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歴史編

中国・四国地方の佐藤氏の歴史

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はじめに

この記事は,中国・四国地方の佐藤氏の記録や伝承を時代・場所ごとに分類したものである。記事の主な執筆方針は下表のとおりとする。

表1. 歴史編(地方別)の主な執筆方針
1対象とする時代平安から安土・桃山時代を中心とし,江戸時代以降は主要な人名以外は載せない。
2場所の分類方法平安から江戸時代まで用いられた国・郡による。
3人名の表記原則「名字+実名」で表記し,通称や法名などは[ ]内に載せる
通称等のみ判明[ ]を使用せずに「名字+通称」で表記する。
通称等も不明「佐藤氏」とする。
4信用性信用できる記録等「……した」などと断定で終える。
信用できない伝承等「……との伝承がある」,「……と伝える」,「……という」などの表現で終える。
5出典文末・文中で〔 〕により資料名を示す。
当サイト全般の方針は別記「用語・表記等」のとおりとし,参考文献は「参考文献一覧」に掲載する。

鎌倉時代

鎌倉時代末期,安芸国と備後国の下級荘官に佐藤氏がいた記録がある。

図1.鎌倉時代の中国・四国地方の佐藤氏の分布

鎌倉時代の中国・四国地方の佐藤氏

図中の「」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。「」は,関連する他氏(主に佐藤氏流)が居住・領有していた記録のある地点を表し,( )内にその氏族名を註記した。説明文中の「⇒」は主家の変遷,「>」は主従関係を表す。例えば,「A氏⇒B氏家臣」は「A氏に仕えたのちB氏に仕えた」ことを,「C氏>D氏家臣」は「C氏家臣のD氏に仕えた」ことを表す。地名は主に中世の表記を用いた。

安芸国

  • 正応2年(1289)の安南郡(広島市の東部から呉市の周辺)の在庁兼公文に左藤助真[大夫]。子は助正[四郎大夫],孫は清正[五郎大夫]〔「安芸田所文書」/『鎌倉遺文』16862〕。

出自不明。同時期に備後国世羅郡大田荘(広島県世羅郡世羅町)の公文にも佐藤氏が見えるが,関連は不明である(後述)。

関連
安芸国在庁の田所氏との関係
確証はないが,安芸国安南郡の佐藤氏は,同国の豪族田所氏と関連する可能性がある。そもそも,当時の安芸国では主に田所氏が在庁や公文を世襲している。そして,この田所氏は,本姓を佐伯氏または藤原氏と称していて,通字に「清」や「資(助)」を用いている。これらの共通点から,この佐藤氏は,田所氏と同族で,佐伯氏と藤原氏を合成した佐藤氏の可能性がある(要検討)。

備後国

  • 正安2年(1300)世羅郡大田荘(世羅郡世羅町)の桑原方の公文に佐藤二兵衛〔「高野山文書宝簡集」/『鎌倉遺文』20470〕。

出自不明。同時期に安芸国安南郡(広島県安芸郡府中町周辺)の公文にも佐藤氏が見えるが,関連は不明である(先述)。

南北朝・室町時代

南北朝時代には,14世紀前半ごろに出雲国と土佐国,讃岐国で佐藤氏の記録があるほか,阿波国に佐藤氏の伝承がある。室町時代には,備後国で佐々木氏家臣の佐藤氏の記録,美作国で楠木氏遺臣という佐藤氏の伝承がある。

図2.南北朝・室町時代の中国・四国地方の佐藤氏の分布

南北朝・室町時代の中国・四国地方の佐藤氏

図中の「」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。「」は,関連する他氏(主に佐藤氏流)が居住・領有していた記録のある地点を表し,( )内にその氏族名を註記した。説明文中の「⇒」は主家の変遷,「>」は主従関係を表す。例えば,「A氏⇒B氏家臣」は「A氏に仕えたのちB氏に仕えた」ことを,「C氏>D氏家臣」は「C氏家臣のD氏に仕えた」ことを表す。地名は主に中世の表記を用いた。

出雲国

  • 14世紀前半ごろの大原郡日登郷(雲南市日登)の地頭に佐藤二郎左衛門尉がいた〔「佐々木文書」/『大日本史料』〕。

当記録は,観応の擾乱(1356)での軍功により,足利義詮が佐々木秀綱に「佐藤二郎右衛門跡」という日登郷を与えた旨の充行状による。

前主である佐藤二郎左衛門尉の出自は不詳であるが,図1(前掲)のとおり,中国地方には多くの佐藤氏流の御家人が所領を得ているから,二郎左衛門尉もまた佐藤氏流の御家人の一人と考えるのが妥当である。

この点につき,地理的には,秋鹿郡大野荘・安来荘(島根県松江市・安来市)の松田氏が近い。また,「二郎左衛門尉」という通称に着目すると,幕府評定衆の佐藤業連の系統〔「後藤系図」参照〕や幕府寄合衆の尾藤景氏の系統〔「尾藤系図」参照〕が「二郎」を称することが多い。

なお,日登周辺では,戦国時代にも佐藤氏の記録があるほか(後述),現在も佐藤氏が多い。

美作国

  • 15世紀前半,楠木氏遺臣の佐藤茂成[光右衛門]が久米郡川口(岡山県岡山市)に土着したとの伝承がある〔『大鳥城記』,『佐藤一族』〕。

出自不明。上野国邑楽郡小泉(群馬県邑楽郡大泉町小泉)にも,同じく楠木氏遺臣という佐藤氏が土着した旨の伝承があり,同地では伊勢国出身という〔『角川姓氏』〕1

備後国

  • 永享4年(1432),備後守護山名氏の重臣佐々木氏の代官に佐藤氏〔「山内家文書」/『大日本古文書』〕

出自不詳。地理的には,鎌倉時代末期の世羅郡大田荘(世羅郡世羅町)桑原方の公文の佐藤氏のほか,三谿郡(三次市)の波多野氏流広沢氏が近いものの,関係は不明である。

讃岐国

  • 暦応4年(1341)4月に随心院領の大川郡造田荘(さぬき市造田)を佐藤治部左衛門尉らが押妨したとして,随心院に訴えられて敗れたが,替地を宛てがわれた〔「善通寺文書」/『大日本史料』〕。

佐藤治部左衛門尉2の出自は不詳。上記経緯からすると,造田荘内に権利関係を有していた在地の武士であると思われる。

また,戦国時代には香西氏家臣に佐藤氏が見え(後述),同族と思われるが確証はない。

阿波国

板野郡・名西郡

  • 延元2年(1337),北朝方の細川頼春の家臣の佐藤基信が,板野郡中富村(板野郡藍住町中富)に来住したとの伝承がある。基信は,後藤基清8代という〔『佐藤一族』〕。
  • 14世紀半ばごろ,北朝方の細川頼春の家臣の佐藤綱兼[伊賀守]が,戦功により名西郡高河原(名西郡石井町高川原)を拝領したとの伝承がある。綱兼は佐藤公俊(波多野経範)13代という〔『佐藤一族』,「名東郡庄村佐藤米吉系図」(「阿波国古文書」,『大日本史料』)〕。
  • 14世紀後半ごろ,北朝方の細川頼之の家臣の佐藤兼信[左京大夫]の所領が,板野郡高野原(鳴門市大麻町周辺?)にあったとの伝承がある〔『板野郡誌』,『角川地名』〕。

いずれも年代・地理が近接し,実名の用字(「信」,「兼」)も類似する点で,同族と思われる。ただし,伝承によれば,基信は後藤氏の系統,綱兼は波多野氏の系統といい,一致しない。

佐藤綱兼と兼信は,年代・地理に加え,「兼」の字から,同族と思われ,綱兼は細川頼春に,兼信は細川頼之に仕えていることからすると,父子ほどの世代差ということになる。この点につき,「佐藤米吉系図」は,綱兼について,父を「清綱」3,子を「兼光」としている。これによれば,兼信は,兼光の別名か,兄弟にあたる可能性がある。

また,「兼」,「光」を用いる点や「伊賀守」を称する点からは佐藤氏流伊賀氏を連想させるところ,讃岐国において貞治1年(1362)に備前伊賀氏の伊賀高光[掃部助]が,戦功により,細川頼之から,阿野郡山田下村(香川県綾歌郡綾上町山田下)に所領を与えられた〔「全讃史」〕という類似の事例がある。これを踏まえると,阿波国の佐藤氏(特に佐藤綱兼・兼信)は,北朝の細川氏に従って所領を得た備前伊賀氏の系統の可能性が高い。

一方で,先祖を藤原公俊4とする点を重視すれば,同じく公俊の子孫にあたる波多野氏流と関連する可能性もある。前述の備前伊賀氏と同様の経緯で四国に所領を得たと仮定する場合,地理的には備前国御野郡(岡山県岡山市)の松田氏や備中国川上郡(岡山県高梁市)の河村氏がこれに近い。特に,観応2年(1351)の麻殖郡麻殖荘(徳島県吉野川市)には藤原姓の河村小四郎がいたとされる〔「故城記」/『阿波国徴古雑抄』〕。

土佐国

  • 延元1年(1336),北朝方の細川氏の武将佐藤基信[六郎]が土佐国内を転戦した〔「南路志」/『大日本史料』〕。
  • 基信は,後藤基清8代で,延元2年(1337)以降,阿波国板野郡中富村(徳島県板野郡藍住町中富)に居住したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

佐藤基信が,後藤基清の子孫で,阿波国板野郡に居住した旨の伝承は,阿波国阿波郡伊月村(徳島県阿波市市場町伊月)の佐藤家に伝わる系図による。ただし,「尊卑分脈」「後藤系図」等に「基信」の名はない。また,当系図が基信の板野郡居住の経緯について言及しない点や基信から戦国時代の長常に至る約200年間をわずか3代で繋いでいる点を踏まえると,この佐藤家が土佐国で活動した基信に繋がるかどうかすら不審である。

加えて,当系図は佐藤基信を後藤基清(佐藤仲清の実子)の子孫とするところ,南北朝時代以前の四国と佐藤氏流後藤氏の系統の関係については,12世紀末に後藤基清が讃岐守護を務めていた程度の接点しか判明しておらず,その子孫も含め,四国に所領を得ていたかどうかは不明である5

関連
「基」の字と九州の伝承
「基信」に関連して,九州地方の伝承で,「基」を名前に含む佐藤氏が来住したとするものが複数ある。まず,日向国臼杵郡の伝承では,奥州合戦(1189)後に佐藤基信[兵庫允]が臼杵郡高千穂(宮崎県西臼杵郡高千穂町)に土着したという〔『高千穂町史』など〕。次に,出羽国村山郡(山形県山形市)の系図で興国2年(1341)に伊予国高縄城(愛媛県松山市)で南朝の脇屋氏家臣佐藤基久[左衛門尉]が戦死したとあるところ,豊後国の伝承によると,その後基久の子孫が豊後国大分郡・速見郡(大分県大分市・別府市周辺)などに土着したという〔『佐藤一族』〕。ただし,「基」の字は,信夫佐藤氏の佐藤基治(元治)にも通じ,実際,九州の佐藤氏は東北地方から来住したと伝えるものも多いため,佐藤氏流後藤氏を意識したものではない可能性が高い。

戦国・安土桃山時代

図3.戦国・安土桃山時代の中国・四国地方の佐藤氏の分布

戦国・安土桃山時代の中国・四国地方の佐藤氏

図中の「」は佐藤氏が居住・領有していた確実な記録のある地点,「」は佐藤氏が一時的に活動した記録のある地点または佐藤氏の主人の拠点,「」は確実な記録はないが居住・活動等の伝承がある地点を表す。「」は,関連する他氏(主に佐藤氏流)が居住・領有していた記録のある地点を表し,( )内にその氏族名を註記した。説明文中の「⇒」は主家の変遷,「>」は主従関係を表す。例えば,「A氏⇒B氏家臣」は「A氏に仕えたのちB氏に仕えた」ことを,「C氏>D氏家臣」は「C氏家臣のD氏に仕えた」ことを表す。地名は主に中世の表記を用いた。

因幡国

  • 16世紀半ばごろ,八上郡佐貫(鳥取市河原町佐貫)の水野尾城主目黒伝次郎の家老に佐藤十介がいた。水尾城陥落の際には,目黒伝次郎の子・与左衛門を連れて,同じく家老の大熊治郎右衛門とともに水根村(鳥取市河原町水根)に逃げ,同村で帰農したとの伝承がある〔『河原町誌』,『佐藤一族』〕。

出雲国

  • 永禄5年(1562),佐藤太良左衛門が大原郡三代(雲南市加茂町三代周辺)の「三代日吉山王東分神主職」を主張した〔「晴木文書」,『新修島根県史』,『角川地名』〕。

地理的には,14世紀前半ごろの大原郡日登郷(雲南市日登)の地頭・佐藤二郎左衛門尉(先述)の系統と思われる。

備前国

  • 15世紀末,津高郡金川(岡山県岡山市北区御津金川)の金川城主松田氏の家臣に佐藤式部がいた。福岡合戦(1484)に従軍した〔「備前軍記」,「中国兵乱記」〕。

美作国

  • 元亀3年(1572),大和国葛上郡高天(奈良県御所市高天周辺)の高間城主の佐藤沢清[三郎左衛門]は,豊臣氏に攻落されたために同所を離れ,備前国赤松谷を経て,天正3年(1575)に久米郡三明寺(岡山市北区建部町三明寺)で帰農したとの伝承がある。
  • 佐藤沢清の甥の常久・常盛兄弟は,高間城陥落(1572)後,備前国津高郡の江田氏に仕えたが,関ヶ原の戦い(1600)で敗れ,同じく久米郡三明寺(岡山県岡山市北区建部町三明寺)で帰農したという。
  • また,一族は,江戸時代初期までに,久米郡角石・和田(岡山市北区建部町角石谷・鶴田周辺),津山藩(津山市など),備前国津高郡上田(加賀郡吉備中央町上田西・上田東),備中国賀陽郡高松(岡山市北区高松)などに分出したという〔以上,『佐藤一族』〕。

備中国

  • 戦国・安土桃山時代,都宇郡妹尾(岡山市南区妹尾)に戸川氏家臣の佐藤氏がいた。一族は,16世紀末以降,備前国赤坂郡土師方村(岡山市北区建部町土師方)・吉田土橋・大上(岡山市北区建部町吉田土橋・大上)などに分出したとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

備後国

安那郡

  • 元亀3年(1572),毛利氏家臣の佐藤清宗が,安那郡曽根原村(福山市神辺町徳田)に居住したとの伝承がある。先祖は佐藤仲清という〔『佐藤一族』〕。

沼隈郡

  • 天文年間(1532-55),毛利氏家臣の佐藤氏が,毛利氏から追放されて,沼隈郡草深(福山市沼隈町草深)で帰農したとの伝承がある。先祖は大内義長[旧名・大友晴英]の三男・将能で,大友氏の本姓が佐藤氏であるため,佐藤氏を称したという〔『佐藤一族』〕。
  • 16世紀末・17世紀初頭,沼隈郡山南(広島県福山市沼隈町山南)の丸山城主・桑田氏の家臣に佐藤氏が,大坂冬の陣(1614)で敗れたため,当主の桑田将能以下の家臣団とともに,山南で帰農したとの伝承がある〔『姓氏家系大辞典』,『福山志料』,『備後古城跡』〕。

安芸国

  • 16世紀半ばから後半,毛利氏家臣に佐藤氏がいた。佐藤元実[彦三郎・又右衛門尉/1571没]の頃の同家の所領は,安芸国内には高田郡吉田・入江(広島県安芸高田市吉田町吉田・上入江・下入江),佐東郡下安西垣・伴大原(広島市安佐南区祇園・伴東周辺),安北郡後山西・迫石(広島市安佐北区安佐町後山)のほか,周防国都濃郡(山口県周南市)にあった。また,高田郡多治比(安芸高田市吉田町多治比)に佐藤彦四郎の宅地があった〔『佐藤一族』,「芸藩通志」,「安西軍策」,「佐藤保介氏文書」,「毛利家文書」,「閥閲録」〕。

周防国

  • 天正12年(1584),毛利氏家臣の佐藤氏の所領が都濃郡寿々万徳王丸名(山口県周南市須々万)にあった〔「閥閲録」/『角川地名』〕。

阿波国

  • 戦国時代・安土桃山時代,三好氏家臣に佐藤氏がおり,16世紀半ばごろは,那賀郡桑野の高源寺城(阿南市桑野町光源寺/桑野城とも)の城主であったが,天正3年(1575)摂津国出征中に長宗我部氏に攻落されたため,天正5年(1577)からは名西郡須賀(板野郡上板町佐藤塚)に拠点を移したところ,天正10年(1582)に再び長宗我部氏に攻落され,家臣らとともに阿波郡伊月村(阿波市市場町伊月)に逃げ延びて帰農したとの伝承がある。先祖は後藤基清・佐藤基信(先述)という〔「古城諸将記」(『阿波国徴古雑抄』),『阿波志』,『佐藤一族』,『角川地名』〕。

讃岐国

  • 16世紀,香西氏の家臣に佐藤氏がいた。天正年間ごろには,香川郡伏石(高松市伏石町/佐藤城)に居館を置き,香西氏没落(1585)後は,香西氏とともに,新たに讃岐国を領した仙石氏,次いで生駒氏家臣に仕えた〔「改撰仙石家譜」,『佐藤一族』,『系譜:佐藤家のあゆみ』〕。
  • 安土桃山時代ごろの当家の所領は,香川郡「本条村 辻村 小竹村 上之村 中之村 下之村 坂田村 宮脇村」(香川県高松市の中心部の南/紫雲山の山麓一帯)にあった〔『系譜:佐藤家のあゆみ』〕。

戦国時代には居石氏とも称した〔『系譜:佐藤家のあゆみ』〕。

これに関連して,香川郡伏石(香川県高松市伏石町)に所在する居石神社について,保安年間(1120-24)に居石綱光[五郎右衛門]が勧請したもので,この子孫が佐藤氏を称したとの伝承がある〔『古今讃岐名所図会』〕。

伊予国

  • 天正16年(1588),宇和郡(宇和島市)の板島城主の戸田氏家臣の佐藤兵衛が,宇和郡土居(西予市城川町土居)に所領を得た〔「佐藤文書」,『愛媛県編年史』,『角川地名』〕。
  • 16世紀末ごろ,豊臣氏家臣の佐藤家信が,豊臣秀吉から周敷郡・浮穴郡(愛媛県)内に所領を与えられたとの伝承がある〔『佐藤一族』〕。

江戸時代

佐藤氏の藩士が確認できる藩

山陰道因幡・伯耆鳥取藩
出雲・隠岐松江藩
石見浜田藩
山陽道備前岡山藩
美作津山藩
備後福山藩
長門長州藩
周防岩国藩
南海道讃岐高松藩,丸亀藩
阿波徳島藩
伊予今治藩,西条藩,松山藩,宇和島藩
土佐土佐藩

このうち長州藩士で周防国熊毛郡田布施(山口県田布施町)に居住した佐藤家は,昭和年間に内閣総理大臣岸信介・佐藤栄作兄弟を輩出した〔『角川姓氏』〕。同家の先祖は信夫佐藤氏と伝えるが,確証はない。

東京時代

図5.現代の中国・四国地方の佐藤氏の分布

現代の中国・四国地方の佐藤氏の分布

参考文献


  1. 上野国邑楽郡小泉(群馬県邑楽郡大泉町小泉)での伝承では,楠木正行の妻・加富貴御前が佐藤氏含む16人の家臣を連れて来住したとされているから,来住の時期は楠木正行の死没(1348)後の14世紀半ばから後半ごろであろう。この点につき,伊勢国では,1352年以降に,一志郡(三重県松阪市・津市など)に信夫佐藤氏が移住しており〔伊勢佐藤家文書〕,この系統とみることもできなくはないが,同系統であるとすればむしろ陸奥国出身という方が自然であるようにも思える。一志郡に信夫佐藤氏が入る以前の伊勢国は,佐藤氏流後藤氏や波多野氏が入っているから,当伝承が事実であるとすれば,これらの系統の可能性もある。 ↩︎

  2. 暦応2年(1339)の和泉国大鳥荘上条(大阪府堺市西区)の境界相論の奉行として「佐藤治部左衛門尉」〔「田代文書」/『大日本史料』〕の名が見えるが同名の別人であろう。また,同時代の陸奥国信夫郡の武将・佐藤清親の兄に「治部左衛門尉清綱」〔以下,「伊勢佐藤家文書」〕が見える。たしかにこの一族は,諸国を転戦して,関東から近畿地方の各地に所領を得ているが,四国に所領を得たとする史料はなく,また,暦応年間にはまだ陸奥国にいたと思われるから,これも別人と推察される。 ↩︎

  3. 「清綱」の名は,伊勢佐藤氏の系図に佐藤清親[14世紀前半ごろ存命]の兄として記載があり,年代的には合致する。 ↩︎

  4. 「藤原公俊」は,波多野氏の祖である波多野経範の別名とされる〔「尊卑分脈」など〕。平安時代末期から鎌倉時代前期,波多野氏から松田氏や河村氏などの分流が出て,備前国や備中国に所領を得ていた。 ↩︎

  5. 佐藤氏流後藤氏との関係は不明であるが,讃岐国には,14世紀半ばの大川郡(香川県さぬき市)に出自不明の佐藤氏がいた〔「善通寺文書」〕。また,戦国時代の羽床氏家臣に後藤氏が見えるものの,同氏は阿野郡山田上村(香川県綾歌郡綾上町山田下)の「後藤山」にちなんで称したと伝え〔「全讃史」〕,佐藤氏流後藤氏を自称していない。 ↩︎

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