概要
詳細
前提(藤で終わる名字の起源)
佐藤をはじめ、伊藤、加藤、斎藤などの藤で終わる名字は、平安時代後期の軍事貴族(軍事を専門とした下級貴族で武士の原型の一つ)の藤原氏に特徴的な名字で、氏祖の官職名と氏族名の藤原を縮約した呼称である。
起源にまつわる諸説
佐藤氏の起源(氏祖・意味)を示す確実な史料はなく、諸説ある。そのうち、最も有力な説は、佐渡守藤原公行に因むとする説である。
- A. 左衛門尉藤原公清説
- 有力説の一つ。『寛政重修諸家譜』(1812年成立)の記述などに基づく。【批判1】 「左衛門尉」に由来するのであれば「左藤」と表記される方がより自然である。【批判2】 公清の子孫だけでなく、公清の兄弟の子孫も佐藤氏を称しているため、公清よりも公清の父(公光)を氏祖とする方が自然である。
- B. 佐渡守藤原公清説
- 有力説の一つ。『伊達世臣家譜』(1792年成立)をはじめ東北地方の武家の系図の記述に基づく。【批判1】 藤原公清が「佐渡守」に任じられた記録がない。【批判2】 A説の批判2に同じ。
- C. 下野国安蘇郡佐野の藤原氏説
- 俗説。『姓氏家系大辞典』(1936年成立)に掲載された「異説」、藤原秀郷が佐野を拠点とした説に基づくか。【批判1】 当説はあくまで「異説(=通説とは異なる説)」という扱いであるし、当時(平安時代末期)の佐藤氏が安蘇郡佐野と関わりのあったことを示す史料はない。【批判2】 佐野を拠点としたのは、秀郷ではなく、秀郷の子孫を称した佐野氏である。
- D. 佐渡守藤原公行説
- 現状、最も有力な説。当時の日記や役人の名簿、他氏の系図などの比較に基づく。【批判】 間接的な推定に過ぎず、佐渡守藤原公行に因むことを直接示すものではない。
佐渡守公行説の根拠
鎌倉時代以前に成立した史料中で佐藤氏を称した確かな記録のある人物を系図に落とし込むと、下図(図1)の通りになる。これに従うと、公清の兄弟の子孫も「佐藤」を称しているから、佐藤氏が公清を起点とする一族ではない(むしろ公清の父以前の人物を起点とする)ことがわかる。
そして、公清やその父公光が「佐」を含む官職に補任された記録はない1が、祖父公行は「佐渡守」に補任された確実な記録(当時の日記2)がある。
よって、佐藤氏の祖は藤原公行と考えるのが妥当である。
図1.佐藤を称した記録のある人物(★)
- 佐渡守公行
- 相模守公光
- 左衛門尉公清
- 季清
- 康清
- 仲清
- ★能清
- ★義清
- 仲清
- 康清
- 公郷
- 清郷
- 公広
- 有清
- 公広
- 公明
- 明兼
- 明時
- ★業時
- ★業連
- ★業時
- 明時
- 明兼
- 清郷
- 季清
- 経範
- 経秀
- 秀遠
- 遠義
- 義通
- 高義
- ★盛高
- 高義
- 義景
- 信景
- ★広能
- 信景
- 家通
- 家光
- ★家将
- 家光
- 義通
- 遠義
- 秀遠
- 経秀
- 公季
- 公助
- □□
- □□
- ★元治
- ★継信
- ★忠信
- ★元治
- □□
- 文郷
- 光郷
- ★朝光
- 光郷
- □□
- 公助
- ★明算
- 左衛門尉公清
- 相模守公光
「鎌倉時代以前の佐藤氏の系譜的位置関係」より抜粋。「佐藤」が藤原公清の子孫に限定されないことがわかる。
参考文献
- 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-36)
- 野口実『中世東国武士団の研究』(高科書店,1994)
- 野口実『伝説の将軍:藤原秀郷』(吉川弘文館,2001)
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公清の官職で確実なものは「右兵衛少尉」(『大間成文抄』長久元年内給)、「左衛門大夫」(『水左記』永保元年10月14日条)、「伊豆守」(『江都督納言願文集』)。14世紀末成立の『尊卑分脈』には「左衛門尉」「検非違使」とある。『伊達世臣家譜』(1792年成立)など、東北地方の系図には佐渡守もしくは佐渡守と越後守を兼任したという記述があるが確証はない。また、父公光も「佐」を含む官職に補任された記録はない。 ↩︎
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公行が「佐渡守」であったことを示す記述は「於左仗座被下左渡勘申宣旨公行任」(『左経記』万寿3年12月5日条)、「前佐渡守公行」(『小右記』万寿4年2月26日条・長元1年8月8日条)などがある。特に『左経記』には佐渡守在任時の事績を源経頼が高く評価していたこと(長元4年6月27日条)や「佐渡守」が生前最後の官職であったこと(長元6年5月2日条)が記録されている。 ↩︎