鎌倉時代

記録

鎌倉幕府が成立すると、佐藤氏の庶流は御家人として従った。

都で活動していた公郷や公季の系統である佐藤氏、伊賀氏、後藤氏らは政務上重要な役職に就いた。とりわけ京都守護、六波羅評定衆など都での職が多く、歌人としての活動も見られるなど、京都の公家と鎌倉の武家を繋ぐ存在であった。

  • 佐藤氏
    • 佐藤業時(評定衆)
    • 佐藤業連(評定衆、加賀権守)
  • 伊賀氏
    • 伊賀朝光(伊賀守/北条義時義父)
    • 伊賀の方(北条義時側室)
    • 伊賀光季(京都守護)
    • 伊賀光宗(政所執事、評定衆/歌人)
  • 後藤氏
    • 後藤基清(讃岐・播磨守護)
    • 後藤基綱(佐渡守、評定衆/歌人)
    • 後藤基政(壱岐守、六波羅評定衆/歌人)
    • 後藤基隆(伊勢守、六波羅評定衆/歌人)

また、佐藤氏流の波多野氏(松田氏、河村氏など)、尾藤氏、首藤氏(山内氏、小野寺氏、那須氏、須藤氏)も御家人として活動した。伊賀氏、後藤氏を含め、これら佐藤氏流は、他の東国御家人同様、全国各地に恩賞地を得て広がっていった。

  • 波多野氏(松田氏、河村氏)は11世紀以来相模国を拠点とした系統であるが、やはり武家と公家の中間的な存在で、武官、文官に加えて歌人を輩出した。また、波多野義重は永平寺(福井県吉田郡永平寺町/曹洞宗大本山)の開基である。このほか、一部は豊前・豊後守護となった大友氏とともに豊後に移住した。
  • 尾藤氏は、佐藤氏嫡流が継承していた紀伊国田仲荘・池田荘、信濃国中野牧を譲り受けた。
  • 首藤氏からは山内尼(源頼朝の乳母)や山内首藤経俊(伊勢・伊賀守護)を輩出したほか、小野寺氏や那須氏、須藤氏などが御家人として活動した。
  • 承久の乱(1221)の幕府軍に沼田佐藤太と県佐藤四郎が見える。沼田氏については波多野氏のうち相模国足上郡沼田(南足柄市沼田)を本貫とした系統であるが、県(あがた)氏は不詳。
    • 佐藤氏流が関係しそうな地名では、尾藤氏の信濃国中野牧(長野県中野市)付近に埴科郡英多(あがた)荘(長野市松代町)がある。
図1.鎌倉幕府重鎮の佐藤氏
  • 佐藤公行
    • 公光
      • 公清
        • 季清
          • 康清
            • 仲清
              • 能清
              • 基清
            • 西行
        • 首藤助清
          • 助道
            • 親清
              • 義通
                • 山内俊通
                  • 伊勢・伊賀守護経俊母山内尼
                • 小野寺義寛
        • 公郷
          • 助宗
            • 実基
              • 讃岐・播磨守護基清
                • 評定衆基綱
                  • 六波羅評定衆基政
                  • 六波羅評定衆伊賀守基隆
          • 公明
            • 明兼
              • 明時
                • 評定衆業時
                  • 評定衆業連
        • 公澄
          • 知基
            • 尾藤知昌
              • 知忠
                • 知広
                  • 知宣
      • 波多野経範
        • 経秀
          • 秀遠
            • 遠義
              • 義通
                • 義経
                  • 松田有経
                • 忠綱
                  • 永平寺開基義重
                  • 経朝
                • 経因
              • 河村秀高
              • 沼田家通
      • 公季
        • 公助
          • 文郷
            • 光郷
              • 伊賀守朝光
                • 京都守護光季
                • 評定衆光宗
                • 北条義時側室伊賀の方

主に『尊卑分脈』『続群書類従』より作成。

そのほか、下総国の住人に左藤(佐藤)氏の記録がある。

  • 元亨1年(1321)下総国結城郡西毛呂郷(茨城県結城市)の住人に左藤四郎。

伝承

  • 12世紀末、武蔵国入間郷(埼玉県入間郡)に佐藤清綱が所領を得、その子基春は承久の乱(1221)後に大江氏(のち寒河江氏)に従って出羽国村山郡(山形県西村山郡)に移住したという。
  • 13世紀半ば(?)、下野国足利郡(栃木県足利市)の佐藤信綱が陸奥国刈田郡平沢(宮城県刈田郡蔵王町)に移住したという。
  • 相模国愛甲郡(神奈川県)では、鎌倉時代に甲斐国出身の佐藤氏の3兄弟がそれぞれ津久井(相模原市緑区)・六倉・半原(愛甲郡愛川町)に土着したという。

また、上野国吾妻郡五町田(東吾妻町五町田)は陸奥国出身の佐藤氏が開拓したといい、五町田南沢(東吾妻町五町田南沢)の墓地には文永年間(1264-1275)の板碑や応永6年(1409)の五輪塔が現存する。

  • 先祖は継信の子経信と伝える。文永年間に開拓したとすれば、経信の曾孫や玄孫の代で上野国に移住してきたことになる。
  • 吾妻郡五町田の下流、群馬郡小野子(渋川市)では継信の子孫信久の居住が起源(時期不詳)と伝え、関連が窺える。
    • 経信の名は山形県酒田市小泉・山形市村木沢、茨城県常陸太田市小中などの系図で確認でき、村木沢の系図では経信の弟基信の曾孫に信久の名が見える。なお、村木沢と小中の佐藤氏はともに南朝に従ったと伝える。

番外編:平安時代の伝承

次のような伝承があるが創作的である。

  • 戦国時代の上野国群馬郡の箕輪城主長野氏の家臣佐藤氏は、9世紀ごろ長野氏と共に在原業平[825-880]に仕えて山城国から来住したという。
  • 宮上村(神奈川県足柄下郡湯河原町宮上)の佐藤氏は、安和年間(968-70)に先祖佐藤秀之允信忠が大和国から来住したことが起源という。
図2.鎌倉時代の関東・中部地方の佐藤氏の分布
鎌倉時代の関東地方の佐藤氏

南北朝時代

記録

鎌倉幕府が滅亡すると、旧御家人の佐藤氏は足利氏に従って都に移った。

また、陸奥国信夫郡(福島県福島市)の佐藤氏の一部が、南北朝の動乱で諸国を転戦した功績で相模国に所領を得て土着した。

  • 文和元年(1352)陸奥国信夫郡出身の佐藤兵衛尉基清が、相模国豊部郷(神奈川県伊勢原市)地頭代となった。
    • 伊勢原市には佐藤中務が祖と伝える家があるが、基清の兄弟に佐藤中務左衛門尉重清がいて同一人物と思われる。

伝承

  • 正平年間(1346-1370)源氏の遺臣の佐藤氏が、武蔵国久良岐郡屏風浦(横浜市中区本牧町・北方町)に移住したという。
    • 「源氏の遺臣」と伝えるが、源氏将軍自体は建保7年(1219)に源実朝が暗殺された時点で途絶えており、鎌倉幕府の旧御家人を意味すると思われる。
  • 明徳1年(1390)南朝の北畠氏遺臣佐藤式部少忠歳と忠久が、北朝の佐竹氏のもとに投降し、常陸国多賀郡油縄子村(茨城県日立市鮎川町)に所領を得て居住した。
    • また、同年に佐竹氏家臣佐藤右馬亮秀信が小豆洗館(茨城県日立市東成沢)を築いて居住したといい、同族と思われるが不詳。
    • 南朝の北畠氏遺臣と伝える佐藤氏の子孫は、茨城県日立市のほか青森県青森市・黒石市、秋田県北秋田市綴子、山形県山形市村木沢、大分県などで確認できる。
  • 14世紀後半ごろ、伊勢出身で南朝の楠木氏遺臣の佐藤氏が上野国邑楽郡小泉(群馬県邑楽郡大泉町小泉)に土着した。
    • 伊勢国一志郡に、14世紀半ば信夫佐藤氏が所領を得ており同族と思われる。この信夫佐藤氏は要請に応じて北朝方にも南朝方にも従っている。ただ、どのような経緯で伊勢国から上野国に移ったかは不明。

室町時代

記録

  • 応永32年(1425)武蔵国入西郡越生郷(入間郡越生町)の住人に佐藤太郎入道。

伝承

  • 長禄1年(1457)越後国魚沼郡(新潟県魚沼市)出身の佐藤真信が上野国内に来住して、甘楽郡国峰城の小幡氏に仕えたという。
    • 子のうち、貞信は多胡郡小暮村で帰農し、信政は本能寺の変(1582)に際して殉死したというが、明らかに父子の年代が合わず誤伝または創作か。
図3.南北朝・室町時代の関東・中部地方の佐藤氏の分布
南北朝・室町時代の関東地方の佐藤氏

戦国・安土桃山時代

  • 常陸
    • 多賀郡・久慈郡・那珂郡など(茨城県)──佐竹氏家臣
  • 下総
    • 印旛郡(千葉県)──千葉氏家臣
  • 上野
    • 群馬郡・吾妻郡・碓氷郡・甘楽郡など(群馬県)──小幡氏家臣、武田氏→北条氏家臣
    • 群馬郡(群馬県高崎市)──長野氏家臣
  • 武蔵
    • 埼玉郡(埼玉県)──山内上杉氏家臣、北条氏家臣
    • 榛沢郡(埼玉県)──深谷上杉氏家臣
    • 比企郡(埼玉県)──北条氏家臣
    • 入間郡(埼玉県)──扇谷上杉氏>太田氏家臣→山内上杉氏>太田氏家臣
  • 相模
    • 足下郡(神奈川県)──武田氏家臣
    • 大住郡(神奈川県)──武田氏>内藤氏家臣→北条氏>内藤氏家臣

このほか、永禄3年(1560)ごろ美濃国武儀郡(岐阜県)出身で美濃斉藤氏遺臣の佐藤氏が、相模国津久井郡(神奈川県相模原市)と武蔵国多摩郡(東京都日野市)に分かれて土着した。

図4.戦国・安土桃山時代の関東・中部地方の佐藤氏の分布
戦国・安土桃山時代の関東地方の佐藤氏

江戸時代

江戸幕府の旗本に、美濃国を拠点に織田・豊臣・徳川氏に仕えてきた佐藤氏の系統がいたほか、関東出身の佐藤氏の記録もある。

  • 常陸──水戸藩
  • 下総──一宮藩、佐倉藩
  • 上野──高崎藩、小幡藩
  • 武蔵──忍藩、川越藩、岩槻藩、岡部藩
  • 相模──小田原藩

その他。

  • 万治2年(1659)、浪士の佐藤定右衛門が多摩郡吉祥寺村(武蔵野市吉祥寺本町周辺)を開発した。
  • 19世紀前半には、美濃国岩村藩出身で儒学者の佐藤一斎、出羽国雄勝郡出身で思想家の佐藤信淵が出て、幕末期の思想を形成した。
    • 一斎は、美濃国武儀郡の織田氏旧臣で岩村藩家老の系統。昌平坂学問所塾長を務めた。門下に渡辺崋山、佐久間象山、門人に安積艮斎、中村正直、横井小楠らがいる。
    • 信淵は、横手盆地に散在した小野寺氏家臣の系統。信淵の提唱した、神道に基づく社会主義的統一国家、日本至上主義に基づく東アジア征服の構想は、明治維新の先駆けとなり、帝国陸軍にも影響を与えた。また、明治政府による「東京」への改称も、信淵の『宇内混同秘策』での記述が元になっている。

東京時代

19世紀後半の著名な佐藤氏には、順天堂医院創設者の佐藤尚中、新潮社創業者の佐藤義亮、赤痢菌を発見した滋賀潔(旧名:佐藤直吉)、横浜市長の佐藤喜左衛門、その子で三井銀行社長・経団連副会長の佐藤喜一郎など。

図5.現代の関東地方の佐藤氏の分布
現代の関東地方の佐藤氏の分布

参考文献

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