分流編
後藤氏(佐藤氏流)
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目次
起源
後藤氏は,藤原公則の官職名「備後守」か「肥後守」に由来する。
この後藤氏の系統のひとつである秀郷流後藤氏(佐藤氏流後藤氏)は,佐藤能清の弟基清が,後藤実基の養子となったことに始まる。
展開
- 基清は,播磨・讃岐守護に任じた。承久の乱(1221)で処刑された。
- 基清の所領は,丹波国志楽荘(京都府舞鶴市)・伊禰保(宮津市・与謝郡伊根町),伊勢国一志郡川口(三重県津市白山町川口)。
- 子基綱の所領は,丹後国丹波荘(京丹後市峰山町)。
- 孫基重の所領は,多可郡安田荘(兵庫県多可郡多可町八千代区・中区)。
- 同地の子孫は室町時代に赤松氏被官として活動した。
- また,戦国時代まで荘内の公文職を継承した。
伊勢国
系図では,実基─基清─基綱─基隆─基秀─基秋─方綱─藤勝─某(弾正)。後藤基秀[伊勢守]が文応1年(1260)に 三重郡采女郷(三重県四日市市采女町)の地頭となり采女城(三重県四日市市采女町)を築いて拠点とした。基清以下15代の居城であったとも伝える。『尊卑』の基秀の註にある「山田郷地頭」は羽木郷の隣の山田か。永禄11年(1568)藤勝のとき,織田氏により落城。天文5年の加富神社(四日市市波木町または山田町)の修造の願主に後藤方綱とあり,永禄13年の遷宮の願主には後藤藤勝とある。
桑名の西別所城は後藤弥五郎基成によったが,天正1年(1573)織田氏により落城。額田城は後藤太郎左衛門基則で,永禄11年(1568)落城。員弁の宇野城は後藤実基の後裔実重により,永禄年間落城。
丹後国
後藤基清は丹後国丹波郡丹波荘(京都府京丹後市峰山町丹波)地頭職を任じた。建久6年(1195)には子基綱が丹波国志楽荘(舞鶴市)・伊禰保(宮津市・伊根町)を濫妨して訴えられている。その後も当地は後藤氏が継承したらしく,元弘3年(1333)には丹波郷の城主後藤佐渡次郎入道が足利尊氏に属した熊谷直久に攻略された。また,郷内の鶴ヶ尾城(京丹後市峰山町丹波)は後藤駿河守の居城と伝わり,戦国時代末期に織田氏の武将明智光秀・細川藤孝に攻略された。
その他
- 六角氏家臣の後藤氏は秀郷流後藤氏の養子の流れという。
- 越前の後藤氏の祖は佐渡守基清で,基清は越前守護で,のち数代にわたって住んだという。
- 美濃国出身の金工後藤祐乗の先祖は後藤基雄という。
- 讃岐後藤城主の後藤氏は,讃岐守護基清ではなく,中納言藤原家也の12世・後藤石見守資盛が後藤山に居住したので後藤を称したという〔『全讃史』〕。中世,羽床氏の配下に後藤氏あり。近世は生駒氏に仕えた。
主な参考文献
- 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
- 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
- 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net)