鎌倉時代

図1.鎌倉時代の関東・中部地方の佐藤氏の分布
鎌倉時代の中部地方の佐藤氏

記録

14世紀前半、元弘の乱の倒幕軍に越後国の佐藤氏が見えるほかは正確な記録がない。

  • 元弘3年(1333)越後国の佐藤兵衛太郎入道見阿が葛西谷合戦(神奈川県鎌倉市)での戦闘に反幕府軍として参加した。
    • 出自不詳。越後国蒲原郡福雄荘・三島郡吉河荘の地頭池氏と並んで記録されており、蒲原郡・三島郡には佐藤氏の記録・伝承(後掲)が多いことから、この周辺を根拠した武士・領主層の人物と思われる。

ほか、伊賀氏が甲斐国に、尾藤氏が信濃国に所領を得ている。

  • 建保5年(1217)伊賀光宗が甲斐国岩間牧(山梨県西八代郡市川三郷町岩間周辺)に所領を得た。
  • 寿永2年(1183)に尾藤知宣が信濃国中野牧(長野県中野市)の領有を幕府に承認された。
    • 13世紀前半ごろの信濃国中野牧(長野県中野市)の領主に中野佐藤太が見え、尾藤知宣の子孫と思われる。

北陸では加賀国と越前国の住人に佐藤氏が既に確認できる。

  • 元亨4年(1324)加賀国能美郡軽海郷(石川県小松市軽海周辺)の住人に佐藤次郎。
  • 弘安9年(1286)越前国河口荘兵庫郷(坂井市坂井町兵庫)の住人に左藤氏。
  • 元応1年(1319)越前国坪江下郷三国湊(坂井市三国町)の住人に左藤権守。

伝承

奥州合戦(1185)後に越後国三島郡(新潟県)や甲斐国郡内地方(山梨県)、信濃国佐久郡(長野県)に来住したという伝承があるが明証はない。

越後国三島郡

  • 三島郡与板(長岡市与板町)の系図によれば、奥州合戦(1185)の際に陸奥国信夫郡の佐藤清信の子義信が寺泊(長岡市寺泊)に落ち延びたという。
    • また、中山(出雲崎町中山)には佐藤忠信の子孫、井鼻(出雲崎町井鼻)には佐藤継信の子孫と伝える家がある。
    • 継信忠信兄弟の母乙和御前(音羽の前)に関する伝承もある。
      • 三島郡出雲崎(三島郡出雲崎)の民謡「出雲崎おけさ」は乙和御前が継信・忠信兄弟が立派な最後を遂げたと聞いて、袈裟のまま踊ったことに始まるという。
      • 井鼻(出雲崎町井鼻)の地名は乙和御前が息子らの冥福を祈って立てた「湯の花」に由来するという。
  • 15・16世紀の蒲原郡菅名荘(新潟県五泉市)の菅名氏は、先祖の佐藤義忠が信夫郡から寺泊(長岡市寺泊)に移住したのち、その五男の忠栄が菅名荘に領地を得たことに始まるという。
  • 他国でも信夫佐藤氏が越後国に移ったという伝承が多数ある。伊勢国一志郡の系図では佐藤元治の孫師隆が二田神社領(柏崎市西山町二田/物部神社)を得たという。美作国久米郡の系図にも師隆が越後国に移住したとある。出羽国飽海郡の系図では師隆ではなく継信の長男・義信が高田(上越市)に移住したという。

甲斐国八代郡・山梨郡

  • 寿永4年(1184)佐藤三郎兵衛信重と師重の兄弟が、甥の継信忠信兄弟の安否を尋ねて、陸奥国から甲斐国に来て留まっていたが、翌年継信が戦死したとの知らせを聞いたため、兄・信重は日影(甲州市大和町日影)に、弟・師重は菱山(甲州市勝沼町菱山)に土着したという。
    • 相模国津久井郡(神奈川県相模原市緑区)では鎌倉時代に甲斐国から移住してきたと伝える家があり、実際に古くからいた可能性もあるが、正確な記録に登場するのは戦国時代になってからである。

信濃国佐久郡

  • 14世紀初頭、佐久郡軽井沢(長野県北佐久郡軽井沢町)に佐藤氏が土着したという。

南北朝時代

図2.南北朝・室町時代の関東・中部地方の佐藤氏の分布
南北朝・室町時代の中部地方の佐藤氏

記録

南北朝の動乱の中で諸国を転戦した陸奥国信夫郡(福島県福島市)の佐藤氏の総領家が、観応の擾乱(1350-1352)の後、南朝の北畠氏に招かれて伊勢国一志郡に拠点を移した。

  • 14世紀前半、信夫佐藤氏の総領佐藤十郎左衛門入道性妙が北朝に従って各地を転戦した。観応の擾乱(1350-1352)後には、南朝の伊勢国司・北畠氏に招かれて伊勢国に拠点を移した。北朝の伊勢守護・仁木氏にも従って軍功を上げ、一志郡神戸(津市神戸)などに所領を得た。
    • 当家の系図によると、性妙は信夫庄司佐藤元治の弟白河太郎師泰から8代目の子孫。
    • 伊勢国のほか、相模国や近江国、摂津国にも所領を得た。

また、越後国蒲原郡に佐藤氏の記録あり。

  • 観応1年(1350)越後国蒲原郡の如法寺(三条市如法寺)に北朝の佐藤氏が陣営を構えた。
    • 反鎌倉幕府軍に記録がある佐藤兵衛太郎入道見阿(先掲)の一族か。

若狭国にも「佐藤」を含む人名が見えるが、この「佐藤」は名字というより個人名と思われる。

  • 暦応4年(1341)若狭国遠敷郡太良荘(福井県小浜市太良庄)住人に佐藤太。
    • 佐藤太の兄は紀藤太(または木藤太)を称しており、この佐藤は名字ではなく通称を指すと思われる。

伝承

越後国三島郡に佐藤氏がいたというほか、美濃国、駿河国にこの頃来住したという伝承があるが明証はない。

  • 貞治年間(1362-68)荒城(三島郡出雲崎町稲川滝ノ入)の城主佐藤孫次郎が上杉憲顕に敗れた。
  • 永和4年(1376)佐藤源太郎信弘が陸奥国から越後国魚沼郡に来住した。
    • 先祖は藤原清衡の弟遠衡(不詳)と伝える。なお、清衡の子孫を称する家は陸奥国磐井郡永井(岩手県一関市花泉町)にある。
    • 子孫はその後上野国甘楽郡に転出し、小幡氏に仕えた。
  • 14世紀後半ごろ、佐藤源左衛門尉高清が美濃国土岐郡の土岐頼康[在位:1342-88]に仕えた。
    • 子孫はその後斎藤氏を経て、織田・豊臣・徳川氏に仕えた(後掲)。
  • 14世紀末ごろ、南朝の新田氏の家臣佐藤太郎兵衛尉家信が信濃国伊那郡(?)に居住し、子の小藤太倫信のとき出羽国村山郡に移った。
  • 14世紀ごろ、佐藤氏が駿河国安倍郡日向(静岡県静岡市葵区日向)に土着した。

室町時代

伝承

伊豆国田方郡に住んだというが明証はない。

  • 15世紀前半、伊豆国那賀郡(西伊豆町周辺)・大嶋郡(東京都大島町)の地頭佐藤大隈守忠義が、上杉禅秀の乱(1416)で中立的な立場を取ったために所領を没収されて、田方郡蛭ケ島吉村(伊豆の国市四日町)に移住した。
    • この子孫は戦国時代には白河結城氏に仕えて陸奥国白河郡に土着したというが、その間の経緯は不明。
    • なお、15世紀末からは田方郡大見郷(伊豆市柳瀬・八幡)に、16世紀前半には田方郡横山郷(伊豆市城)、長浜郷(沼津市内浦)に佐藤氏が見え関連が窺われる。

ほか、若狭国の住人に「太郎左藤次」が見えるが、名字というより個人名の一部と思われる。

  • 正長2年(1427)若狭国遠敷郡太良庄(小浜市太良庄)の無宿人に太郎左藤次。

戦国・安土桃山時代

  • 越後
    • 岩船郡(村上市)──鮎川氏家臣
    • 岩船郡・蒲原郡・魚沼郡(新潟県村上市・三条市・魚沼市など)──上杉氏家臣
  • 甲斐
    • 都留郡・山梨郡(山梨県甲州市など)──武田氏→北条氏家臣
  • 信濃
    • 佐久郡軽井沢(長野県北佐久郡)──武田氏→真田氏→北条氏家臣
    • 伊那郡(長野県駒ヶ根市)──武田氏→保科氏家臣
  • 伊豆
    • 田方郡(静岡県伊豆市)──狩野氏→北条氏家臣
  • 駿河
    • 安倍郡(静岡県静岡市葵区)──今川氏→武田氏→北条氏家臣
  • 美濃
    • 多芸郡(岐阜県養老町・海津市)──志津山城主
    • 武儀郡・加茂郡(美濃市・関市・富加町など)──土岐氏→斎藤氏→織田氏→豊臣氏→徳川氏家臣
  • 伊勢
    • 一志郡・鈴鹿郡(三重県松阪市・鈴鹿市)北畠氏>神戸氏・木造氏→織田氏家臣
      • 南北朝時代の信夫佐藤氏の総領家の子孫。本家は天文11年(1542)北畠氏から家臣と所領を没収されて浪人となったが、天文24年(1555)に復帰して所領を返還された。

ほか、以下の記録・伝承がある。

  • 文明14年(1482)加賀国石川郡赤土村(石川県金沢市赤土)住人に佐藤六。
  • 天正1年(1573)甲斐国上吉田宿の御師に佐藤孫右衛門ほか。
  • 16世紀後半ごろ(?)、信濃国佐久郡に越後国出身の佐藤氏が来住した。
  • 天文12年(1543)伊豆国田方郡横山郷(伊豆市城)の住人に佐藤藤左衛門、天文13年の(1544)田方郡長浜郷(沼津市内浦)の代官に佐藤氏。
  • 16世紀後半ごろ、伊勢国鈴鹿郡原村(鈴鹿市東庄内町)の住人に佐藤氏。
  • 元亀2年(1571)ごろの尾張国海東郡西保市江村に佐藤明見(旧名:佐々木祐成)、16世紀末ごろの海東郡佐屋村(愛西市佐屋町)に佐藤彦八郎。
図3.戦国・安土桃山時代の関東・中部地方の佐藤氏の分布
戦国・安土桃山時代の中部地方の佐藤氏

ほとんどは主家の滅亡・没落と共に帰農した。江戸時代まで武家として続いたのは上杉氏や武田氏、徳川氏に仕えた一部の家のみである。特に美濃国加茂郡伊深(美濃加茂市伊深町)の佐藤家は江戸幕府の旗本として江戸に移住した。

江戸時代

  • 越後──高田藩、新発田藩
  • 越中──富山藩
  • 加賀──加賀藩
  • 越前──福井藩
  • 信濃──高遠藩(→出羽・山形藩→陸奥・会津藩)
  • 三河──吉田藩、田原藩、西尾藩
  • 尾張──尾張藩、尾張藩>犬山藩
  • 伊勢──亀山藩
図5.現代の中部地方の佐藤氏の分布
現代の中部地方の佐藤氏の分布

参考文献

公開   更新