本記事は、野口実『伝説の将軍:藤原秀郷』(吉川弘文館,2001)を概略し、若干の補足を加えたものである。

概要

(未記入)

経歴

藤原秀郷にまつわる正確な記録は下表のみである。

表1.藤原秀郷の確実な経歴
#出来事出典
1延喜16年(916)8月朝廷が、下野国司に対し、罪人藤原秀郷、兼有、高郷ら18人を流刑に処するよう命じた(*1)『日本紀略』
2延長7年(929)5月下野国司が藤原秀郷の乱行を制圧するため朝廷に兵力動員のための官符を請求した。『扶桑略記』
3天慶3年(940)2月下野押領使藤原秀郷が常陸掾平貞盛とともに平将門を討伐した。『日本紀略』
4天慶3年(940)3月藤原秀郷の使者が平将門を討伐したことを報告した。『日本紀略』
5天慶3年(940)3月下野掾藤原秀郷が従四位下に叙位された。『日本紀略』
6天慶3年(940)4月藤原秀郷の使者が平将門の首を差し出した。『日本紀略』
7天慶3年(940)11月藤原秀郷が下野守に補任された(*2)『日本紀略』
8天暦1年(947)藤原秀郷が権中納言源高明を通じて、平将門の兄弟が謀反を起こそうとしていることを報告した。『貞信公記抄』

*1: 刑が実際に執行されたか否かは不明。/*2: 『扶桑略記』には、下野守と武蔵守を兼任した、とある。

ここから史実としての秀郷の経歴は次の3点に集約される。

  1. 平将門討伐以前は、反体制的な武装集団の指導的地位にあり、国司にも度々反抗していたこと。
  2. 平将門の討伐の功績によって、下野国司の長官(下野守)に任じられたこと。
  3. 中央貴族(源高明ら)との関係を持っていたこと。

後世の記録に基づく秀郷像

出自

諸系譜によると、秀郷は下野国司の官吏の家系で、左大臣藤原魚名の子藤成の曾孫と伝える。藤成が下野国司に赴任した際、在地豪族の鳥取氏の娘との間に子豊沢を設け、以後下野国に定着したという。

しかし、中央貴族が下野国に土着した前後の経緯は疑念の余地が大きい。特に、魚名と藤成に60歳近い年齢差がある(もしくは存命期間が重ならない)点1や藤成が下野守に補任した記録を欠く点、豊沢やその子村雄が実在した記録を欠く点などを総合的に考慮すると、秀郷を魚名の玄孫と断定することは難しい。

拠点

父祖が下野国の官吏であったとすれば、その職場である下野国衙(栃木市田村町/宮野辺神社付近)の所在した都賀郡とみるのが妥当である。

唐沢山城の秀郷伝承 下野国の武家佐野氏は、同氏の居城である唐沢山城(佐野市栃本町)について「秀郷が築造した」と称してきた。しかし、秀郷が佐野を拠点とした記録はなく、発掘調査の結果からも築造年代は早くて15世紀と推定されている(註)註1: 佐野市「藤原秀郷と唐沢山城跡」(www.city.sano.lg.jp/soshikiichiran/kyouiku/bunkazaika/gyomuannai/4/2/4883.html

所領

平将門討伐の恩賞として所領も得たとは思われるが、正確な記録はない。

  • 相模国田原郷(「結城系図」)。
  • 紀伊国那賀郡田中荘・池田荘信濃国中野牧(『吾妻鏡』寿永3年[1184]年2月21日条)

官位

秀郷が任じた確実な官職は次の通りである。

  • 下野押領使(『日本紀略』)
  • 下野掾(『日本紀略』)
  • 下野守(『日本紀略』)
  • 武蔵守(『扶桑略記』)

このほか、鎮守府将軍に補任されたとする記録(『尊卑分脈』、「結城系図」など)もある。

位階は、従四位下(『日本紀略』)。

武芸

秀郷自身の武芸が優れていたかどうかは同時代史料から読み取れないが、後述のように、鎌倉時代以降の文学作品や歴史書などを見ると、秀郷やその子孫の武芸が高く評価されている。

文学作品での描写

文学作品での描写に着目すると、平安時代末期時点では武芸というよりも、その計略を評されており、武芸で評価されるのは主に鎌倉時代以降のことである。

  • 「もとより古きあり」「古き計の厳しきところ」(『将門記』/平安時代末)
  • 計賢くて」(『今昔物語集』/平安時代末)
  • 「器量人に越え、無双弓の上手なりしか」(『将門純友東西軍記』/室町時代)

『吾妻鏡』での評価

『吾妻鏡』によると、秀郷流の武芸は12世紀には既に文書化され、子孫を中心とする東国武士らによって継承されていた。源頼朝や御家人らも高く評価していたことが窺える。

秀郷流の武芸の承継者とその評価
  • 西行(佐藤憲清)
    • 秀郷の9代孫。京(または紀伊国)の武官。出家して、歌人として各地を放浪した。
    • 源頼朝に面会した際、「秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法」について詳細に講義した(文治2年8月15日条)。
  • 諏訪盛澄
    • 信濃国の神官。平家の家人・御家人。秀郷の子孫ではない。
    • 秀郷朝臣の秘决」を習得した流鏑馬の名人であった(文治3年8月15日条)。
  • 波多野有経(松田有常)
    • 秀郷の12代孫。相模国の武官・御家人。
    • 曩祖に恥じざる達者」と評され、鶴岡八幡宮での流鏑馬でその優れた技術を披露した(文治4年4月3日条)。
  • 下河辺行平
    • 秀郷の9代孫。下総国の武士・御家人。
    • 源頼朝に甲冑を献上する際に「笠標」を付ける位置について問われ「曩祖秀郷朝臣の佳令」として背面に付けることを勧めた(文治5年7月8日条)。また、源頼朝に「弓箭の達者」と評されて、源頼家の武芸の師範に抜擢された(建久1年4月7日条)ほか、北条時房に弓術を指導した際には「譜代の口伝故実等」を述べて源頼朝を感心させた(建久4年8月9日条)。
  • 小山朝政
    • 秀郷の9代孫。下野国の武士・御家人。
    • 朝政の邸宅に、源頼朝が弓馬の得意な御家人たちを連れて訪れ、「旧記」を閲覧したり、「先蹤」を尋ねたりして、流鏑馬の技法について談議した(建久5年10月9日条)。
  • 海野幸氏
    • 信濃国の武士・御家人。秀郷の子孫ではない。
    • 佐藤兵衛尉憲清入道曰く」と前置きして、北条時頼に弓の持ち方を指導した(嘉禎3年7月19日条)。

秀郷流の武芸の実態

一般に、鎌倉武士の規範となった武芸や武具は、11世紀前半の近衛府を中心に確立されたと考えられている。そして、秀郷の子孫たちが、衛府の武官や鎮守府将軍などを務めたのもこの時期である。つまり、秀郷流の武芸は(秀郷自身ではなく)11世紀の秀郷の子孫らによって構築された理論と考えるのが適当であろう。

また、上記の秀郷流武芸の継承者の多くは京との関係が深いことから、武芸やその評価も京で醸成されたものと見られる。

  • 西行(佐藤憲清)は出家前、公卿の徳大寺家に仕え、左兵衛府の武官、鳥羽院の下北面などを務めた。
  • 諏訪盛澄は平家に仕えて長く在京し、城南寺(京都市伏見区)での流鏑馬で有名になった。
  • 波多野有経の在京経験は不詳だが、波多野氏は代々摂関家に仕え、歌人も輩出した。
  • 下河辺行平は摂津源氏の源頼政に仕えて在京していた。小山朝政は行平の甥である。

ムカデ退治の英雄・俵藤太

藤原秀郷は、諸説話集2でムカデ退治の英雄俵藤太として描かれている。その実態は、鎌倉時代初期の説話集『古事談』の説話に、秀郷とその子孫の事績や評価が織り交ぜられた物語であると解される。

俵藤太のムカデ退治伝説(あらすじ) 近江国に赴いた俵藤太が、大蛇(龍神)の化身に頼まれて百足を討伐し、その褒美として宝物を贈られ、さらに竜宮に招かれた。竜宮では鐘を贈られたので三井寺に奉納した。

ムカデ退治について

『古事談』に「近江国の粟津冠者という人物がムカデを退治した」との説話があり、これに「秀郷が朝敵平将門を討伐した」事実や「秀郷の子孫が近江国を拠点とした」事実を重ね合わせたものであると考えられる。

近江国に拠点があった秀郷の子孫
藤原頼行
近江国を拠点とした(『小右記』長和3年[1014]12月25日条)。
藤原公行
近江守を務めた源経頼に近侍し、都と近江国を度々往復した(『左経記』万寿4年[1027]2月26日条など)。
藤原高年
公行の甥。近江国甲賀郡に居住した(『小右記』長元1年[1028]9月8日条)。
藤原脩行
公行の弟。近江国に居住し、近江掾に補任されて近藤太と称した(『尊卑分脈』)。
佐貫広綱
近江国蒲生保を「私領」と主張して押領した(『平安遺文』4145)

三井寺に鐘を施入した点について

同じく『古事談』に「竜宮の釣鐘が三井寺に施入された」との説話があり、これに秀郷の子孫の「平泉藤原氏が三井寺に砂金1,000両を献納し、のちに寺がその金で鐘を購入した」3事実を重ねたものと考えられる。そうすると「竜宮」は、辺境の黄金郷「平泉」を想定したものとも解釈できる。

「俵藤太」の呼称について

『今昔物語集』(12世紀前半ごろ成立)には「俵藤太(田原藤太)」とある。しかし、秀郷が俵藤太を称した正確な記録はない。

「藤太」は藤原氏の長男の意であることに議論の余地はない。一方、「(田原)」については不明で、一般的な武士の名称の傾向からは、所領の地名を指すと考えられる。

実際、秀郷やその子孫と関連がある「田原」地名がいくつかある。

  • 下野国田原
    • 秀郷や秀郷流の諸氏が拠点とした下野国内に河内郡田原(宇都宮市田原)、安蘇郡田原(佐野市田原)がある。
  • 相模国田原
    • 秀郷流波多野氏が拠点とした相模国波多野荘内に田原(神奈川県秦野市田原)がある。「結城系図」によれば、秀郷が当地を領したため俵藤太を称したという。
  • 山城国田原
    • 秀郷流足利氏が拠点とした田原郷(京都府綴喜郡宇治田原町)がある。佐野氏の伝承によれば、秀郷は幼少期を当地で過ごしたため俵藤太を称したという。また、当地には足利忠綱(田原又太郎)の墓碑がある。

遺品・遺跡

秀郷にまつわる遺品や遺跡は、そのほとんどが秀郷流の佐野氏赤堀氏蒲生氏によって継承されてきたものである。つまり、これらも秀郷自身の遺品・遺跡というより、秀郷の子孫により作成および継承(秀郷の遺品・遺跡として捏造または誤伝)されたものである。

  • 十六間四方白星兜鉢(鵜の森神社[四日市市]所蔵)
    • 秀郷所用と伝える。赤堀氏一族の浜田氏が継承した。12世紀ごろの作。
  • 毛抜形太刀蜈蚣切(伊勢神宮所蔵)
    • 秀郷所用と伝える。赤堀氏一族の浜田氏が継承した。「蜈蚣切」は14世紀ごろの作。
  • 毛抜形太刀(宝厳寺[滋賀県長浜市]所蔵)
    • 秀郷所用と伝える。17世紀初めに宝厳寺の復興に際して作製された。
  • 秀郷稲荷(高安寺[東京都府中市]内)
    • 秀郷の居館と伝える。
  • 龍王宮秀郷社(滋賀県大津市)
    • 俵藤太伝説に基づいて近世初頭に蒲生氏によって造営された。
  • 唐沢山城(佐野市栃本町)
    • 秀郷の居館と伝える。実際には、15世紀ごろ佐野氏の居館として造営された。

なお、佐野氏と赤堀氏はいずれも、山城国田原郷の足利忠綱(田原又太郎)と関係する一族である。そうすると、俵藤太(田原藤太)の称が、秀郷の遺産を積極的に保護してきた両氏と縁の深い「田原郷」および「田原又太郎」に因む可能性を補強する。

参考文献

  • 野口実『伝説の将軍:藤原秀郷』(吉川弘文館,2001)

  1. 藤原魚名は、延暦2年(783)7月に63歳で没している(『続日本紀』)から、養老5年(721)生まれである。一方、その子という藤原藤成は、弘仁13年(822) 5月に37歳(『日本紀略』)または47歳(『日本後紀』)で没しているから、延暦5年(786)または宝亀7年(776)生まれである。これらの記録に従えば、魚名は藤成の生まれる3年前に死亡している、もしくは魚名と藤成には55歳の差がある、ということになる。また、藤成は、系譜上の位置が安定せず、藤原房前の子とも藤原良相の子ともあり、魚名の子とするのもそのうちの一説に過ぎない。以上より、魚名と藤成の親子関係は、(養子縁組の可能性も含め)必ずしも成立しないことはないが、安易に肯定できるものでもない。 ↩︎

  2. 『今昔物語集』(巻25,12世紀前半成立)、『太平記』(巻15,14世紀成立)、『俵藤太物語』(17世紀前半成立) ↩︎

  3. 平泉藤原氏(奥州藤原氏)は、経済力を背景に、三井寺のほかにも金剛峯寺、東大寺などに多額の寄進をしている(「高野検校阿闍梨定兼塔供養願文」、『東大寺造立記』など)。 ↩︎

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