鎌倉時代
佐藤氏は11・12世紀を通して朝廷の武官として院や摂関家に近侍してきた。嫡流は摂関家領の紀伊国田仲荘・池田荘を継承して財を成し、12世紀後半には平家に接近したが、まもなく平家が滅亡したことで後ろ盾を失い、寿永2年(1183)、所領は源氏に仕えた庶流の尾藤氏に譲ることとなった。
記録
鎌倉幕府成立後も依然、院・摂関家に仕えていた記録があるが、13世紀半ば以降の記録はない。
- 文治4年(1188)の後白河院の下北面に佐藤左衛門増包、佐藤近衛俊信。
- 建保1年(1213)後鳥羽院の西面に花山佐藤兵衛尉。
- 寛元4年(1246)九条道家の家人に佐藤左衛門成季、宝治2年(1248)佐藤左衛門尉宗兼。
また、尾藤氏に譲った紀伊国田仲荘・池田荘周辺では13世紀後半ごろから佐藤氏が見え、佐藤氏嫡流の子孫か尾藤氏の子孫と思われる。
- 文永10年(1273)伊都郡柏原(橋本市柏原)の住人に佐藤次大夫。正応2年(1289)に佐藤次。正応6年(1293)に佐藤大夫。
- 正応4年(1291)那賀郡長田荘上田井(紀の川市上田井)地頭に左藤太郎入道。
幕府関係者では、文永9年(1272)に佐藤四郎兵衛入道、嘉元2年(1304)に河村佐藤五郎入道が六波羅探題の奉行を務めているほか、各地の地頭にも佐藤氏が見え、いずれも波多野氏(河村氏、松田氏)か伊賀氏の系統と思われる。
- 建久5年(1194)河内国河内郡山田荘(大阪府枚方市)の地頭に佐藤三盛高。
- 弘安8年(1285)但馬国七美郡熊次別宮の地頭に佐藤二郎入道道性。
- 永仁7年(1299)紀伊国名草郡勢多郷の地頭に波多野佐藤広能。
このほかにも近畿では多数の佐藤氏の記録あり。
- 山城国
- 建久9年(1196)紀伊郡拝志荘(京都市南区)の住人に佐藤太。
- 弘長2年(1262)東寺(京都市南区九条町)の使者に佐藤次郎。
- 弘安7年(1284)佐藤員正、佐藤太。位置不詳。
- 正和5年(1316)葛野郡上野荘(京都市西京区上桂)住人の佐藤二。
- 元亨4年(1324)乙訓郡上久世荘(京都市南区久世)に佐藤氏。
- 摂津国
- 弘安1年(1278)川辺郡の多田院御家人に佐藤三、井谷佐藤太入道。正安2年(1300)佐藤二。正和5年(1316)対津佐藤九郎。
- 多田院御家人の名字はいずれも川辺郡多田荘の地名で、この佐藤氏も同荘周辺の人物と思われる。特に下記の島下郡粟生村の佐藤氏との関連が窺われる。出自については、同じく多田院御家人中に近藤氏が見え、朝廷の武官の佐藤氏の流れを汲むとも取れるが不詳。
- 元応2年(1320)・正中3年(1326)島下郡粟生村の住人に佐藤五。
- 弘安1年(1278)川辺郡の多田院御家人に佐藤三、井谷佐藤太入道。正安2年(1300)佐藤二。正和5年(1316)対津佐藤九郎。
- 大和国
- 弘安3年(1280)の西大寺(奈良県奈良市西大寺芝町)の過去帳に左藤三郎。
- 永仁2年(1294)山辺郡の住人に佐藤三。
- 文保1年(1317)添下郡大川・忍熊の住人に佐藤三。
- 近江国
- 文保2年(1318)・元徳3年(1331)滋賀郡葛川の住人に左藤次、左藤五大夫。
図1.鎌倉時代の近畿地方の佐藤氏の分布
南北朝時代
記録
室町幕府の引付衆(所領関係の訴訟処理を担当)に佐藤氏の記録あり。鎌倉幕府評定衆の佐藤業時・業連の系統と思われる。
- 康永3年(1344)幕府引付衆に佐藤次郎左衛門尉、佐藤九郎左衛門尉。
- 美作国久米郡の系図では、14世紀末ごろ(?)の佐藤孫四郎元好は内談衆で、兄左衛門尉満好は足利義満[在職:1369-95]に仕えたと伝える。
- 暦応2年(1339)和泉国大鳥荘(堺市西区)の境界相論の奉行に佐藤治部左衛門尉。
摂津国に武士の佐藤氏の記録あり。
- 建武1年(1334)摂津国川辺郡(川西市)の多田院御家人に佐藤次。
- 観応1年(1350)摂津守護・赤松氏の被官(?)に佐藤中務丞。
- 同時期・同名の人物が信夫佐藤氏にも見える。
南北朝の動乱の中で諸国を転戦した陸奥国信夫郡(福島県福島市)の佐藤氏の総領家が、14世紀後半に近江国と摂津国に所領を得た。
- 貞治2年(1363)に近江国安吉保御厨(近江八幡市など)の領家職、応安2・3年(1369・1370)摂津国橘御園光貞名・雅楽寮領(兵庫県尼崎市など)の代官職を得た。
このほか、各地に佐藤氏が確認できる。
- 暦応2年(1339)東寺雑掌佐藤太右衛門尉が東寺領の摂津国豊島郡垂水荘(大阪府吹田市周辺)に摂津守護・赤松氏が入部するのを拒んだ。
- 康永2年(1343)・至徳3年(1386)には垂水荘住人に佐藤三が見え、同族か。
- 正平9年(1354)紀伊国伊都郡隅田南荘須河(和歌山県橋本市菅生)の住人に佐藤太郎。
- 応安6年(1373)東寺の西(京都市南区八条内田町周辺)の住人に佐藤次。
- 永和3年(1377)伴寺山(奈良市川上町)付近の住人に佐藤次。
- 嘉慶2年(1388)醍醐寺領(不詳)に佐藤氏。
室町時代
記録
室町幕府の引付衆(訴訟処理を担当)に佐藤氏の記録あり。
- 応永4年(1397)幕府の弓場始に佐藤総左衛門尉。
- 弓場始は年初に弓を射る儀式で、射手は番衆(幕府直属の武士)から選任された。佐藤氏が選ばれたのはこの年(1397)のみ。
- 当時、伊勢国一志郡や大和国葛上郡に拠点を移していた信夫佐藤氏の一族と思われるが、系図等に同名の記載はなく不詳。
- 14世紀半ばの室町幕府引付衆にも佐藤氏が見えるが、引付衆は訴訟を担当する文官である。
このほか、奉行人・引付衆に越前波多野氏、丹後松田氏、奉公衆・番衆に備前松田氏、外様衆・外様詰衆に越前波多野氏、備前松田氏
摂津国では摂津守護・細川氏被官に佐藤氏の記録あり。
- 応永26年(1419)摂津小守護代に佐藤新左衛門尉師恒。
- 永享5年(1433)・永享11年(1439)摂津国島下郡粟生村(箕面市粟生)の所領を勝尾寺に寄進した佐藤左兵衛尉頼清・佐藤小次郎家清。
- 文安1年(1444)摂津分郡守護・細川持賢の使者に佐藤因幡入道性通。
いずれも応安2年(1369)ごろに摂津国橘御園(尼崎市付近)の代官職となった信夫佐藤氏の子孫が細川氏に出仕したものと思われる。ただし、地理的には鎌倉時代から摂津国島下郡周辺に土着している佐藤氏とも取れる。
ほか、近江国の住人に「佐藤」の記録あり。
- 応永20年(1413)近江国西今村庄宝蔵寺地蔵田(彦根市地蔵町)に佐藤次。
伝承
信夫佐藤氏が大和国に所領を得たという。
- 明徳の乱(1391)と応永の乱(1399)の功績で佐藤左衛門尉満好・佐藤民部守好が、大和国葛上郡高天(御所市高天)に所領を得た。
- 同家の系図によれば、信夫庄司佐藤元治の次男治清の系統。この後も大和国葛上郡の小領主として活動するが、戦国時代に羽柴秀吉に攻められ美作国・備前国に移住・土着する(後述)。
- なお、伊勢国一志郡に移った信夫佐藤氏の総領家は元治の弟師泰の系統。
図2.南北朝・室町時代の近畿地方の佐藤氏の分布
戦国・安土桃山時代
- 大和
- 葛上郡(御所市)──高間城主
- 元亀3年(1572)に羽柴秀吉に敗れ、備前国・美作国に土着した。
- 葛上郡(御所市)──高間城主
- 和泉
- 日根郡(泉佐野市)──細川氏家臣
- 文亀2年(1502)和泉守護細川氏の被官に佐藤惣兵衛尉久信。
- 日根野荘をめぐって、根来寺衆(和歌山県岩出市)や紀伊守護畠山尚順、神於寺(大阪府岸和田市神於町)と結託し、和泉守護と闘争した。
- 江戸時代、日根郡佐野村(大阪府泉佐野市)を拠点とした豪商の唐金氏はもと佐藤氏との伝承があり、関連するか。
- 日根野荘をめぐって、根来寺衆(和歌山県岩出市)や紀伊守護畠山尚順、神於寺(大阪府岸和田市神於町)と結託し、和泉守護と闘争した。
- 文亀2年(1502)和泉守護細川氏の被官に佐藤惣兵衛尉久信。
- 日根郡(泉佐野市)──細川氏家臣
このほか以下の記録あり。
- 永正12年(1515)佐藤宗次入道の子又次郎が鴨社領出雲路(京都市)・江鳥小路(?)の押妨を停止させられた。
- 大永3年(1523)近江国伊香郡丹生郷(滋賀県米原市丹生)に土地を取得した佐藤介、大永3年(1523)伊香郡菅浦荘(滋賀県長浜市西浅井町菅浦)住人に佐藤五。
図3.戦国・安土桃山時代の近畿地方の佐藤氏の分布
江戸時代
- 近江──彦根藩
- 摂津──高槻藩
- 河内──狭山藩
- 紀伊──紀州藩