この記事では佐藤氏の起源(いつ・誰が始めたか、意味・目的は何か)について国内各地に伝来する史料から検討する。

「佐藤」が史料上に現れるのはいつか

 まず、文書(特定の相手に向けた法務・実務上の書類)と記録(不特定多数の読者に向けた著作物・編纂物)を確認する。史料編纂所の各種データベースを利用して、12世紀以前の「佐藤」を冠する人名を検出した(表1)。この時点で既に国内各地に佐藤氏が広まっている。

表1.12世紀以前の文書・記録上の佐藤氏一覧(年代順)
# 人名 時点 地点 記述 出典
1 明算 嘉承1年(1106)11月 紀伊国伊都郡 釈明算姓佐藤氏〔……〕嘉承元年十一月十一日寂、年八十六 『元亨釈書』巻4,彗解2-3
2 佐藤憲清(西行) 保延6年(1140)10月 山城国? 佐藤右兵衛尉憲清出家年廿三号西行法師 『百錬抄』保延6年10月15日条
3 佐藤太 承安3年(1173)3月 山城国葛野郡 此内八尺ハ西口字佐藤太ニ放了 「阿闍梨大法師私領地売券」(『東寺百合文書』メ/『平安遺文』3624)
4 佐藤三郎兵衛尉継信
佐藤四郎兵衛尉忠信
文治1年(1185)2月 讃岐国山田郡 左藤三郎兵衛尉継信、同四郎兵衛尉忠信 『吾妻鏡』文治1年2月19日条
5 佐藤左衛門尉能清 文治2年(1186)5月 紀伊国那賀郡 被裁断為左藤左衛門尉能清〔……〕親父仲清 『高野山文書宝簡集』二十七(『平安遺文』108)
6 佐藤左衛門増包
佐藤近衛俊信
文治4年(1188)3月 山城国宇治郡 左藤左衛門増包〔……〕佐藤近衛俊信〔……〕已上下北面 『桜会類聚』文治4年3月11日条
7 佐藤庄司(湯庄司) 文治5年(1189)8月 陸奥国信夫郡 泰衡郎従佐藤庄司、又号湯庄司、是継信、忠信等父也 『吾妻鏡』文治5年8月8日条
8 佐藤三郎秀員 文治5年(1189)8月 陸奥国伊達郡 討取佐藤三郎秀員父子、国衡近親郎等 『吾妻鏡』文治5年8月9日条
9 左藤三藤原盛高 建久5年(1194)8月 河内国交野郡 可早以左藤三藤原盛高為地頭職事右人 「将軍家政所下文案」(『筑前大倉氏採集文書豊田家文書/『鎌倉遺文』738』)
10 佐藤太 建久7年(1196) 山城国紀伊郡 佐藤太 (「拝志御庄九条御領田畠坪付注文」『東寺百合文書』/『鎌倉遺文』968)

「人名」は原文ママ、「地点」は記述内容の中心となったおおまかな場所、「記述」は「出典」からの引用。同一人物についての文書・記録が複数ある場合は「佐藤」を冠した最も古いものを掲載した。

 (1)と(2)は後世になってから編纂された史料であるから、厳密には(3)すなわち承安3年(1173)3月の佐藤太が最も古い用例である。よって「佐藤」が史料上に現れるのは12世紀後半からである。なお、(1)明算は、高野山の僧侶で、長元4年(1031)に出家しているが、出家前の姓が「佐藤」であったという。この記述がある『元亨釈書』は元亨2年(1322/明算の死去から200年後)に成立した史料であるから完全に信用するわけにはいかないものの、早ければ11世紀初頭時点で既に「佐藤」は誕生していた可能性もある。

要点(佐藤氏の始称時期)
  1. 佐藤氏が“確実な”史料上に現れるのは12世紀後半からである。
  2. ただし、早ければ11世紀初頭には既に使われていた可能性もある。

「佐藤」を称したのはどのような一族か

 つづいて、表1の人物たちを『尊卑分脈』に落とし込んだ(図1)。人物の位置関係については推定に頼らざるを得なかった部分もあるが、表1の人物たちはひとつの系図に収まる同族で、11世紀前半の武官藤原公光から始まる一族であることがわかる。

図1.12世紀以前の文書・記録上の佐藤氏の系譜
  • 公行
    • 公光
      • 公清
        • 季清
          • 康清
            • 仲清
              • 能清
            • 憲清西行
          • 清兼
            • ③または⑩公康佐藤太
              • 行清
          • 公俊
            • 兼俊
              • □□
                • 増包
                • 俊信
      • 経範
        • 経秀
          • 秀遠
            • 遠義
              • 義通
                • 高義
                  • 盛高
      • 公季
        • 公助
          • □□
            • □□
              • 元治佐藤庄司
                • 継信
                • 忠信
              • 秀員
      • 明算

丸付き数字は表1に対応する。ただし、(2)(5)(9)以外の人物は『尊卑分脈』に記載はない。(3)と(10)の佐藤太が同一人物であるかどうかは断定できないが、公康の註に「佐藤太」とあることから暫定的に示した。その他の人物の位置についての推定の根拠については「鎌倉時代以前の佐藤氏」参照。

 公光は、平将門の乱(940)を鎮定した関東の豪族藤原秀郷から6代後の子孫で、秀郷の子孫のうち京に進出して朝廷の武官を代々務めた家系の出身である。公光自身は「左兵衛権少尉」(『江家次第』長元9年[1036]条)、「検非違使」(『藤氏長者宣』永承2年[1047]2月21日条)のほか「相模守」(『尊卑分脈』)などを務めている。

 この公光の子孫たち、すなわち最初期の佐藤氏についてさらに補足する。まず、公光の嫡子公清の系統は、紀伊国那賀郡(和歌山県紀の川市)を拠点に朝廷の武官として院や摂関家に近侍した。歌人で僧侶の西行(本名佐藤憲清)が有名である。続いて経範の系統は相模国波多野荘(神奈川県秦野市)を拠点とし、源氏の郎党や朝廷の武官として活動し、波多野氏とも称した。公季の系統もまた院や摂関家に近侍した形跡がある。奥州藤原氏に仕えた陸奥国信夫郡(福島県福島市)の領主元治らはこの中では異色の存在である。系図も不安定で、公季の系統とするものや公清の子公郷の系統とするものがあり、本当に公光の家系であったかどうか疑問も残る。いずれにせよ軍事貴族と呼ばれる貴族と武士(領主)の中間の階層に属する人物たちである。

要点(最初期の佐藤氏)
  1. 佐藤氏は11世紀前半の武官藤原公光の子孫たちが称した名字である。
  2. 藤原公光やその子孫たちは軍事貴族と呼ばれる、貴族と武士の中間の階層の一族である。
  3. 藤原公光の子孫たちの拠点は、平安時代末時点では京都のほかに紀伊国相模国陸奥国など各地にあった。

「佐藤」は何を意味するか

 では、この「佐藤」は何を意味するのか。

 そもそも、現代においても一般的な「藤」で終わる名字(伊藤、加藤、斎藤、後藤など)は、そのほとんどが(1)官職の1字と藤原氏の藤を合成したもので、(2)11世紀前後の軍事貴族(軍事を専門とする下級貴族)の藤原氏によって創始されたことが分かっている。〔cf. 「藤で終わる名字」

 つまり、佐藤氏は「佐」を含む官職に由来する可能性が高い。ただ、公光が任じた官職は「左兵衛権少尉」「検非違使」「相模守」しか分かっていない。そこで、公光の父公行についても調べてみると、『左経記』と『中右記』に公行が「佐渡守」であった記述がある。したがって、無論公光も「佐渡守」に就いた可能性が全くないわけではないが、史料上確認できる範囲では佐藤氏は佐渡守藤原公行に由来する可能性が高い。

 さらに、公行の弟脩行近藤氏の祖であることも付け加えておきたい。すなわち、佐藤氏、近藤氏という称は、兄の家系と弟の家系とを呼び分ける目的で使われ始めたかもしれない、ということである。実際、氏祖が兄弟の関係にあることは少なくない。例えば秀郷流藤原氏では、山内俊通と小野寺義寛、少弐資頼と大宝寺氏平、足利成行と太田行尊、小山政光と下河辺行義などはみな兄弟である。

要点(佐藤の意味)
  1. 佐藤氏は11世紀初頭の武官藤原公行の官職「佐渡守」に由来する。
  2. 佐藤氏の祖公行の弟は近藤氏の祖脩行で、この兄弟の家系を呼び分けるために両名字が誕生した可能性がある。

諸系図にみる「佐藤」の由来

 以上、文書と記録から佐藤氏の起源を探ってきたわけだが、この項では諸家の系図に着目したい。上述のように、文書と記録から佐渡守藤原公行こそが佐藤氏の祖であろうと思われるが、どういうわけか系図の記述においては公行の孫公清が氏祖であるとの説明が根強いのである。

「佐」の意味と氏祖

 国内各地に伝来する佐藤氏の系図約50点を点検すると、「佐」の意味に言及する系図は9点だけあった。内訳は「藤原公清の佐渡守」由来が7点、「藤原文行の左衛門佐」由来と「藤原公清の左衛門尉」由来が各1点である。ただし、公清が佐渡守であった記録はなく、文行が左衛門佐であった記録もなく、単純に信用はできない。唯一、公清が左衛門尉であった記録はあるが、“左”衛門尉にもかかわらず(“左”藤ではなく)“佐”藤の表記が定着している理由が説明できない。よって、いずれも客観性がない

 また、「佐」の意味に言及はしていないが誰が氏祖か言及しているものは上述の9点を含めて計19点あった(表2)。最も多くの系図で氏祖とされたのはやはり公清で12点、次いで文行と公郷が各2点、ほか公俊、公脩、秀清が各1点である。そして、氏祖の官職について言えば、公郷の「尾張守」と文行の「左衛門佐」を除くと全て「左衛門尉」であった。佐藤氏が左衛門尉藤原公清由来であるとミスリードされるのも無理はないと思えるほどである。

表2.諸系図での佐藤氏の由来に関する記述
系図所在地「佐」の意味氏祖(官職)
永井系図岩手県奥州市佐渡守公清(左衛門尉)
岩谷堂系図岩手県一関市佐渡守公清(左衛門尉)
小斎系図宮城県丸森町佐渡守公清(左衛門尉)
本荘系図秋田県由利本荘市×秀清(左衛門尉)
小泉系図山形県酒田市左衛門佐文行(左衛門佐)
宮曽根系図山形県庄内町左衛門尉公清(左衛門尉)
桑折系図福島県桑折町佐渡守公清(左衛門尉)
国見系図福島県国見町佐渡守公清(左衛門尉)
立町系図福島県福島市佐渡守公清(左衛門尉)
荒井系図福島県相馬市佐渡守公清(左衛門尉)
町屋系図福島県白河市×公清(左衛門尉)
佐野川系図神奈川県相模原市×公郷(尾張守)
南中系図新潟県長岡市×公郷(尾張守)
伊深系図岐阜県美濃加茂市×公脩(左衛門尉)
川小牧系図岐阜県富加町×公清(左衛門尉)
八幡系図岐阜県武芸川町×公清(左衛門尉)
三明寺系図岡山県岡山市×文行(左衛門)
伊月系図徳島県阿波市×公清(左衛門尉)
上秣系図大分県中津市×公俊(左衛門尉)

各系図の詳細は「参考系図一覧」参照。

藤原公清は氏祖ではない

 しかし、やはり公清は氏祖とは言えない。まず、図1で見たように、佐藤氏は公行および公光の子孫を指す名字であり、公清の子孫だけの名字ではなく、公清の兄弟の子孫もまた佐藤氏を称している。そして、公清が「佐渡守」など「佐」を含む官職についた確実な記録はなく、祖父の公行が「佐渡守」であった確実な記録がある。この史実が佐渡守公行説を決定的にしている。

 また、佐藤氏の諸系図の信用度についても言及しておきたい。佐藤氏の系図のうち比較的伝来がはっきりしているのは、『尊卑分脈』(14世紀末成立)と『佐藤家文書』内の家譜(14世紀後半成立1)の2点で、前者は上述した平安末期から鎌倉初期の公行の子孫たち、後者は陸奥国信夫郡の総領家(元治の子孫たち)に伝来した系図である。しかし、この2点のどちらにも「佐」の意味・氏祖についての記述はない。つまり、14世紀末時点の近畿においても信夫郡の総領家においても、既に佐藤氏の由来は伝わっていなかったということを意味し、佐藤氏祖としての「佐渡守公清」「左衛門尉公清」などはあくまで後世の解釈に過ぎないのではないだろうか。

なぜ藤原公清を氏祖とする系図が多いか

(作成中)


  1. この系図の成立時期について、同文書内で永和4年(1378)に父・基清が子・清基に系図を譲ったとの記述がある点、系図が清基以前と以後で区別されている点から、清基以前の記述については14世紀後半に成立していたと考えられる。〔福島市史編纂委員会編『福島市史』6(福島市教育員会,1969)頁191-195〕 ↩︎

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