1. 佐藤氏の分流
  2. 山内氏(山内首藤氏)
分流編

山内氏(山内首藤氏)

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起源

首藤義通の子俊通が拝領した相模国鎌倉郡山内荘(神奈川県鎌倉市)に由来する。

展開

俊通の子経俊は,当初平家方についたため山内荘を没収されたが,経俊の母が源頼朝の乳母であった関係によって許され,相模国早河荘一得名(神奈川県小田原市)を拝領した。

さらに一族は,奥州合戦・承久の乱などの恩賞として,陸奥国桃生郡(宮城県石巻市),信濃国下平田郷(長野県松本市),摂津国富島荘(大阪市北区中津),備後国地毘荘(広島県庄原市)などの地頭職,伊勢・伊賀国の守護職を得た。

また,文永7年(1270)時点では,相模国,伯耆国にも所領があった〔『山内首藤家文書』〕。ほか,正確な史料はないが陸奥国大沼郡,越後国魚沼郡にも所領を得たという。

東北地方

陸奥国

桃生郡

俊通が奥州合戦の恩賞として桃生郡の北方を拝領したことを端緒とする。吉野村を拠点とした。永正9年に葛西宗清に攻められて滅んだ。

江戸時代の入谷村(南三陸町入谷)の山内甚左衛門は尾張国出身で,家康に仕えたあと来住したといい,その6世甚兵衛道恒は養蚕・製糸業で財をなして士族に列した。

会津地域

俊通の子のうち兄経俊が陸奥国大沼郡・越後国魚沼郡,弟俊通が桃生郡を与えられた〔『伊達正統世次考』〕。

戦国時代,横田中丸城(福島県大沼郡金山町横田)を拠点とした国人に山内氏がいた。正確な出自は不明。鎌倉時代に山内経俊の子通基が奥州合戦の恩賞として,陸奥国会津郡伊北・大沼郡金山谷を越後国魚沼郡とともに拝領したことに始まる説,室町時代に山内通俊が応永10年(1403)に大沼郡を拝領したことに始まる説がある。横田氏とも称した。

戦国時代の山内氏は蘆名氏に属し,蘆名氏が伊達氏に滅ぼされた後も,石田三成・上杉景勝らの援護を受けて抵抗を続けたが,奥州仕置で所領没収となって魚沼郡に移った。近世,会津地方の諸村の住人に山内氏多数あり。

関東地方

江戸幕臣の徒士組。出自不詳。

中部・北陸地方

伊勢国

桑名郡矢田城(桑名市矢田城山)は山内主計俊頼,勘解由左衛門俊行,半右衛門俊元と続いた。安芸国の山内首藤氏の出身で北畠氏に仕えた俊元が天正年間(1573-92)に矢田城を築き,矢田氏を称したという。

伊勢神宮内宮の神官にも山内氏あり。

越前国

室町幕府番衆。文安年間(1444-49)に山内掃部七郎・勘解由左衛門,宝徳年間(1449-52)ごろに山内孫六,長享1年(1487)に山内兵庫助貞通が見える。

初見は,観応1年(1350)敦賀郡野坂荘櫛川郷(敦賀市櫛川)地頭に山内重経〔『西福寺文書』〕。以後,山内氏は永享8年(1486)まで見える。

近畿地方

丹波・丹後国

船井郡橋爪に山内伊勢守通意,三ノ宮に山内甚右衛門・小太夫,竹野郡本庄・菅野に山内将監通倫。近世,天田郡友渕村の山内氏は氷上郡赤井氏の旧臣。河合村上河合にも山内氏。氷川郡大河村の山内氏は三ノ宮から来住したという。

摂津国

山内宗俊が承久の乱(1221)の恩賞として摂津国富島荘(大阪市北区中津)地頭職を得て,その後も子孫が継承したが南北朝の動乱を経て衰微した。

中国・四国地方

備後国・播磨国

山内重俊が承久の乱の恩賞として備後国地毗荘(広島県庄原市)地頭職を得た。山内氏の他の所領に比べ開発の余地が多かったため,積極的に庶子が送り込まれ,荘内の各盆地に定着して滑・竹内・黒杭・田原・懸田・川北・多賀(のち多賀山)などの地名を称した。

  • 正和5年(1316)には惣領山内通資も関東から拠点を移し,当初蔀山城(庄原市高野町新市),のち甲山城(庄原市本郷町)を拠点とした〔『芸藩通志』〕。
  • 元徳2年(1330)には所領の細分化を避けて単独相続制に改めることで惣領の権限を強化し,観応2年(1351)には一族一揆を結成して庶流の分立を牽制するなどして,一族の団結を高めて南北朝時代の動乱をやり過ごし,応安7年(1374)に三上郡永江荘・高郷の地頭職などを得た。
  • 応仁・文明の乱には備後守護山名氏の被官となり,国人衆の筆頭にまで成長したものの,その後は大内・尼子・毛利の諸氏に属し,近世は長州藩士として存続した。土佐藩主山内氏は庶流を自称した。
  • 弘安4年(1281)の備後国津田・敷名郷(世羅郡世羅町津田・三次市三和町敷名)の地頭に山内是通の子通茂。
  • 建武3年(1336)の津口荘賀茂郷(世羅町賀茂)の地頭に山内観西。
15世紀後半ごろ山内氏に与えられた所領〔『山内首藤家文書』〕
#給分等受給者発給者
1文安1年(1444)播磨枝吉(神戸市西区枝吉・王塚台)別符領家山内時通山名持豊(播磨守護)
2文安2年(1445)播磨桑原庄地頭職(たつの市揖西町)九分の二
3康正1年(1455)播磨餝東郡恒富保小原村(姫路市飾東町小原)など山内泰通
4文明16年(1484)ごろ播磨瑞光寺(兵庫県多可郡多可町中区門前)領など山内新左衛門尉山名政豊(但馬守護)
5文明16年(1484)播磨宇野荘(佐用郡佐用町の南西部)十分の二山内豊成
6文明16年(1484)播磨佐用郡時安本郷(佐用郡作用町須安)など
7文明17年(1485)播磨美囊郡細川荘(兵庫県三木市細川町)内の冷泉家領
8文明17年(1485)播磨餝東郡国衙荘印達南条(姫路市/八丈岩山の南麓)
9文明17年(1485)播磨佐用郡柏原(兵庫県佐用郡佐用町徳久)西方分一分
10延徳・明応(1489-1501)ごろ備後和智郷(三次市和知町),有福(府中市上下町有福)山名俊豊(備後守護)
11明応2年(1493)但馬城崎郡篠岡庄(兵庫県豊岡市大篠岡)など山内通久
12明応5年(1496)備後本郷・寺町(世羅町本郷・寺町)山内直通
13文亀2年(1502)備後山中郷(世羅郡世羅町山中)山内少輔三郎毛利弘元(安芸国人)

土佐国

土佐藩主の山内氏は,備後山内氏の庶流と伝えるが確証はない。

  • 家伝によれば,鎌倉時代に山内俊家と時俊の内紛が起こり,俊家が丹波国三宮(京都府船井郡瑞穂町)に転住し,その後,戦国時代の山内久豊のとき丹波(または阿波)から美濃を経て尾張に移り,岩倉織田氏に仕えて家老となり,羽栗郡黒田(愛知県一宮市木曽川町黒田)を拠点としたが,永禄2年(1559)織田信長に攻められ敗死した。孫一豊は母と流浪したのち,織田・豊臣氏を経て徳川氏に仕え,慶長8年(1603)より土佐藩主となった。
  • 以後,山内氏は明治維新まで藩主として存続した。

現代の分布

現代,松山市・西条市に多く,青森市や遠江・三河地域など,普遍的な地名であるために各地で多い。比率では青森県,宮城県北部,福島県会津地域,越前国,尾張国,丹波国で高い。

愛媛県の山内氏は久米郡山之内。

主な参考文献

  • 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
  • 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net
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