藤原秀郷
目次
概要
(未記入)
経歴
藤原秀郷にまつわる伝承が豊富にあるのに反して,正確な記録は10点もありません。
表1.藤原秀郷についての記録
# | 年 | 月 | 出来事 | 出典 |
---|---|---|---|---|
1 | 延喜16年(916) | 8月 | 朝廷が,下野国司に対し,罪人藤原秀郷,兼有,高郷ら18人を流刑に処するよう命じた(*1)。 | 『日本紀略』 |
2 | 延長7年(929) | 5月 | 下野国司が,藤原秀郷の乱行を制圧するため,朝廷に兵力動員のための官符を請求した。 | 『扶桑略記』 |
3 | 天慶3年(940) | 2月 | 下野押領使藤原秀郷が,常陸掾平貞盛とともに平将門を討伐した。 | 『日本紀略』 |
4 | 天慶3年(940) | 3月 | 藤原秀郷の使者が,平将門を討伐したことを報告した。 | 『日本紀略』 |
5 | 天慶3年(940) | 3月 | 下野掾藤原秀郷が,従四位下に叙位された。 | 『日本紀略』 |
6 | 天慶3年(940) | 4月 | 藤原秀郷の使者が,平将門の首を差し出した。 | 『日本紀略』 |
7 | 天慶3年(940) | 11月 | 藤原秀郷が,下野守(と武蔵守)に補任された(*2)。 | 『日本紀略』 |
8 | 天暦1年(947) | ? | 藤原秀郷が,権中納言源高明を通じて,平将門の兄弟が謀反を起こそうとしていることを報告した。 | 『貞信公記抄』 |
*1: 刑が実際に執行されたかは不明。/*2: 『扶桑略記』には,下野守と武蔵守を兼任した,とある。
つまり,秀郷の事績としてはっきりしていることは,次の4点しかないということになる。
- 平将門討伐以前は,国司に度々反抗するなど,反体制集団の指導的地位にあった。
- 平将門討伐を指導し,成功させた。
- その功績で,従四位下に叙され,下野守に任じられた。
- 中央貴族(源高明ら)との関係を持っていた。
後世の記録に基づく秀郷像
出自
諸系譜によると,秀郷は下野国司の官吏の家系で,左大臣藤原魚名の子藤成の曾孫に位置付けられている。藤成が下野国司に赴任した際に,在地豪族の鳥取氏の娘との間に子豊沢を設けたため,下野国に定着するに至ったという。
ただし,藤成が下野国に土着した前後の経緯は疑念の余地がある。確かに当時,地方豪族が,国司として赴任してきた中央貴族に接近して,娘や婿を送り込むことで同氏族を名乗ることは珍しくなかった。しかし,「六国史」を確認すると,親子とされるはずの魚名と藤成には60歳近い年齢差があるか,存命期間が重ならない1。また。秀郷を魚名の玄孫とする説明をそのまま認めることは難しい。
拠点
系譜の通り,秀郷の父祖が下野国の官吏であったとすれば,その職場である下野国衙(栃木市田村町/宮野辺神社付近)の所在した都賀郡(栃木市・小山市など)付近と考えるのが妥当である。
また,最も古い時期に成立した下野国内の秀郷流の名字を見ると,足利(足利郡),長沼(芳賀郡),小山・木村・野木(都賀郡),佐野・阿曽沼(安蘇郡)などがあり,主に都賀郡に近い地域を所領としていたことがわかる。彼らが秀郷の地盤を継いでいるとすれば,秀郷自身の拠点もこの辺りにあったのではないかと推察される。
関連唐沢山城の秀郷伝承
所領
下記は,下野国付近以外で,秀郷の子孫が「秀郷以来の所領である」と主張した記録のある地域である。ただし,「秀郷以来」であることを裏付ける証拠はない。
- 相模国田原郷(神奈川県秦野市田原/「結城系図」)
- 紀伊国那賀郡(和歌山県紀の川市/『江都督納言願文集』,『吾妻鏡』寿永3年[1184]年2月21日条)
- 信濃国中野牧(長野県中野市/『吾妻鏡』同上)
官位
確実な史料で,秀郷が補任されたとする官職は次の4つで,位階は従四位下(『日本紀略』)であった。
- 下野押領使(『日本紀略』)
- 下野掾(『日本紀略』)
- 下野守(『日本紀略』)
- 武蔵守(『扶桑略記』)
このほか,鎮守府将軍に補任されたとする系図(『尊卑分脈』,「結城系図」など)もある。同系図では,秀郷以降曾孫頼行の代まで鎮守府将軍を世襲したことになっている。確実な記録では『小右記』(永延2年10月3日条)に,孫文脩が鎮守府将軍に補任された記録がある。
武芸
秀郷の武芸については,平将門を討伐したという実績以外は,同時代史料から読み取ることはできない。しかし,以下のように,鎌倉時代以降の文学作品や歴史書などでの描写を見ると,秀郷やその子孫の武芸が高く評価されている。
文学作品での描写
まず,文学作品での描写に着目すると,平安時代末期時点では戦略が優れていることを評されていて,鎌倉時代以降になると今度は武術の技量が評されるようになる。
「もとより古き計あり[……]古き計の厳しきところ」 『将門記』(平安時代末)
「計賢くて」 『今昔物語集』(平安時代末)
「器量人に越え,無双弓の上手なりしか」 『将門純友東西軍記』(室町時代)
『吾妻鏡』での評価
『吾妻鏡』によると,秀郷流の武芸は12世紀には既に文書化され,子孫を中心とする東国武士によって継承されていたことがわかる。そして,彼らの技術は,源頼朝や御家人たちにも高く評価されていた。
- 西行(佐藤憲清)
- 秀郷10世/京(または紀伊国)の武官。出家後,僧侶・歌人として各地を放浪した。
- 源頼朝に面会した際,「
秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法
」について詳細に講義した(文治2年8月15日条)。
- 諏訪盛澄
- 秀郷の子孫ではない/信濃国の神官。平家の家人・御家人。
- 「
秀郷朝臣の秘决
」を習得した流鏑馬の名人であった(文治3年8月15日条)。
- 波多野有経(松田有常)
- 秀郷13世/相模国の武官・御家人。
- 「
曩祖に恥じざる達者
」と評され,鶴岡八幡宮での流鏑馬でその優れた技術を披露した(文治4年4月3日条)。
- 下河辺行平
- 秀郷10世/下総国の武士・御家人。
- 源頼朝に甲冑を献上する際,頼朝から笠標を付ける位置について問われ「
曩祖秀郷朝臣の佳令
」として背面に付けることを勧めた(文治5年7月8日条)。 - 源頼朝に「
弓箭の達者
」と評されて,頼朝の嫡子頼家の武芸の師範に抜擢された(建久1年4月7日条)。 - 北条時房に弓術を指導した際,「
譜代の口伝故実等
」を述べて源頼朝を感心させた(建久4年8月9日条)。
- 小山朝政
- 秀郷10世/下野国の武士・御家人。
- 朝政の邸宅に,源頼朝が弓馬の得意な御家人たちを連れて訪れ,「
旧記
」を閲覧したり,「先蹤
」を尋ねたりして,流鏑馬の技法について談議した(建久5年10月9日条)。
- 海野幸氏
- 秀郷の子孫ではない/信濃国の武士・御家人。
- 「
佐藤兵衛尉憲清入道曰く
」と前置きして,北条時頼に弓の持ち方を指導した(嘉禎3年7月19日条)。
秀郷流の武芸の実態
通説では,鎌倉武士の規範となった武芸や武具は,11世紀前半の近衛府を中心に確立されたと考えられている。そして,秀郷の子孫たちが衛府の武官や鎮守府将軍などを務めたのが,まさにこの時期であった。つまり,秀郷流の武芸の実態は(秀郷自身の武芸というより)主に11世紀の秀郷の子孫らによって構築された武芸と捉えるべきである。
加えて,上記の秀郷流武芸の継承者の多くは,下記の通り,京との関係が深いことも,武芸やその評価が,関東ではなく京で醸成されたことを示唆している。
- 西行(佐藤憲清)
- 出家前,公卿の徳大寺家に仕え,左兵衛府の武官,鳥羽院の下北面などを務めた。
- 諏訪盛澄
- 平家に仕えて長く在京し,城南寺(京都市伏見区)での流鏑馬で有名になった。
- 波多野有経
- 在京経験は不詳だが,波多野氏は代々摂関家に仕え,歌人も輩出した。
- 下河辺行平
- 摂津源氏の源頼政に仕えて在京していた。小山朝政は行平の甥である。
ムカデ退治の英雄・俵藤太
藤原秀郷は,『今昔物語集』などの説話集2でムカデ退治の英雄俵藤太として描かる。しかし,実際にはムカデを倒した事実はなく,鎌倉時代初期の説話集『古事談』の説話に,秀郷の事績と秀郷の子孫の事績を織り交ぜた架空の物語であると解釈すべきである。
参考俵藤太のムカデ退治伝説
ムカデ退治について
『古事談』に,「近江国の粟津冠者という人物がムカデを退治した」との説話がある。ゆえに,『今昔物語集』などにある秀郷によるムカデ退治伝説は,この「粟津冠者」の伝説に,秀郷が朝廷にとっての”ムカデ”平将門を討伐した事実や秀郷の子孫が近江国を拠点とした事実を重ね合わせたものと考えられる。
なお,秀郷の子孫が近江国を拠点としていたことについては,下記の記録がある。
- 藤原頼行
- 秀郷5世/近江国を拠点とした(『小右記』長和3年[1014]12月25日条)。
- 藤原公行
- 秀郷5世/近江守を務めた源経頼に近侍し,都と近江国を度々往復した(『左経記』万寿4年[1027]2月26日条など)。
- 藤原高年
- 秀郷6世/公行の甥。近江国甲賀郡に居住した(『小右記』長元1年[1028]9月8日条)。
- 藤原脩行
- 秀郷5世/公行の弟。近江国に居住し,近江掾に補任されて近藤太と称した(『尊卑分脈』)。
- 佐貫広綱
- 秀郷12世/近江国蒲生保を「私領」と主張して押領した(『平安遺文』4145)
三井寺に鐘を施入した点について
同じく『古事談』に,「竜宮の釣鐘が三井寺に施入された」との説話があるが,『今昔物語集』では秀郷が施入したことになっている。この点について,秀郷の子孫である平泉藤原氏(奥州藤原氏)が三井寺に砂金1,000両を献納し,のちに寺がその金で鐘を購入している記録3があるため,『今昔物語集』での描写は,この史実をもとにしたものと考えられる。また,そうだとすると「竜宮」は,辺境の黄金郷「平泉」に重ねたものとも解釈できる。
「俵藤太」の呼称について
『今昔物語集』において,秀郷は「俵藤太(田原藤太)」として描かれる。しかし,秀郷が俵藤太を称した確かな記録はない。
「藤太」が,藤原氏の長男の意であることに異論を挟む余地はない。一方,「俵(田原)」は,武士の名乗りの慣習からは所領地名や居住地名と考えられるが,どこを指すかは不明で,以下いくつかの「田原」地名が想定されている。
- 下野国田原
- 秀郷や秀郷流の諸氏が拠点とした下野国内に河内郡田原(宇都宮市田原),安蘇郡田原(佐野市田原)がある。
- 相模国田原
- 秀郷流波多野氏が拠点とした相模国波多野荘内に田原(神奈川県秦野市田原)がある。
- 「結城系図」によれば,秀郷が当地を領したため俵藤太を称したという。
- 山城国田原
- 秀郷流足利氏が拠点とした田原郷(京都府綴喜郡宇治田原町)がある。
- 佐野氏の伝承によれば,秀郷は幼少期を当地で過ごしたため俵藤太を称したという。
- 当地には足利忠綱(田原又太郎)の墓碑がある。
- 秀郷にまつわる遺品・遺跡の多くが,足利忠綱(田原又太郎)に近い佐野氏と赤堀氏によって継承されてきた(後述)。
遺品・遺跡
各地に現存する秀郷にまつわる遺品や遺跡の来歴を見ると,ほとんどが秀郷流の佐野氏,赤堀氏,蒲生氏のいずれかの手によるものである。また,これらも秀郷自身の遺品・遺跡は,秀郷の時代のものとは考えにくく,上述の武芸や伝承と同じように,実際には秀郷の子孫により作成し,継承されてきたものが,秀郷自身の遺品・遺跡であるかのように誤って伝えられたものであると考えられる。
- 十六間四方白星兜鉢(鵜の森神社[四日市市]所蔵)
- 秀郷所用と伝える。赤堀氏一族の浜田氏が継承した。12世紀ごろの作。
- 毛抜形太刀,蜈蚣切(伊勢神宮所蔵)
- 秀郷所用と伝える。赤堀氏一族の浜田氏が継承した。「蜈蚣切」は14世紀ごろの作。
- 毛抜形太刀(宝厳寺[滋賀県長浜市]所蔵)
- 秀郷所用と伝える。17世紀初めに宝厳寺の復興に際して作製された。
- 秀郷稲荷(高安寺[東京都府中市]内)
- 秀郷の居館と伝える。
- 龍王宮秀郷社(滋賀県大津市)
- 俵藤太伝説に基づいて近世初頭に蒲生氏によって造営された。
- 唐沢山城(佐野市栃本町)
- 秀郷の居館と伝える。実際には,15世紀ごろ佐野氏の居館として造営された。
参考文献
- 野口実『伝説の将軍:藤原秀郷』(吉川弘文館,2001)
藤原魚名は,延暦2年(783)7月に63歳で没している(『続日本紀』)から,養老5年(721)生まれである。一方,その子という藤原藤成は,弘仁13年(822) 5月に37歳(『日本紀略』)または47歳(『日本後紀』)で没しているから,延暦5年(786)または宝亀7年(776)生まれである。これらの記録に従えば,魚名は藤成の生まれる3年前に死亡している,もしくは魚名と藤成には55歳の差がある,ということになる。また,藤成は,系譜上の位置が安定せず,藤原房前の子とも藤原良相の子ともあり,魚名の子とするのもそのうちの一説に過ぎない。以上より,魚名と藤成の親子関係は,(養子縁組の可能性も含め)必ずしも成立しないことはないが,素直に肯定できるものでもない。 ↩︎
『今昔物語集』(巻25,12世紀前半成立),『太平記』(巻15,14世紀成立),『俵藤太物語』(17世紀前半成立) ↩︎
平泉藤原氏(奥州藤原氏)は,経済力を背景に,三井寺のほかにも金剛峯寺,東大寺などに多額の寄進をしている(「高野検校阿闍梨定兼塔供養願文」,『東大寺造立記』など)。 ↩︎