鎌倉時代

記録

13世紀後半から九州各地に佐藤氏の記録が見えはじめる。ただし出自はいずれも不明。

  • 建治2年(1276)日向国宮崎庄(宮崎市南方町)の地頭代に佐藤左衛門尉。
    • 宮崎荘は推定では関東御領で、弘長1年(1261)ごろから大江氏が預所兼地頭を務めている。「左衛門尉」の通称からは、評定衆の佐藤氏か波多野氏の系統と思われるが確証はない。
  • 正応6年(1293)豊前国宇佐郡の住人に佐藤入道。
  • 徳治3年(1308)筑後国三潴郡西牟田の住人に佐藤氏。
  • 正和3年(1314)豊後国速水郡大片平の住人に佐藤氏。

また、仁治2年(1241)に幕府評定衆佐藤業時が(何らかの政治的対立から)九州に流罪となったが、2年後の寛元1年(1243)に許されて鎌倉に戻った。

伝承

鎌倉時代に豊後国・日向国に土着したと伝えるが、年代と出身地については次の3パターンがある。

  1. 12世紀末に相模国から
  2. 12世紀末に陸奥国・出羽国から
  3. 13世紀後半に陸奥国から

それぞれの詳細は以下の通り。

  • 12世紀末──相模国出身
    • 建久7年(1196年)に相模国大友郷の御家人大友能直が豊前・豊後守護に任じられたため、一族の河村佐藤伊豆守時秀が相模国から大野郡栗ヶ畑(豊後大野市犬飼町栗ケ畑)に来住した。ほか、同じく一族の波多野佐藤武者信景も相模国から来住したという。
      • 大友氏が守護に任じられたこと、河村氏や波多野氏が佐藤氏を併称したことは、他の正確な記録からも確認できる。
  • 12世紀末──陸奥国・出羽国出身
    • 12世紀末ごろ、陸奥国出身の佐藤治部大夫秀儁が大分郡稙田(大分県大分市稙田町)の荘官となって繁美城(大分市野津原大田)に居住し、その嫡子佐藤一郎右衛門儁行は大友能直に従って来住したという。
    • 正治1年(1199)佐藤出羽庄司が由布岳の西麓に来住したという。
      • 一般には陸奥国信夫郡の豪族「信夫庄司元治(家信)」が知られているが、「出羽庄司」の呼称も時折見られる。山形県米沢市には出羽庄司正信の別邸という「花沢館」(米沢市駅前3丁目/佐氏泉公園)の遺跡が現存するほか、「出羽庄司秀信」を載せる系図が岩手県下閉伊郡山田町、新潟県長岡市与板町、岐阜県加茂郡富加町(および相模原市緑区)、徳島県阿波市市場町に、「出羽庄司正信」を載せる系図が福島県白河市大信にある。
    • 12世紀末ごろ、陸奥国出身の佐藤二郎忠治入道道元が、父忠信が戦死したため母に連れられて日向国宮崎郡浮田(宮崎県宮崎市)を経て日向国臼杵郡上野(宮崎県西臼杵郡)に来住したといい、道元の子のうち兄・忠元の子孫は大友氏に、弟・継元の子孫は三田井氏に仕えたという。
      • 忠治が宮崎郡浮田から来て、その子・兵庫允基信が臼杵郡に来住した、との伝承もある。
      • 確実な史料では、大友氏家臣には14世紀前半から、三田井氏家臣には15世紀末から佐藤氏が見える。
  • 13世紀後半──陸奥国出身
    • 文永の役(1274)後に佐藤継信の孫・佐藤公義が国東半島に漂着したという。
    • 建治2年(1276)佐藤忠信の曾孫・佐藤縫殿助忠直が速水郡大神郷久保(速水郡日出町)に来住し、大友氏に仕えたという。

ほか、対馬国の宗氏の家譜で寛元4年(1246)12月に宗氏の祖平知宗に従った佐藤兵衛が見える(『太宰管内志』)が、史料自体が創作的で信用しがたい。

図1.鎌倉時代の西日本の佐藤氏の分布
鎌倉時代の九州地方の佐藤氏
備考 鎌倉時代の九州には、平家の旧領(=平家没官領)をベースに多くの東国御家人が恩賞地を得たことが広く知られている。幕府の御家人であった相模国の波多野氏や河村氏、松田氏(いずれも佐藤氏の一族)が豊前・豊後守護の大友氏に従って九州に入った経緯は概ね信用できるが、幕府や東国御家人らと特段のつながりもない奥羽の土豪佐藤氏が九州に入植した経緯については不明確である。しかも、奥羽出身という佐藤氏の伝承は継信忠信兄弟に肖ったものばかりで創作的と言わざるを得ず、九州佐藤氏の実質は相模国の御家人の末裔ではないかと思われる。その一方で、現在九州で最も佐藤氏の多い大分県の名字別人口を見ると、相模国から流入した波多野(羽田野)氏や河村氏、松田氏はそれぞれ数千人程度、合計しても1万人弱であるのに対し、佐藤氏は4.5万人と圧倒的に多い。また、平安時代末期から豊後国周辺に土着していたことが判明している河野氏、渡辺氏、安倍氏でさえ2万人を越えない。こうした点を踏まえると、伝承の通り、12世紀末にも13世紀半ばにも、相模国からも奥羽地方からも、さらには14世紀半ばに奥羽地方から(後述)も、佐藤氏が流入したと見るのが妥当かと思われるが検討を要する。

南北朝時代

記録

豊後国に佐藤氏の記録あり。

  • 建武3年(1336)の角違一揆(大友氏に属した国人衆)に佐藤主計入道、佐藤主計允千信。
  • 天授1年(1375)豊後国大野郡(大分県豊後大野市)の住人に佐藤三郎。

伝承

南朝の脇屋氏に従った佐藤氏が豊後国に土着したという。

  • 興国2年(1341)に伊予国高縄城(愛媛県松山市)で戦死した脇屋義助の家臣佐藤左衛門尉基久の遺族らが、脇屋氏とともに大分郡・速見郡(大分県大分市・別府市周辺)などに来住・土着したという。
    • 出羽国村山郡にも高縄城で戦死した基久の子孫と伝える家がある。
    • 南北朝時代には陸奥国信夫郡の佐藤氏が全国各地の戦闘に参加しており(『佐藤家文書』)、この系統の一端が豊後国に流れ着いたものか。

室町時代

記録

肥後国・筑前国に佐藤氏の記録あり。

  • 嘉吉3年(1443)の肥後守護・菊池持朝の家臣に佐藤兵部少輔邦則、佐藤大和守為春、佐藤式部少輔為成。
    • 地理的には九州の佐藤氏の一系統と思われるが、この頃の菊池氏は足利将軍家にも近かったことから幕府の番衆佐藤総左衛門尉の系統とも思われる。
  • 嘉吉3年(1443)ごろの博多商人に佐藤信重。
    • この頃の博多は永享1年(1429)ごろから大友氏と少弐氏が、文明10年(1478)からは大友氏と大内氏が支配している。信重以外の商人は宗金、道安、宗家茂など、少弐氏家臣の宗氏。先述のように、宗氏の家譜には寛元4年(1246)の記述に「佐藤兵衛」が見えるが関連するか。
図2.南北朝・室町時代の西日本の佐藤氏の分布
南北朝・室町時代の九州地方の佐藤氏

戦国・安土桃山時代

  • 肥前
    • 佐嘉郡(佐賀県佐賀市)──龍造寺氏家臣
    • 高来郡(長崎県島原市)──有馬氏家臣
  • 肥後
    • 菊池郡(熊本県菊池市)──菊池氏家臣
  • 豊後
    • 下毛郡(大分県中津市)──津江氏→日田氏→大友氏家臣
    • 大分郡(大分県大分市)──大友氏家臣
  • 日向
    • 臼杵郡(宮崎県西臼杵郡)──三田井氏家臣
    • 宮崎郡(宮崎県宮崎市)──島津氏>上井氏家臣
  • 薩摩
    • 鹿児島郡(鹿児島県鹿児島市)──島津氏家臣
図3.戦国・安土桃山時代の西日本の佐藤氏の分布
戦国・安土桃山時代の九州地方の佐藤氏

江戸時代

  • 筑前──福岡藩>秋月藩
  • 筑後──柳川藩
  • 肥前──佐賀藩
  • 肥後──熊本藩、熊本藩>宇土藩
  • 豊後──臼杵藩、岡藩、佐伯藩、中津藩、日出藩
  • 薩摩──薩摩藩
図5.現代の九州地方の佐藤氏の分布
現代の九州地方の佐藤氏の分布

参考文献

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