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歴史編

北海道の佐藤氏の歴史

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はじめに

この記事では,①北海道の佐藤氏の歴史を概説したあと,②具体的な記録や伝承を時代・場所ごとに分類した。記事の主な執筆方針は下表のとおりとする。

表1. 歴史編(地方別)の主な執筆方針
1対象とする時代平安から安土・桃山時代を中心とし,江戸時代以降は主要な人名以外は載せない。
2場所の記述・分類方法平安から江戸時代まで用いられた国・郡による。
3人名の表記原則「名字+実名」で表記し,通称や法名などは[ ]内に載せる
通称等のみ判明[ ]を使用せずに「名字+通称」で表記する。
通称等も不明「佐藤氏」とする。
4信用性信用できる記録等「……した」などと断定で終える。
信用できない伝承等「……との伝承がある」,「……と伝える」,「……という」などの表現で終える。
5出典文末・文中で〔 〕により資料名を示す。
当サイト全般の方針は別記「凡例」のとおりとし,参考文献は「参考文献一覧」に掲載する。

概要

北海道は,全国で4番目(16万人)に佐藤氏の多い都道府県で1,そのほとんどが明治年間以降の入植者である。

江戸時代以前の北海道地方(蝦夷地)の佐藤氏については,室町時代末期から続く松前藩士の佐藤家や幕末の寿都郡の漁家の佐藤家の事績が明らかになっているにとどまる。

以下では,室町時代末期に安東氏家臣として蝦夷地に渡り,江戸時代は松前藩士として続いた佐藤家を中心に扱う。

南北朝時代以前

佐藤氏の記録・伝承はない。

室町時代

  • 長禄年間(1457-60),安東氏家臣の佐藤季行[彦助]・季則[三郎兵衛,左衛門尉]父子が,安東氏に従って蝦夷地に渡り,上磯郡中野(上磯郡木古内町中野)に中野館を築いて拠点としたとの伝承がある。同家の所領は,上磯郡知内村湧元村小谷石村(以上,上磯郡知内町)にあったと伝える〔『佐藤一族』,『函館市史』〕。

江戸時代,松前藩士であった佐藤家の伝承による。

中野館を含む安東氏家臣らの蝦夷地の拠点を総称して「道南十二館」と呼ぶ(後述)。この館主らのうち,コシャマインの戦い(1457-58)を経て力をつけた花沢館・主蠣崎氏は,安東氏に代わって蝦夷地での地位を確立し,佐藤氏ら他の館主はこれに従って戦国時代を迎えた。

補足
安東氏
安東氏は,中世の陸奥国・出羽国の北部の豪族。15世紀後半ごろは陸奥国糠部郡の南部氏の勢力に圧され,蝦夷地に撤退していた。
補足
佐藤季行らの出自
佐藤季行・季則父子の出自は不詳である。当時の津軽地域には,浪岡北畠氏家臣の佐藤氏がいるものの,季行らとの関連は明らかでない。特に,安東氏家臣は,安東氏が海上交易で栄えたこともあり,下総相原氏,伊予河野氏,若狭武田氏,信濃村上氏などと出自が多様で,出身地域を特定することが難しい。したがって,地理的には津軽郡・糠部郡をはじめとした東北地方の佐藤氏の一流と見るのが自然であるが,安東氏家臣である点を踏まえるとさらに遠方から来住した可能性も考えられる。

戦国・安土桃山時代

佐藤季行・季則父子の子孫が蠣崎氏の家臣として続いた。佐藤氏は,家臣の中でも比較的重要な地位にあった。季行の孫・季元は,蠣崎氏5代当主・蠣崎季広(1507-1595)の娘を妻に迎えている。

江戸時代

松前藩

蠣崎氏(のち松前氏)家臣の佐藤氏が松前藩の重臣として続いた。シャクシャインの戦い(1669)は,佐藤権左衛門の謀略によって終結に向かったという2。所領は,松前周辺のほかに,江戸時代後期に勇払郡浜ムカワ・下ムカワ,末期に亀田郡,千歳郡にあった3

寿都郡

松前藩佐藤家の人物以外では,幕末から明治年間にかけての商人佐藤伊三右衛門(1826-1895/栄右衛門)が著名である。伊三右衛門は,陸奥国信夫郡飯坂村(福島県福島市)の出身で,嘉永2年(1849)松前枝ヶ崎町(松前城の南東)に来住したのち,歌棄・磯谷(寿都郡寿都町)でのニシン漁で財を築いた45

東京時代

明治・大正年間

1870年代から明治政府により北海道への移住・開拓が推進され,道外から多くの佐藤氏が流入した。当初の移住者は東北地方の士族が中心であったが,次第に東北地方・北陸地方の平民が増えていった。

著名な人物は下記のとおり。どちらも東北地方の士族の系統である。

明治・大正年間の著名な佐藤氏
佐藤孝郷(1850-1922)
白石村(札幌市白石区中央)の開拓を主導した。陸奥国刈田郡白石(宮城県白石市)出身で,白石藩(仙台藩支藩)家老の家系。
佐藤昌介(1856-1939)
北海道帝国大学初代総長。陸奥国稗貫郡里川口村(岩手県花巻市)出身で,盛岡藩士の家系。

昭和年間

雪印乳業初代社長(1950年設立)を務めた佐藤貢(1898-1999)は,山鼻村(札幌市中央区・南区の一部)の屯田兵佐藤善七の長男である。

図1.現代の北海道の佐藤氏の分布

現代の北海道の佐藤氏の分布

附録

道南十二館

道南十二館は,14・15世紀ごろの渡島半島南端にあった和人による館(小規模な城砦)の総称で,正確には12以上あった。蝦夷地に進出した安東氏家臣らが,交易・支配の拠点とした。

表1.コシャマインの戦い(1457)時点の道南十二館と館主一覧
館名館主比定地出身地
志苔館小林良景函館市志海苔町・赤坂町山城
宇須岸館河野政通函館市元町加賀
茂別館安東家政北斗市矢不来陸奥
中野館佐藤季則上磯郡木古内町中野
脇本館南条季継上磯郡知内町涌元
穏内館蒋土季直松前郡福島町館崎出羽
覃部館今井季友松前郡松前町東山
大館安東定季
相原政胤
松前郡松前町神明・福山陸奥
禰保田館近藤季常松前郡松前町館浜若狭
原口館岡辺季澄松前郡松前町原口武蔵
比石館厚谷重政檜山郡上ノ国町石崎下野
花沢館蠣崎季繁檜山郡上ノ国町上ノ国若狭,下野
「函館市/函館市地域史料アーカイブ」を元に作成した。「出身地」は館主自身またはその先祖の居住国を指す。安東氏を除き,家伝等による自称であって確証はない。

館主らの出身は多様で,東北地方のほかに,北陸・関東・近畿地方の出身者もいる。名字に着目しても,蠣崎(青森県むつ市川内町)と蒋土(青森県つがる市菰槌)を除けば,周辺の地名らしいものはない。

松前藩佐藤家の系図

以下は,松前藩士の佐藤家の系図である。嫡流(左の系統)は安東氏家臣時代以来の「季」を通字としている。

佐藤唯則(男破魔)は,水戸藩士永井源兵衛の次男で,嘉永1年(1848)に松前藩に至り,佐藤家を相続した。当初,佐藤季直(直次郎)と称し,のち唯則に改めた。箱館戦争(1868-69)には,子破魔児とともに参戦した。

参考文献


  1. 「佐藤氏が多い都道府県ランキング【人口と割合】」(佐藤氏の研究) ↩︎

  2. シャクシャインの戦い(1669)は,松前藩とアイヌの首長シャクシャインとの戦い。松前藩家老・佐藤権左衛門は,和解を装い,シャクシャインらを招いて酒宴を開催したあと,その宿所となっていた小屋に火を放った上で斬りつけ,シャクシャインを含む幹部14人を殺害した。このことが決定打となり,戦争は終結に向かった〔『比布町史』,『新千歳市史』など〕。 ↩︎

  3. 享保12年(1727)勇払郡浜ムカワ(勇払郡むかわ町)に佐藤孫左衛門,天明年間(1781-1789)・寛政4年(1792)下ムカワ(勇払郡むかわ町)に佐藤東馬の所領があり,幕末には亀田郡(七飯町・北斗市・函館市周辺)に佐藤権左,勇払郡に佐藤求馬,ほか千歳郡(千歳市・恵庭市)に所領があった〔村岡檪斎『日本地理志料』東陽堂,1903〕。 ↩︎

  4. 当時の漁場は「旧歌棄佐藤家漁場」(寿都郡寿都町)として2016年に国史跡に指定された。 ↩︎

  5. 子の栄右衛門(1862-1917/幾太郎)は寿都銀行頭取,北海道会議員などを経て,1915年から衆議院議員を務めた。 ↩︎

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