「佐藤の起源」「史料から探る佐藤の起源」で示したように、佐藤氏の祖は佐渡守公行と見るのが妥当である。その一方で、歴史上、佐藤氏の起源は統一的な解釈がなく様々な説明がなされてきた。ここでは、それぞれの説の概要とその根拠、問題点を紹介する。

左衛門尉公清説

藤原公清の官職「左衛門尉」に由来を求める説で、姓氏研究の基本図書『姓氏家系大辞典』(太田亮,1934-6)に記載があり、広く認知されている。根拠は『寛政重修諸家譜』の「左衛門尉公清が佐藤を初めて称した」という旨の記述1である。

しかし、「左衛門尉」由来とするならば「佐藤」ではなく「左藤」と表記されるべきである。にもかかわらず、史料の上でも現代の人口においても「左藤」より「佐藤」の表記が極端に多い。

「左藤」と「佐藤」が混用された(あるいは変化・変更した)との見方もあるが、衛門尉の上級の官職は左衛門がある。格式の違う「左」と「佐」の混用は経歴詐称にあたり、考えにくい。

また、古くから混用されてきた名字は最も多い表記と次に多い表記がある程度の比率で残る(図2)。しかし、佐藤と左藤では極端な人口差があり、混用されてきたことが明らかな斎藤と斉藤、渡辺と渡部と比較すると一目瞭然である。やはり佐藤が左藤と混用されてきた事実があったとは言えないだろう。

図1.最も多い表記と2番目に多い表記の人口比

最も多い表記と2番目に多い表記の人口比

数値は『日本姓氏語源辞典』より。は佐藤氏と人口規模が近い名字、は混用されてきたことが明らかな名字。サトウのみ3番目に多い表記(左藤)を含む。

そもそも、根拠とする『寛政重修諸家譜』掲載の佐藤氏の系図は、鎌倉時代から戦国時代ごろまでの9代(推定200年以上)の実名が不詳で、戦国時代以前の記述の信用度に問題がある。加えて、全国に現存する佐藤氏の系図のうち「左衛門尉公清に由来する」と明記のあるの系図は1点(山形県庄内町宮曽根の系図)のみである2

以上、左衛門尉公清説は古くからある説ではあるが、多くの問題を抱えている。

佐渡守公清説

藤原公清の官職「佐渡守」に由来を求める説で、仙台藩の系図集『伊達世臣家譜』をはじめ東北地方の多数の系図に記載があり、特に近世の陸奥国で主流であった説である。

ただし、次項で詳述するが、公清の兄弟やその子孫も佐藤を称しており、佐藤氏の祖は公清よりも前の世代の人物と見るべきである。加えて、公清が「佐渡守」であった記録は陸奥国の系図にしかなく、信用に欠ける。よって、「佐渡守」であった正確な記録が残る公清の祖父公行を氏祖と考えるべきである3

佐渡守公行説

藤原公清の祖父公行の官職「佐渡守」に由来を求める説で、これまでの説とは異なり、複数の信頼できる文献史料から立証でき、現状は最も信用度が高い

「佐藤の起源」で示したように、鎌倉時代以前に成立した史料中で「佐藤」を称した記録のある人物を系譜上に落とし込むと、公清の子孫だけでなく、公清の兄弟たちの子孫も「佐藤」を称しており、佐藤氏は公清を起点としていないのである。さらに、公清が「佐」を含む官職に補任された記録はないのに対し、その祖父公行が「佐渡守」であったという当時の日記が残存する。このことから、佐藤氏の祖は佐渡守公行である可能性が高い。

その一方で、佐藤氏の系図の多くが公清を氏祖とするのに対し、公行を氏祖とする系図は1点もない。

その他の説

佐野の藤原氏説

下野国安蘇郡佐野(栃木県佐野市周辺)の地名に由来を求める説で、『姓氏家系大辞典』で「異説」として扱われているにもかかわらず、比較的多くの書籍で紹介されている。

しかし、この説は、宮本も指摘するように、16世紀後半ごろの武士池沢忠藤が「佐藤の郷」に住んで佐藤に改めたという『寛政重脩諸家譜』にある系図の記述4を元にした説明で、時代的にも系譜的にも佐藤氏とはほとんど関係がない

さらにこれを飛躍させて、10世紀の下野国の豪族藤原秀郷と結びつける強引な説もあるが、根拠のない空論である。そもそも、秀郷が佐野を拠点としていた明証はなく、戦国時代の領主佐野氏の虚飾と見るのが妥当である5。そして、確かに佐藤氏は秀郷の子孫ではあるが、関東を離れ、都に進出した一族であり、氏祖とされる公行や公清らは衛府の武官として活動している。

また、公行・公清らの一族とは別の藤原氏が「佐野」の地名から佐藤を称したとの説明もある6が、これもまた証拠がない。

佐伯藤原氏説

『尊卑文脈』や九州地方の系図で公清の父公光に佐伯氏出身の経範という養子(または娘婿)がいた旨の記述があることに基づく説で、佐藤清隆(1981)が主張した。ただし、佐伯氏に由来すると明記のある史料はない。

なお、公光が佐伯経範を養子としたことは、経範の子孫が佐藤氏を称していること7から概ね信用してよいと思われる。しかし、佐伯氏とは関係のない経範以外の兄弟の子孫も佐藤を称している点を説明できない。

ほか

  • 奥富(2008)は、官名「佐渡守」を支持しているが、公清か公行かについては明言がない。
  • 宝賀(1986)は、文行(公清の曽祖父・公行の父)の官職「佐渡守」に由来する説を支持している。根拠は不明だが、何らかの系図での記述と推定される。ただし、これまで見てきたように「佐渡守」の正確な記録があるのは公行のみである。
  • 森岡(2011)・萩本(2018)が官名「兵衛佐または衛門佐」説を記載している。しかし、衛門佐・兵衛佐に就いていた人物が「佐藤」を称した記録はない8

参考文献(年代順)

左衛門尉公清説

  • 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-6)
  • 豊田武『苗字の歴史』(中央公論社,1971)
  • 佐久間英『日本の苗字』(谷川商事,1968)
  • 武光誠『日本の名字』(角川学芸出版,2015)

佐渡守公清説

  • 菅野円蔵『大鳥城記』(飯坂町史跡保存会,1970)
  • 佐藤徳蔵『秋田県「佐藤一族」の系譜と伝承口碑』(秋田文化出版社,1984)
  • 宮本洋一『日本姓氏語源辞典』(示現舎,2019)

佐渡守公行説

  • 野口実『中世東国武士団の研究』(戎光祥出版,2021)〔高科書店,1994〕
  • 「佐藤の起源」

佐野藤原氏説

  • 丸山浩一『姓氏苗字事典』(金園社,1985)
  • 丹羽基二『日本姓氏事典』(新人物往来社,1990)
  • 吉成勇『別冊歴史読本:日本姓氏由来総覧』(新人物往来社,1998)
  • 高信幸男『トク盛り「名字」丼』(柏書房,2019)

佐伯藤原氏説

  • 佐藤清隆『佐藤一族:家系と歴史』(東洋書院,1981)

その他

  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』(古代氏族研究会,1986)
  • 奥富敬之『日本家系・系図大事典』(東京堂出版,2008)
  • 森岡浩『名字でわかる日本人の履歴書』(講談社,2011)
  • 萩本勝紀『あなたの名前で先祖がわかる』(BABジャパン,2018)

  1. 「秀郷七代左衛門公脩(寛永系図惣括及び尊卑分脉に公清に作る)佐藤を称し、公脩五代三郎左衛門師信がときより佐藤をもつて家号とす」(『寛政重脩諸家譜』第5輯、巻834、国民図書、1923)とある。なお、野口(2021)によれば、「公脩」は公清の弟「公季(公仲)」の異表記または別名と見るべきで、同一人物ではない。 ↩︎

  2. 「家伝から探る佐藤の起源」より。 ↩︎

  3. 「佐藤の起源」より。 ↩︎

  4. 「先祖池沢四郎忠藤は那須安芸守資忠が四男なり。子孫下野国佐藤の郷に住するにより、佐藤をもつて家号とすといふ」 〔『寛政重脩諸家譜』8(国民図書,1923)〕 ↩︎

  5. 秀郷の拠点は同時代史料では確認できない。また、佐野氏が延長5年(927)に秀郷が築城したと伝えてきた唐沢山城(佐野市富士町・栃本町)は、早くても15世紀後半ごろの築城であることが明らかになった。〔齋藤慎一『中世東国の領域と城館』(吉川弘文館,2002)頁160〕 ↩︎

  6. 「地名ルーツの『佐藤』もあります。下野国佐野(今の栃木県)に住んだ藤原氏[……]の子孫も、『佐』の字を使って佐藤と名乗りました」〔森岡浩『名字でわかる日本人の履歴書』(講談社,2011)頁168〕とあるが、根拠が不明。前述の『寛政重脩諸家譜』に基づくとすると、現代のほとんどの佐藤氏とは関係ない。 ↩︎

  7. (「鎌倉時代以前の佐藤氏の系譜的位置関係」)[/detail/before-kamakura/]参照。このほか『続群書類従』所収の「秀郷流系図 松田」「秀郷流系図 波多野」「佐野松田系図」などでも経範の子孫に「佐藤」の傍注が多数ある。 ↩︎

  8. なお、当サイトの調査では、佐藤氏の系図では山形県酒田市小泉の系図に藤原文行の「左衛門佐」に由来する趣旨の記録を確認したが、同様の系図はなく、他の史料での裏付けもなく、「衛門佐・兵衛佐」説は信用し難い。 ↩︎

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