1. 佐藤氏の歴史
  2. 関東地方の佐藤氏の歴史
歴史編

関東地方の佐藤氏の歴史

公開
更新

はじめに

この記事では,①関東地方の佐藤氏の歴史を概説したあと,②具体的な記録や伝承を時代・場所ごとに分類した。記事の主な執筆方針は下表のとおりとする。

表1. 歴史編(地方別)の主な執筆方針
1対象とする時代平安から安土・桃山時代を中心とし,江戸時代以降は主要な人名以外は載せない。
2場所の記述・分類方法平安から江戸時代まで用いられた国・郡による。
3人名の表記原則「名字+実名」で表記し,通称や法名などは[ ]内に載せる
通称等のみ判明[ ]を使用せずに「名字+通称」で表記する。
通称等も不明「佐藤氏」とする。
4信用性信用できる記録等「……した」などと断定で終える。
信用できない伝承等「……との伝承がある」,「……と伝える」,「……という」などの表現で終える。
5出典文末・文中で〔 〕により資料名を示す。
当サイト全般の方針は別記「凡例」のとおりとし,参考文献は「参考文献一覧」に掲載する。

平安時代

下野国

佐藤氏の先祖は,10世紀前半から半ばごろの下野国の豪族・藤原秀郷である〔「尊卑分脈」,「江都督納言願文集」,「吾妻鏡」など〕。

関連
佐藤氏佐野由来説について

佐藤氏の起源について「藤原秀郷が安蘇郡佐野(佐野市周辺)を領したため」とする説〔『新編姓氏家系辞書』,『日本姓氏事典』など〕があるが,かなり疑わしい。そもそも,秀郷が佐野を拠点としていたかどうかが明らかでない〔「藤原秀郷」〕。また,仮に秀郷の拠点が佐野にあったとしても,佐藤氏を称した一族は,秀郷の子孫のうち関東を離れて京都や紀伊国を拠点とした一族であって,佐野との関係はない〔「佐藤氏の歴史」〕。

むしろ,加藤氏や斎藤氏,近藤氏などと同様に,氏祖の官職名由来と見るのが妥当で,佐藤氏の場合は,共通の祖先である藤原公行の官職名「佐渡守」に由来すると考えられる〔『中世東国武士の研究』,「佐藤氏の起源」〕。

相模国

11世紀半ばごろの余綾郡波多野荘(神奈川県秦野市)の領主・佐伯経範は,佐藤氏の祖・藤原公行の実子の公光の養子となり,藤原公俊と改めた。経範(公俊)の子孫は波多野氏を称し,以後鎌倉時代にかけて,余綾郡のほか,足柄下郡・足柄上郡に展開した〔以上,「尊卑分脈」〕。

確証はないが,藤原公光は相模守であったとされ〔「尊卑分脈」〕,佐藤氏と佐伯氏との関係はその縁によるものと考えられる。

その他

佐藤氏の始称は,早く見積もっても11世紀前半ごろであるが〔「佐藤氏の起源」〕,それ以前の佐藤氏の伝承が上野国と相模国にある。

  • 戦国時代の上野国群馬郡(群馬県高崎市)の箕輪城主長野氏の家臣佐藤氏の先祖は,9世紀ごろ長野氏とともに在原業平[825-880]に仕え,山城国(京都府)から来住したと伝える〔『角川姓氏』〕。
  • 足柄下郡宮上(神奈川県足柄下郡湯河原町宮上)の佐藤氏の先祖は,安和年間(968-70)に大和国(奈良県)から来住した佐藤信忠[秀之允]と伝える〔「相模国風土記稿」,『角川姓氏』〕。

どちらもその移住の年代があまりに古く信用できない。戦国時代から江戸時代ごろの創作と思われる。

鎌倉時代

図2.鎌倉時代の関東地方の佐藤氏の分布

鎌倉時代の関東地方の佐藤氏

」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。その他の記号等については「凡例#歴史編の分布地図」参照。

鎌倉幕府関係者

京都を拠点としていた佐藤氏流1のうち,藤原公郷や公季の系統である佐藤氏・伊賀氏・後藤氏らは,幕府の重役に任じられた。その出自のために京都での職(京都守護,六波羅評定衆など)が多く,また,歌人としての活動も見られるなど,幕府においては京都の公家と鎌倉の武家の中間的な存在であった。

鎌倉幕府重役の佐藤氏流(一覧)

評定衆,引付衆,守護,六波羅評定衆,六波羅引付衆などとして記録のある佐藤氏流の人物は下表のとおりである。

人物活動時期主な職
佐藤氏佐藤業時中期評定衆
佐藤業連後期評定衆
伊賀氏伊賀朝光前期北条義時義父
伊賀の方前期北条義時側室
伊賀光季前期京都守護
伊賀光宗前期政所執事,評定衆
伊賀光政中期引付衆,六波羅評定衆
伊賀光泰中期評定衆
後藤氏後藤基清前期播磨・讃岐守護
後藤基綱中期評定衆,引付衆,越前守護
後藤基政中期引付衆,六波羅評定衆
後藤基隆中期六波羅評定衆
後藤基頼後期引付衆,六波羅引付衆,越前守護
後藤基雄後期越前守護
波多野氏波多野義重中期六波羅評定衆
山内氏山内経俊前期伊勢守護
評定衆と引付衆,守護,政所執事は『日本史総覧』,六波羅評定衆と六波羅引付衆は「尊卑分脈」,その他は「吾妻鏡」による。活動時期の区別については,厳密なものではなく,概ね「前期」を承久の乱(1221)以前,「後期」を弘安の役(1281)以後とした。

佐藤業時・業連について

上表のうち,単に佐藤氏を称したのは佐藤業時・業連の父子のみである。業時らの先祖は藤原公郷で佐藤氏流後藤氏と同じ系統であるが,子孫については業連から3代続いた後は不明である〔「後藤系図」/『群書系図部集』〕。

その他

  • 元弘3年(1333),北条得宗家の被官に佐藤宮内左衛門尉〔「伊勢光明寺残篇」/『鎌倉遺文』32135〕

佐藤業時・業連らの同族と思われる。

下野国

  • 13世紀半ばごろ,足利郡(栃木県足利市)出身の佐藤信綱が,陸奥国刈田郡(宮城県刈田郡)に移住したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

上野国

勢多郡

  • 康暦3年(1381),勢多郡上泉(前橋市上泉町)の住人に佐藤太郎〔「長楽寺文書」,『群馬県史』,『角川地名』〕

吾妻郡

  • 鎌倉時代,陸奥国出身の佐藤氏が,吾妻郡五町田(吾妻郡東吾妻町五町田)を開拓して土着したとの伝承がある。先祖は佐藤継信の子・経信という〔『角川姓氏』〕。

五町田南沢(東吾妻町五町田南沢)の墓地には,文永年間(1264-1275)の板碑や応永6年(1409)の五輪塔が現存する。また,五町田の下流にあたる群馬郡小野子宮原(渋川市小野子宮原)でも,先祖を継信とし,その子孫・信久を来住初代(年代不詳)とする伝承がある〔以上,『角川姓氏』〕。

「経信」の名前については,当地だけでなく,出羽国飽海郡・村山郡(山形県)の系図,常陸国多賀郡(茨城県)での伝承にも所見がある。このうち,村山郡・多賀郡では,ともに南朝に従ったと伝える。また,村山郡の系図は,「経信」を忠信の子とするが,その弟・基信の3代後に「信久」の名を載せる〔以上,『佐藤一族』〕。

碓氷郡

  • 源義経の東国落ち(1185-89ごろ)の際に,源義経の家臣の佐藤氏が碓氷郡鷺宮(安中市鷺宮)に土着したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

下総国

  • 元亨1年(1321),結城郡西毛呂郷(茨城県結城市)の住人に左藤四郎〔「金沢文庫文書」/『金山神社』27757〕

武蔵国

  • 12世紀末,佐藤清綱が入間郡入間郷(埼玉県狭山市入間川周辺)に所領を得たが,その後,子・基春が承久の乱(1221)で失脚した大江氏(のち寒河江氏)に従って出羽国村山郡(山形県西村山郡)に移住したとの伝承がある〔『寒河江市史』〕。

相模国

愛甲郡

  • 13世紀ごろ,甲斐国出身の佐藤氏の3兄弟が,相模国に来て,それぞれ愛甲郡津久井(相模原市緑区)・六倉半原(愛甲郡愛川町中津・半原)に土着したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

足柄上郡

  • 承久の乱(1221)の幕府軍に沼田佐藤太〔「吾妻鏡」〕。

「沼田佐藤太」については,相模国御家人の波多野氏のうち足柄上郡沼田(南足柄市沼田)を本貫とした系統(沼田氏)と思われる2

南北朝・室町時代

図3.南北朝・室町時代の関東地方の佐藤氏の分布

南北朝・室町時代の関東地方の佐藤氏

」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。その他の記号等については「凡例#歴史編の分布地図」参照。

常陸国

  • 元中7年(1390),南朝の北畠氏遺臣・佐藤忠歳[式部少]と忠久が,北朝の佐竹氏のもとに投降し,多賀郡油縄子(日立市鮎川町)に所領を得て土着した〔「佐竹家軍譜」,『佐藤一族』〕。
  • 明徳1年(1390),佐竹氏家臣・佐藤秀信[右馬亮]が,多賀郡成沢(日立市東成沢)に小豆洗館を築いて居城とした〔「小豆沢不動尊の由来」〕。

南朝の北畠氏遺臣と伝える佐藤氏の子孫は,多賀郡(茨城県日立市)のほかに,陸奥国津軽郡(青森県),出羽国比内郡(秋田県)・村山郡(山形県),豊後国大分郡・速見郡(大分県)などにある。

上野国

邑楽郡

  • 14世紀後半ごろ,伊勢国出身で南朝の楠木氏遺臣の佐藤氏が,邑楽郡小泉(邑楽郡大泉町小泉)に土着した〔『角川姓氏』〕。

甘楽郡

  • 長禄1年(1457),佐藤真信が,越後国魚沼郡(新潟県魚沼市)から上野国内に来住して,甘楽郡国嶺(甘楽郡甘楽町国峰)の国峰城主・小幡氏に仕えたとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。

武蔵国

入間郡

  • 応永32年(1425),入西郡鹿下(埼玉県入間郡越生町鹿下)周辺の住人に佐藤太郎入道〔「報恩寺年譜」/『埼玉県史』〕

久良岐郡

  • 正平年間(1346-1370),「源家の遺臣」の佐藤氏が,久良岐郡本牧(神奈川県横浜市中区本牧町・本郷町)周辺に来住したとの伝承がある〔『横浜市誌』,『角川姓氏』〕。

『横浜市誌』に記載がある。同書では,「源家の遺臣」とあるが,「源家」(源氏将軍)はすでに建保7年(1219)に途絶えているから,源氏が樹立した旧幕府に仕えていた御家人というような意味合いと思われる3

相模国

  • 文和1年(1352),陸奥国信夫郡(福島県福島市)出身の佐藤基清[兵衛尉]が,大住郡豊部郷(伊勢原市)内の地頭代に任じられた〔「伊勢佐藤文書」/『大日本史料』〕。

戦国・安土桃山時代

図4.戦国・安土桃山時代の関東地方の佐藤氏の分布

戦国・安土桃山時代の関東地方の佐藤氏

」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。その他の記号等については「凡例#歴史編の分布地図」参照。

常陸国

多賀郡

  • 16世紀,多賀郡宮田・油縄子・成沢(日立市宮田町・鮎川町・東成沢)に,佐竹氏家臣の佐藤氏の居所があった。佐竹氏が出羽国秋田(秋田県秋田市)への減封・移封(1602)に際しては,これに従った系統と常陸国内に残って帰農する系統に分かれた〔『佐藤一族』〕。

なお,佐竹氏移封後は,寛永10年(1633)に出羽国村山郡(山形県)の最上氏庶流の山野辺氏が入り,多賀郡助川(日立市助川町)の助川城を拠点とした。これに従って,村山郡村木沢(山形県山形市村木沢)の佐藤氏が城南(日立市城南町)に来住している。

久慈郡

  • 16世紀後半ごろ,久慈郡小中(常陸太田市小中町)に,岩城氏家臣の佐藤氏の居所があった〔『佐藤一族』〕。
  • 16世紀前半,佐藤若狭守が出羽国村山郡大石田(山形県北村山郡大石田町大石田)から久慈郡太田(常陸太田市)に来住した後,長尾氏に従って鹿島郡大貫文(大洗町大貫文町)に所領を得たとの伝承がある。先祖は佐藤忠信という〔『佐藤一族』〕。

吉田郡

  • 文禄4年(1595),佐竹氏家臣の佐藤氏が,吉田郡山本郷(水戸市?)内に所領を与えられた〔『角川地名』〕。

下野国

  • 16世紀末ごろ,陸奥国会津郡(福島県会津若松市)の蘆名氏に仕えた佐藤氏が,摺上原の戦い(1589)で敗れたあと,蘆名氏の縁戚の宇都宮氏を頼って下野国に来て,芳賀郡上稲毛田(芳賀町上稲毛田)で帰農した〔『佐藤一族』〕。
  • 永禄13年(1570),埼玉郡羽生(埼玉県羽生市)の羽生城主・広田氏の家臣の佐藤氏が,安蘇郡羽根田郷(佐野市羽田)と飯富郷(不詳/上野国邑楽郡?)に所領を得た〔「歴代古案」,『群馬県史』,『角川地名』〕。

上野国

勢多郡

  • 天文年間(1532-1555),佐藤主膳が勢多郡山上(桐生市新里町山上)での合戦で討死した〔『角川姓氏』〕。

群馬郡

  • 永禄1年(1558)の群馬郡箕輪(高崎市箕郷町)の箕輪城主・長野氏の家臣に佐藤忠助,佐藤加七,佐藤文七がいて,箕輪城落城(1566)後は群馬郡下芝(高崎市箕郷町下芝)に土着した〔『角川姓氏』〕。

吾妻郡・群馬郡・勢多郡

  • 16世紀半ばごろ,斎藤氏家臣に,吾妻郡折田(吾妻郡中之条町折田)の仙蔵城(別名・内山城)主・佐藤将監[折田将監,斎藤将監]がいた。斎藤氏没落(1563)後は武田氏に仕えて,群馬郡塚越(高崎市箕郷町矢原塚越),勢多郡宮之前在家(渋川市北橘町箱田宮之前)などに所領を得た。武田氏没落(1587)後,子・佐藤軍兵衛[折田軍兵衛]は真田氏に仕えた〔『角川姓氏』〕。

吾妻郡・片岡郡

  • 16世紀後半ごろ,武田氏家臣の佐藤与四郎が,吾妻郡上野沢(吾妻郡東吾妻町大柏木上の沢)に居住したとの伝承がある。その後,子・治部少輔は,永禄6年(1563)に所領を得て片岡郡寺尾館(高崎市寺尾町)に居住した。この一族は高崎藩士となり,本流は寺尾館で続いたが,一部は藩主・井伊氏の近江彦根藩(滋賀県彦根市)への移封(1601)に従った〔『角川姓氏』〕。

碓氷郡

  • 天文年間(1532-1555)に佐藤一純が,碓氷郡坂本(安中市松井田町坂本)の有力者の娘と結婚し,以後,坂本八幡宮(同前)の神職を務めたとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
  • 天正13年(1585),北条氏の伝馬役に碓氷郡坂本(安中市松井田町坂本)の佐藤氏〔「坂本郷文書」,『安中市誌』,『角川地名』〕

甘楽郡

  • 16世紀前半ごろ,佐藤織部[1534没]らが,甘楽郡下高田(富岡市妙義町下高田)を開拓したとの伝承がある〔『角川姓氏』〕。
  • 16世紀後半ごろ,甘楽郡諸戸(安中市妙義町諸戸)に佐藤氏がいた〔『角川姓氏』〕。

当家の伝承によれば,年代不詳であるが,先祖は3兄弟で,長男が甘楽郡諸戸の木戸(安中市妙義町諸戸木戸)を開拓し,次男が甘楽郡矢川(下仁田町西野牧矢川)に,三男は碓氷郡入山(安中市松井田町入山)に居住したという。

下総国

  • 文明11年(1479),武蔵国入間郡川越(埼玉県川越市)の川越城主の太田氏家臣・佐藤五郎兵衛が,印旛郡臼井(佐倉市臼井田付近)の臼井城で戦死した〔「鎌倉大草子」,『佐藤一族』〕。
  • 16世紀初頭ごろ,印旛郡佐倉(印旛郡酒々井町本佐倉)の佐倉城主・千葉氏の家臣に佐藤内膳〔『佐藤一族』〕

安房国

  • 天正10年(1582),長狭郡長狭村小町(鴨川市北小町・南小町)の住人に佐藤弥太郎〔「千葉県史料」,『角川姓氏』〕

武蔵国

榛沢郡

  • 16世紀,榛沢郡深谷(埼玉県深谷市本住町)の深谷城の上杉氏家臣に佐藤弥兵衛,佐藤二郎九郎〔「深谷記」〕

埼玉郡

  • 永禄12年(1569),埼玉郡羽生(埼玉県羽生市)の羽生城主・木戸氏の家臣に佐藤筑前守がいて,永禄13年(1570),羽生城主・広田氏のときには,下野国安蘇郡(栃木県佐野市)と飯富郷(不詳/群馬県館林市・邑楽郡?)に所領を得た〔「歴代古案」,『群馬県史』,『角川地名』〕。
  • 16世紀末ごろ,埼玉郡忍(埼玉県行田市)の忍城の成田氏家臣に佐藤五郎右衛門,佐藤九郎右衛門,佐藤丹後,佐藤左門〔『成田分限帳』〕

横見郡

  • 天正18年(1590),横見郡松山(埼玉県比企郡吉見町南吉見)の松山城主・上田氏の家臣に佐藤新衛門,佐藤九之丞〔「天正庚寅松山合戦図」〕

多摩郡

  • 永禄3年(1560)ごろ,美濃国加茂郡(岐阜県)出身で斎藤氏遺臣の佐藤氏の一族が,多摩郡日野(東京都日野市日野本町)と相模国愛甲郡(神奈川県相模原市緑区)とに分かれて土着したとの伝承があり,永禄10年(1567)には日野用水の開削事業に従事したという〔『佐藤一族』〕。
  • 16世紀末,相模国足柄下郡(神奈川県小田原市)の小田原城主の北条氏家臣・佐藤助十郎は,天正18年(1590)に北条氏の支城の八王子城(東京都八王子市)が陥落した後,生き残った家臣とともに多摩郡成木(東京都青梅市成木1丁目から7丁目)に移った後,多摩郡北小曽木(成木8丁目)に移住し,石灰製造業を創始したとの伝承がある〔「武蔵風土記稿」,『佐藤一族』〕。

北小曽木(青梅市成木8丁目)にある佐藤助十郎とその妻の墓(佐藤塚)は,現在,青梅市指定史跡となっている。ただし,同家はすでに断絶している。

都筑郡

  • 16世紀末,都筑郡久保(神奈川県横浜市緑区三保)に佐藤三郎兵衛が居住していたとの伝承がある。小田原合戦(1590)後,三河国出身の苅屋氏の身柄を預かり,その後,娘を苅屋氏の妻とし,三郎兵衛自身も苅屋氏に改めたという〔「武蔵風土記稿」,『角川姓氏』〕。

相模国

愛甲郡

  • 永禄3年(1560)ごろ,美濃国加茂郡(岐阜県)出身で斎藤氏遺臣の佐藤氏の一族が,愛甲郡佐野川・牧野(相模原市緑区佐野川・牧野)と武蔵国多摩郡日野(東京都日野市)に分かれて土着したとの伝承がある〔『佐藤一族』,『角川姓氏』〕。
  • 天正11年(1583),美濃国武儀郡出身の佐藤氏の一族が愛甲郡佐野川(相模原市緑区佐野川・牧野)に来住した〔『佐藤一族』,『角川姓氏』〕。

高座郡

  • 16世紀初めごろ,北条氏家臣で,伊豆国加茂郡大見(伊豆市柳瀬周辺)の佐藤四郎兵衛が,高座郡堤(茅ヶ崎市堤)に所領を得た〔『角川地名』〕。
  • 16世紀末,高座郡上溝(相模原市中央区上溝周辺)の領主に佐藤氏がいた。文禄2年(1593)には,佐藤対馬,佐藤平次左衛門,佐藤太郎左衛門などがいて,慶長年間(1596-1615)には佐藤対馬が秀珍山宝光寺(上溝7丁目)を開創した〔『角川姓氏』〕。

大住郡

  • 長享2年(1488),大住郡大山(伊勢原市大山町)の大山寺の僧兵・佐藤助太郎が,相模守護の上杉氏に従って高見原の戦いに従軍し,戦功を挙げた〔『角川地名』〕。
  • 天正17年(1589),大住郡丸島に佐藤木工〔「天正十七年駒形権現社棟札」,『角川姓氏』〕
  • 16世紀末,愛甲郡(相模原市緑区)の津久井城主・内藤氏の家臣に,大住郡須賀(平塚市千石河岸・札場町・幸町周辺)の佐藤伝左衛門がいて,小田原合戦(1590)で戦功を挙げた〔『角川姓氏』〕。
  • 16世紀末ごろ,大住郡富岡・糟屋(伊勢原市西富岡・東富岡・上粕屋・下粕屋)周辺に佐藤氏がいた〔「寒川町史研究」,『角川姓氏』〕。

足柄上郡

  • 天正7年(1579),足柄上郡中川村(神奈川県足柄上郡山北町中川)の佐藤藤左衛門が,武田氏領の大久保村(山梨県道志村大久保?)の百姓の夜襲を受けて討死し,後日,佐藤六郎右衛門らが,北条氏にその時の状況を尋ねられたとの伝承がある〔「相模国風土記稿」,『角川姓氏』〕。

足柄下郡

足柄下郡宮上(足柄下郡湯河原町宮上)の佐藤家には,武田氏に仕え,甲斐国八代郡黒駒・都留郡吉田(山梨県笛吹市・富士吉田市)に所領があったとの伝承がある〔「相模国風土記稿」〕。当家が,宮上に来住した時期については,「安和年間(968-70)」と伝えるのみで信用できないが,武田氏に仕えていたことからすると,武田氏の没落(1582)以降か,武田氏の遺臣が仕えた北条氏の没落(1590)以降であると思われるが検討を要する。

江戸時代

江戸幕府の旗本には,美濃国加茂郡出身の佐藤氏の系統がいたほか,関東出身の佐藤氏の記録もある。

佐藤氏の藩士が確認できる藩

東山道上野高崎藩,小幡藩
東海道常陸水戸藩
下総一宮藩,佐倉藩
武蔵忍藩,川越藩,岩槻藩,岡部藩
相模小田原藩

佐藤一斎・佐藤信淵

19世紀前半には,美濃国岩村藩出身の儒学者・佐藤一斎,出羽国雄勝郡出身の思想家・佐藤信淵が出て,幕末期の思想を形成した。

  • 佐藤一斎は,戦国時代の美濃国武儀郡上有知(岐阜県美濃市)の鉈尾山城主の系統で,江戸時代は代々岩村藩家老を務めた家系。江戸では,昌平坂学問所塾長を務めた。門下に渡辺崋山,佐久間象山,門人に安積艮斎,中村正直,横井小楠らがいる。
  • 佐藤信淵は,横手盆地(秋田県の南西部)に散在した戦国時代の小野寺氏家臣の系統。信淵の提唱した神道に基づく社会主義的統一国家や日本至上主義に基づく東アジア征服の構想は,明治維新の先駆けとなり,帝国陸軍にも影響を与えた。また,明治政府による「東京」への改称も,信淵の『宇内混同秘策』での記述が元になっている。

その他

  • 万治2年(1659),江戸の吉祥寺門前(東京都文京区本郷)の浪士・佐藤定右衛門らが,多摩郡吉祥寺村(武蔵野市吉祥寺本町周辺)を開発し,移住した。

東京時代

図5.現代の関東地方の佐藤氏の分布

現代の関東地方の佐藤氏の分布

著名な佐藤氏

19世紀後半の著名な佐藤氏には,順天堂医院創設者の佐藤尚中,新潮社創業者の佐藤義亮,赤痢菌を発見した志賀潔[旧名:佐藤直吉],横浜市長の佐藤喜左衛門,その子で三井銀行社長・経団連副会長の佐藤喜一郎など。

参考文献


  1. 佐藤氏から分かれた家系を含めた佐渡守藤原公行の子孫全体を指す。 ↩︎

  2. 同じく承久の乱(1221)の幕府軍には「県佐藤四郎」の名が見えるが,その出自は不詳である。アガタ地名のうち,当時の佐藤氏流と関係がありそうな地名では,波多野氏の活動が見える伊勢国多気郡(三重県の中部)の付近に飯高郡英太郷(三重県松阪市阿形町)があるほか,尾藤氏が領した信濃国中野郷(長野県中野市)の付近に埴科郡英多荘(長野市松代町)がある。 ↩︎

  3. また,『横浜市誌』には「正平年間源家の遺臣佐教氏一門武蔵国屏風浦(現本牧)に移住」とあるところ,①「佐教氏一門」,②「屏風浦(現本牧)」について解釈の余地が残る。まず,①「佐教氏一門」について,『角川姓氏』では「藤」が遺脱したものとして「佐藤教氏一門が……来住し」と記している。しかし,『横浜市誌』を全文検索しても,同書中に名前と一門とをつなげる用法はみられず,「……家の一門」,「……氏の一門」などとあるのみであるから,単に「佐藤氏一門」の誤植と考えるのが妥当である。次に②「屏風浦(現本牧)」について,管見の限りでは屏風浦と本牧とでは範囲が異なるから,同書が何を根拠に「屏風浦」を「現本牧」と解したかが不明である。具体的には,『横浜市誌』発刊時点(1929)では,前者は屏風浦村(横浜市磯子区の東半分),後者は横浜市中区本牧町(横浜市中区本牧町・本郷町周辺各町)である。また,近世に「本牧領」と呼ばれた区域に近代の屏風浦村の区域が含まれたことは確認できるが〔『角川地名』〕,反対に本牧のあたりまで屏風浦と呼んだことは確認できなかった。なお,佐藤氏が本牧町周辺に多いことは,同書の記述からも,現代の人口分布〔『宮本姓氏』〕からも明らかである。以上を踏まえ,本記事の本文では,「佐藤氏」が「久良岐郡本牧(神奈川県横浜市中区本牧町・本郷町)周辺に来住した」とした。 ↩︎

コメント