鎌倉時代
記録
安芸国・備後国の公文に佐藤(左藤)氏の記録あり。
- 13世紀末ごろの安芸国安南郡(広島県安芸郡)の在庁兼公文に左藤大夫助真。子・左藤四郎大夫助正、左藤五郎大夫清正。
- あるいは「佐藤」とも。
- 出自不明。安芸国の在庁や付近の荘園の公文は伝統的に田所氏が継承していて、藤原氏または佐伯氏を称して「清」や「資(助)」を通字とするなど、この左藤(佐藤)氏は田所氏との関連が窺える。
- 正安2年(1300)備後国太田荘(広島県世羅郡世良町)の桑原方の公文に佐藤二兵衛。
- その地理や職掌から、安南郡公文の左藤(佐藤)氏と関連すると思われるが不詳。
図1.鎌倉時代の西日本の佐藤氏の分布
南北朝時代
記録
14世紀前半ごろから阿波国・讃岐国の国人に佐藤氏の記録あり。
- 延元1年(1336)北朝の細川氏の武将佐藤六郎基信が土佐国内を転戦した。
- 基信は、阿波国板野郡の系図によると、後藤基清8世で、延元2年(1337)から阿波国板野郡中富村(徳島県板野郡藍住町中富)に居住したという。
- 阿波国の別の系図(不詳)では、藤原公俊13世で、同じく細川氏家臣の佐藤伊賀守綱兼が、阿波国名西郡高河原城(名西郡石井町高川原)に居住し、四条大宮の戦い(1352)で戦死したという。
- 日向国の伝承では、奥州合戦(1185)後に佐藤兵庫允基信が日向国臼杵郡(宮崎県西臼杵郡)に土着したという。
- 出羽国村山郡の系図では、興国2年(1341)に伊予国高縄城(愛媛県松山市)で南朝の脇屋氏家臣佐藤左衛門尉基久が戦死したといい、豊後国の伝承によれば、その後この子孫が豊後国大分郡・速見郡(大分県大分市・別府市周辺)などに土着したという。
- 暦応4年(1341)讃岐国大川郡造田荘(香川県さぬき市造田)を佐藤治部左衛門尉を押妨した。
- 出自不詳。他にこの押妨に加わったのは大井氏・寒河氏・佐竹氏など四国に根拠を持つ国人たちで、治部左衛門尉も周辺の国人か。
- なお、暦応2年(1339)の大鳥荘上条(大阪府堺市西区)の境界相論の奉行に同名の佐藤治部左衛門尉が見えるが別人か。
また、同時期の出雲国の地頭にも佐藤氏の記録あり。
- 14世紀前半ごろの出雲国日登郷(島根県雲南市日登)の地頭に佐藤二郎左衛門尉。
- 出自不詳。相模国御家人の系統か。「後藤系図」(『続群書類従』)によれば、評定衆佐藤業連の子業氏の通称が二郎左衛門尉。現在も日登周辺に佐藤氏が多い。
室町時代
記録
- 永享4年(1432)備後守護山名氏の重臣佐々木氏の代官に佐藤氏。
伝承
- 15世紀前半に楠木氏遺臣佐藤光右衛門茂成が美作国久米郡川口(岡山県岡山市)に土着したという。
- 同じく楠木氏遺臣の佐藤氏が上野国邑楽郡(群馬県邑楽郡)に土着したといい、伊勢国出身と伝える。
図2.南北朝・室町時代の西日本の佐藤氏の分布
戦国・安土桃山時代
記録
- 安芸
- 高田郡(広島県安芸高田市)──毛利氏家臣
- 備前
- 津高郡(岡山県岡山市北区)──松田氏家臣
- 備後
- 安那郡・沼隈郡(広島県福山市)──毛利氏家臣
- 沼隈郡(広島県福山市)──桑田氏家臣
- 因幡
- 八上郡(鳥取県鳥取市)──目黒氏家臣
- 阿波
- 那賀郡・名西郡・板野郡(徳島県阿南市)──三好氏、十河氏家臣
- 讃岐
- 香川郡(香川県高松市)──香西氏家臣、生駒氏家臣
文明16年(1484)備前守護赤松氏の被官松田元成の家臣に佐藤式部。
伝承
- 大和国葛上郡高天(奈良県御所市)の佐藤氏が、天正3年(1535)に美作国久米郡(岡山県岡山市北区)に土着したという。
- 下図(図3)の通り子孫が周辺に多数の別家を立てて広がった形跡がある。
ほか、16世紀末ごろ佐藤家信が豊臣秀吉から伊予国周敷郡・浮穴郡に所領を与えられたというが詳細不明。
図3.戦国・安土桃山時代の西日本の佐藤氏の分布
江戸時代
- 因幡・伯耆──鳥取藩
- 出雲・隠岐──松江藩
- 石見──浜田藩
- 備前──岡山藩
- 美作──津山藩
- 備後──福山藩
- 長門──長州藩
- 周防──岩国藩
- 讃岐──丸亀藩
- 阿波──徳島藩
- 伊予──今治藩、西条藩、松山藩、宇和島藩
- 土佐──土佐藩
このうち長州藩士で周防国熊毛郡田布施(山口県田布施町)に居住した佐藤家は内閣総理大臣岸信介・佐藤栄作兄弟を輩出した。同家は継信忠信の子孫を称したが脈絡がない。
図5.現代の中国・四国地方の佐藤氏の分布
参考文献
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