伊賀氏
目次
起源
佐藤朝光の官職「伊賀守」を起源とする。
展開
朝光は,奥州合戦(1189)や比企能員の乱(1203),和田義盛の乱(1213)で功を挙げ,さらに娘が執権北条義時の後妻となるなどして地位を高めた。
朝光の長男光季は,常陸国佐都東郡大窪荘(日立市大久保)・那珂西郡塩籠荘(城里町塩子)の地頭で,京都守護を任じたが,承久の乱(1221)で自害した。所領は子孫が継承した。
朝光の次男光宗は,甲斐国岩間(山梨県市川三郷町岩間)を所領とし,政所執事を任じたが,元仁1年(1224)には妹(義時の後妻)とともに近親者を将軍・執権に擁立しようとした疑惑を北条政子にかけられ,信濃国筑摩郡麻績御厨(長野県筑摩郡麻績村・筑北村周辺)に配流となった。政子の死後には罪を許されて評定衆となり,子光政も引付衆となった。
東北地方
陸奥国
宝治1年(1247)伊賀光宗が磐城郡好島荘(福島県いわき市)西方の預所職を得たことを起源とする。当地は光宗の子光綱(宗綱)の系統によって継承されたが,以後14世紀半ばに至るまで地頭岩城氏らとの相論が繰り返された。
ほか,陸奥国河沼郡高久村(福島県会津若松市神指町高久),武蔵国埼西郡内の各所(埼玉県蓮田市など),常陸国伊佐郡石原田郷(筑西市石原田),信濃国麻績御厨矢倉村(長野県麻績村矢倉)にも所領があった。
南北朝時代には北朝に従って歴戦したが,次第に岩城氏の勢力に押されて衰退した。以後は,飯野郷(いわき市平周辺)地頭として飯野氏を称し,飯野八幡宮の神職として存続した。
関東地方
常陸国
伊賀光季が佐都東郡大窪荘(日立市大久保)・那珂西郡塩籠荘(城里町塩子)地頭職を得たことを起源とする。嘉禄1年(1225)には子季村らに継承されている〔『吾妻鏡』〕が,以後不詳。
甲斐国
光宗が建暦3年(1213)和田義盛の乱の恩賞地として八代郡岩間(山梨県市川三郷町岩間)を得た。戦国時代には,この末流を称する巌間(岩間)氏がいた。
中部・北陸地方
遠江国
幕末の掛川藩年寄。
美濃国
明証はないが,伊賀朝光の子光資が美濃国厚見郡稲葉(岐阜市)を領知したことを起源とするといい,同地の稲葉山城については,建仁1年(1201)に政所執事の二階堂行政が築城し,のちに行政の娘婿・朝光に譲られたと伝える。
鎌倉時代末期以降,美濃国内に伊賀氏の所見があり,正安3年(1301)に美濃守護北条時村の代官と思われる伊賀行定[二郎兵衛尉]が六波羅探題からの御教書を厚見郡茜部荘(岐阜市茜部)の地頭代に通達している〔『東大寺文書』〕ほか,南北朝時代末期には,明徳3年(1392)に伊賀時明(彦十郎)が郡上郡鷲見郷河西河東(郡上市高鷲町鷲見)の地頭職を違乱したとして鷲見氏に訴えられている〔『鷲見家譜』〕。
なお,尾張国には康正2年(1456)中島郡堀津北方(岐阜県羽島市堀津町)の伊賀美作守の納税の記録がある〔『康正二年造内裏段銭并国役引付』〕。
戦国時代は,縁戚関係にあったためか,安東(安藤)氏とも称した。戦国時代前期は,美濃守護土岐氏に属し,伊賀光就(太郎左衛門)が明応年間(1492-1501)に築いたという本巣郡北方城(本巣郡北方町北方)を拠点とした。その後,光就の曾孫守就(定次・友郷)が,土岐氏を経て斎藤氏,のち織田氏に属したが,天正8年(1580)に織田氏から追放され,本能寺の変(1582)後に再起を図るも,姻戚の稲葉氏によって滅ぼされた。
この際,守就の末弟郷氏の子可氏は,幼少であったため討伐を免れ,母の弟山内一豊のもとに身を寄せ,天正13年(1585)から山内氏を称した。その後,慶長6年(1601)に山内一豊が土佐藩主となると,可氏は同藩家老となって幡多郡宿毛(高知県宿毛市)を拝領し,以後子孫に世襲され,明治維新まで存続した。なお,明治年間には伊賀氏に復した。
若狭国
光宗の孫光政は六波羅評定衆で,若狭国遠敷郡税所今富名・津々見保・谷田寺・国富荘(福井県小浜市)・三方郡日向浦(美浜町日向)に地頭職があった。のち得宗支配となった。光宗の弟光重の系統も若狭国遠敷郡西郷・武成名(小浜市)に所領があったが,南北朝時代末期に一色氏の被官となって若狭国を離れた。
近畿地方
丹後国
室町時代末期の竹野郡・熊野郡の国人に伊賀氏の所見がある。長禄年間(1457-60)ごろ,加佐郡志楽荘(京都府舞鶴市)・熊野郡川上新荘(京丹後市久美浜町新庄)に伊賀次良左衛門,熊野郡田村荘(京丹後市久美浜町)に伊賀備中守の所領があった〔『丹後国田数帳』〕。戦国時代には丹後守護一色氏の家臣に所見がある。
山城国
15世紀後半の室町幕府の番衆に,伊賀勘解由左衛門尉〔『永享以来御番帳』〕,伊賀勘解由左衛門〔『文安年中御番帳』〕,伊賀兵庫助氏長〔『長享元年常徳院殿様江州御動座常時在陣衆着到』〕が見える。
摂津国
幕末の摂津国尼崎藩用人。
中国・四国地方
備前国
文永年間(1264-75)ごろ,伊賀氏が備前守護および津高郡長田荘(吉備中央町・岡山市北区)地頭職を得たことを起源とする。
備前国津高郡則安名(岡山県岡山市)は陸奥国好島荘の伊賀盛光から「藤原氏女」に継承された〔『飯野八幡宮文書』〕。
武蔵国豊島郡平塚郷中里(東京都北区中里)にも所領があった〔『毛利家文書』〕。
津高郡長田荘(吉備中央町・岡山市北区)の地頭職は伊賀氏が継承した。式部氏とも称した。荘内の建部郷・賀茂郷・紙工保の地頭も伊賀(式部)氏。
戦国時代には虎倉城を拠点とし,宇喜田氏を経て毛利氏に従い,天正9年(1581)には本領という長田荘と建部郷,宇甘郷(岡山市北区御津宇甘)に加え,赤坂郡仁堀庄・軽部庄(赤磐市仁堀・軽部),御津郡平岡郷・宇垣郷・野々口(岡山市北区御津平岡・宇垣・野々口)などを拝領した。
天正年間ごろ敗れて美作国真庭郡に逃れた。
但馬国
鎌倉時代,朝来郡(兵庫県朝来市)に伊賀氏の所領があった。弘安8年(1285)ごろの朝来郡広谷荘・多々良岐荘(兵庫県朝来市)について「伊賀入道女子跡」とある〔『但馬大田文』〕。
土佐国
幕末の土佐藩重臣。美濃国の項で詳述した山内(安東,伊賀)可氏の子孫。
現代の分布
高松市とその南西の綾川町で最も多く,対岸の岡山市・姫路市でも多い。このほか南相馬市,四万十町,富士市・浜松市・伊豆の国市,和歌山市,武豊町で多い。地理的に瀬戸内海東部は備前伊賀氏,南相馬市は磐城伊賀氏,四万十町は美濃伊賀氏の末流と思われるが,ほかは不詳。
主な参考文献
- 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
- 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
- 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net)