,津軽郡浪岡(青森市浪岡)の北畠氏の家臣に佐藤氏がいたとの伝承がある。北畠氏没落後は出羽国を流浪し,至徳3年(1386)から比内郡綴子(北秋田市綴子)に居住して,比内浅利氏に仕えたという〔『佐藤一族』〕。

気仙郡

  • 応永・永享年間(1394-1428・1429-48),佐藤信重[近江守]が,気仙郡釘子(陸前高田市横田町釘の子)に移住したとの伝承がある。先祖は平泉藤原氏に使えたという〔『角川姓氏』〕。

磐井郡

  • 永和3年(1377),佐藤加賀が,磐井郡築館村(岩手県一関市大東町沖田)で帰農したとの伝承がある〔「安永風土記」,『角川姓氏』〕。

本吉郡

  • 建武3年(1336),葛西氏家臣で,信夫郡飯坂(福島県福島市)の大鳥城主・佐藤信継が,戦功により,本吉郡馬籠(気仙沼市本吉町馬籠・信夫)の馬籠館に移ったとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。
  • 南北朝時代,本吉郡清水(宮城県本吉郡南三陸町志津川清水浜周辺)に佐藤信久[修理]がいたとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
  • 14世紀半ばごろ,佐藤信周が,葛西良清[1365没]に仕え,本吉郡入谷(宮城県本吉郡南三陸町入谷)に居住したとの伝承がある。先祖は佐藤忠信と伝える〔『角川姓氏』〕。

先祖は佐藤忠信の孫・師忠である。14・15世紀,本吉郡のほか,登米郡や気仙郡に,実名が「信」から始まる佐藤氏が見え,多くは葛西氏に仕えている。これらの類似点からすると同族と思われるが,確証はない。

登米郡

  • 15世紀初頭ごろ,佐藤信周が,佐藤信次[豊後]が,父のもとを離れて葛西満信[当主在任1388-1420/44]に仕え,登米郡内に約20町の所領を与えられ,その後,登米郡嵯峨立(宮城県登米市東和町錦織岩ノ沢)に移住し,淵崎城を築いて初代城主となったとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

栗原郡

  • 栗原市築館八沢。応永7年(1400),佐藤高則が,宇都宮氏広による反乱の際の戦功により,栗原郡太田・新田・八沢(栗原市築館太田・新田・八沢)に所領を得て,以降大崎氏の家臣となり,八沢要害の館主となったとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

遠田郡

  • 延文1年(1356),遠田郡涌谷(遠田郡涌谷町)の和久屋城主・佐藤正信[守信]が,玉造郡柏山(大崎市?)の柏山城に移ったが,康暦1年(1379)に落城したため,出羽国飽海郡中山稲荷沢(酒田市稲荷沢)に移り,中山城(酒田市松山/松山歴史公園)を築いて拠点としたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

宮城郡

  • 建武2年(1335),宮城郡岩切(宮城県仙台市宮城野区岩切)の岩切城主・留守氏家臣に佐藤兵庫助〔「余目氏旧記」〕

宇多郡

  • 応永年間(1394-1428),宇多郡駒ケ嶺(福島県相馬郡新地町駒ケ嶺)の佐藤信家は,安達郡二本松(福島県二本松市)の畠山氏の攻撃を受けて没落し,以後代々神職を務めたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

行方郡

  • 応永13年(1406),伊達郡細谷(伊達市梁川町細谷)の細谷城主の佐藤氏が,行方郡司に就任し,岩松義政に従って行方郡真野郷(南相馬市鹿島区横手)に移り,細谷館を築いて拠点としたとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

伊達郡

  • 貞和2年(1349),伊達郡細谷(伊達市梁川町細谷)の白鳥城(細谷城)主に佐藤忠親[丹波守]がいたとの伝承がある。佐藤元治10代という〔以下,『角川姓氏』〕。
  • 応永13年(1406),子孫が,行方郡司に任じられたため,行方郡真野郷に移住した。

信夫郡

  • 暦応1年(1338)ごろから,信夫郡の武将・佐藤清親[十郎左衛門,入道性妙]らの一族が,奥州総大将・石塔氏,のち奥州管領・畠山氏に従って,陸奥国内を転戦した〔以下,「伊勢佐藤家文書」〕。
  • 文和1年(1352)ごろからは,清親の子の胤清[弾正忠]・行清[彦左衛門尉兵庫允]・基清[兵衛尉新蔵人,浄勝]らが,伊勢国司・北畠氏や伊勢守護・仁木氏などに仕え,伊勢国一志郡神戸(三重県松阪市肥留町周辺),相模国大住郡豊部(神奈川県伊勢崎市),近江国蒲生郡安吉(蒲生郡竜王町,近江八幡市周辺),摂津国河辺郡橘御園(兵庫県尼崎市など)などに所領を得た。

伊勢国一志郡神戸(三重県松阪市肥留町)の佐藤家の文書・系図による。

佐藤清親らは,同文書に見られる一連の活動の態様からして,南北朝時代前期の信夫郡の佐藤氏の代表する地位にあったものと考えられる。ただし,その先祖は,平安時代末期の信夫郡の領主・佐藤元治の直系ではなく,元治の弟・師泰[白河太郎]の系統という。

佐藤清親には7人の男子がいて,嫡子・基清の系統は信夫郡を離れて以後一志郡神戸(三重県松阪市肥留町)に居住して現代まで続くが,これ以外の系統の動向は明らかでない。上記所領の関係では,相模国大住郡豊部(神奈川県伊勢崎市)に16世紀以降佐藤氏が見え〔「関東地方の佐藤氏の歴史」〕,摂津国では15世紀に摂津守護・細川氏の家臣に「清」を通字とする佐藤氏が見え〔「近畿地方の佐藤氏の歴史」〕,清親の系統と思われる。また,戦国時代の美濃国加茂郡・武儀郡などで武将として佐藤氏が多数見えるところ〔「中部・北陸地方の佐藤氏の歴史」〕,これらの佐藤氏の系図を見ると,美濃守護・土岐氏に仕える以前の事績が曖昧で,陸奥国(または出羽国)の出身といい,「清」を実名に用いることが多い点で,清親の系統ではないかと思われるが,検討を要する。

石川郡

  • 観応3年(1352),白川郡蒲田(福島県石川郡古殿町鎌田)の石川兼光[蒲田兼光]の若党・佐藤二郎が,唐久野(郡山市田村町御代田)での合戦に従軍した〔「白川文書」〕。

出羽国

比内郡

  • 至徳3年(1386),津軽郡浪岡(青森市浪岡)の北畠氏の遺臣の佐藤忠勝[但馬]が,出羽国内を流浪した後,比内郡綴子(北秋田市綴子)に居住して,比内浅利氏に仕えたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

飽海郡

  • 康暦1年(1379),玉造郡柏山(大崎市?)の柏山城主の佐藤正信[守信]が,同城を攻め落とされたため,飽海郡中山稲荷沢(酒田市稲荷沢)に移り,中山城(酒田市松山/松山歴史公園)を築いて拠点としたとの伝承がある〔以下,『佐藤一族』〕。
  • 応永3年(1396),佐藤正信は,田川郡余目(東田川郡庄内町周辺)の地頭の安保光康と争い,同郡槙島(庄内町槙島)で討死し,または応永4年(1397)に田尻(酒田市竹田)で討死もしくは病死したため,一族や家臣は離散したという。
  • 正信の嫡子・正利は,父の死を受けて遊学中の京都から帰郷したが,家臣たちの行方が分からなくなっていたため,しばらく洞龍山総光寺(酒田市総光寺)の境内で生活したのちに,飽海郡餅山(酒田市上餅山・下餅山)に移住し,帰農したと伝える。

先祖は継信の子・祐信である。鎌倉時代後期に大鳥城(福島市)から和久屋城(遠田郡涌谷町)に移ったのち,南北朝時代には玉造郡柏山城に移っていた。

正信は,至徳1年(1384)に洞龍山総光寺(酒田市総光寺)と薬師堂(酒田市外山越)を開創したとも伝える。

田川郡

  • 建武1年(1334),佐藤修理弾正が,田川郡赤川(鶴岡市羽黒町赤川村中)に城を築いて居住したとの伝承がある〔『日本城郭大系』など〕。
  • 応永1年(1394),大宝寺武藤氏家臣の佐藤広明[左衛門五郎]が,田川郡茨新田(鶴岡市茨新田)の堂坂山(道地楯)の楯主となったとの伝承がある〔『平凡地名』〕。

村山郡

  • 14世紀末ごろ,佐藤倫信が,信濃国伊那郡浪合(長野県下伊那郡阿智村浪合)から村山郡五百川(西村山郡朝日町)に来住したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

村山郡村木沢(山形市村木沢)の佐藤家の系図による。

  • 明徳1年(1390),村山郡寒河江荘桧皮(山形県寒河江市日和田)の住人・佐藤松代丸が,宝林坊に対し,醍醐鬼越(山形県寒河江市慈恩寺鬼越)の土地を売却した〔「宝林坊文書」/『南北朝遺文』2192〕。

これに関連して,田川郡宮曽根(東田川郡庄内町)の系図では,奥州合戦(1189)後に佐藤継信の子・義信が元治の妻(義信の祖母)をはじめ一族を率いて村山郡慈恩寺(寒河江市慈恩寺)に逃れたとの伝承があり(先述),当地の佐藤氏の起源と思われる。

置賜郡

  • 至徳2年(1385),岩城氏の家臣で,置賜郡花沢の花沢城主・佐藤長信は,伊達氏に攻められたため,岩城氏の本拠である陸奥国岩崎郡(福島県いわき市)に移り,その後,岩崎郡内に所領を得たとの伝承がある〔『ふるさと小斎の歴史』,『大鳥城記』〕。

先述のとおり,当家は,14世紀初頭,佐藤長信の祖父・正信のころから,岩城氏に仕えている。

戦国・安土桃山時代

図4-1.戦国・安土桃山時代の東北地方の佐藤氏の分布

戦国・安土桃山時代の東北地方の佐藤氏

」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。その他の記号等については「凡例#歴史編の分布地図」参照。

陸奥国

図4-2.青森県・岩手県の分布

戦国・安土桃山時代の東北地方の佐藤氏(青森・岩手)

図4-3.宮城県・福島県の分布

戦国・安土桃山時代の東北地方の佐藤氏(宮城・福島)

表2.戦国・安土桃山時代の陸奥国の佐藤氏の拠点(郡・主家別)
拠点のあった郡主家
(青森県)津軽郡青森市・黒石市・弘前市など北畠氏
糠部郡三戸郡三戸町など南部氏
(岩手県)二戸郡二戸市浄法寺氏
和賀郡北上市和賀氏
紫波郡紫波郡斯波氏
胆沢郡奥州市葛西氏
気仙郡陸前高田市葛西氏
(宮城県)栗原郡・加美郡・遠田郡栗原市・加美郡・遠田郡など大崎氏
栗原郡・登米郡・本吉郡栗原市・登米市・気仙沼市など葛西氏
宮城郡仙台市・多賀城市・塩竈市など留守氏→伊達氏
刈田郡・伊具郡白石市・角田市周辺伊達氏
(福島県)宇多郡・行方郡相馬市・南相馬市相馬氏
信夫郡・伊達郡福島市・伊達市周辺伊達氏
田村郡福島県田村市田村氏
白河郡福島県白河市結城氏
岩崎郡福島県いわき市岩城氏
会津郡福島県会津若松市など蘆名氏

出羽国

図4-4.秋田県・山形県の分布

戦国・安土桃山時代の東北地方の佐藤氏(秋田・山形)

表3.戦国・安土桃山時代の出羽国の佐藤氏の拠点(郡・主家別)
拠点のあった郡主家
(秋田県)山本郡山本郡浅利氏
仙北郡大仙市戸沢氏
雄勝郡・仙北郡横手市・大仙市小野寺氏
由利郡由利本荘市・にかほ市滝沢氏
(山形県)田川郡・飽海郡酒田市周辺大宝寺氏
最上郡・村山郡天童市最上氏,天童氏
村山郡西村山郡・寒河江市寒河江氏→最上氏
置賜郡米沢市伊達氏

江戸時代

佐藤氏の藩士が確認できる藩

陸奥(青森県)弘前藩,黒石藩,八戸藩
(岩手県)盛岡藩
(宮城県)仙台藩
(福島県)会津藩,棚倉藩,二本松藩,中村藩
出羽(秋田県)久保田藩,亀田藩,本庄藩,矢島藩
(山形県)庄内藩,新庄藩,山形藩,上山藩,天童藩,米沢藩

東京時代

図5.現代の東北地方の佐藤氏の分布(市町村別)

現代の東北地方の佐藤氏の分布

参考文献


  1. 「但馬守」は但馬国の国守を表す。一般に,このクラスの役職に就くことができるのは,当時の公卿の子弟か武官である。たとえ信夫佐藤氏が武官の出自であるとしても,すでに信夫郡に定着している佐藤氏が但馬守に任じられることは考えにくい。ただし,戦国時代に入ってからは,武士がこのような「但馬守」や「但馬」という通称を独自に名乗ることはあった。また,「隼人助」も,戦国時代以降の関東地方の武家に特徴的な通称で,存在しない官職名風の命名(東百官)である。これらを踏まえると,この伝承も戦国時代以降に創作された可能性が考えられる。 ↩︎

  2. また,当時から「信夫庄司」の一族が佐藤氏を自称し,佐藤氏と認知されていたことは確実である。例えば,当時の日記である『玉葉』文治2年9月21日条には忠信について「佐藤兵衛」とあるほか,鎌倉時代末期成立の「吾妻鏡」には元治や継信・忠信について「佐藤」と表記がある。 ↩︎

  3. 類例では,佐藤公清の養子・首藤資清が,前九年合戦後の康平5年(1062)に源義家から出羽留守職に任じられ,以後代々飽海郡新田目(山形県酒田市本楯新田目)を拠点としている。家系的にも地理的にも奥羽地方の佐藤氏の伝承と類似する。 ↩︎

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