題材としての佐藤氏

佐伯経範 (『陸奥話記』)

平安時代後期の軍記物語『陸奥話記』に登場する源頼義の郎党。相模国の人物で、黄海の戦い(1057)で討死した。この時点で、頼義の30年来の老臣であったという。

経範は相模国波多野荘を根拠とした実在の人物。同じく相模国司に出仕した藤原公光(佐藤公光)の養子となり、佐伯氏から藤原氏(佐藤氏)に改めた。

大庄司季春(『古事談』・『十訓抄』)

鎌倉時代の説話集『古事談』と『十訓抄』に登場する陸奥国信夫郡信夫荘の地頭・荘司1。平泉藤原氏(奥州藤原氏)代々の家人で、2代当主・藤原基衡の乳兄弟であったが、康治1年(1142)に陸奥守藤原師綱による検注を基衡の指示のもと妨害して戦闘に及んだため、子弟ら5人とともに処刑されたという。

季春が実在したかどうかは不明。この説話が仮に事実であったとすると、12世紀末の信夫庄司佐藤元治の前任か前々任者にあたると考えられる。ただし、季春は子弟らとともに処刑されているため、元治は(1)処刑を免れた季春の同族か、もしくは(2)処刑された季春一族に代わって新たに領主となった人物ということになる。

なお、現存する佐藤氏の系図に季春の記述はなく、この説話に類する伝承も一切確認できない。

佐藤近宗(『源平盛衰記』)

鎌倉時代末期ごろの軍記物語『源平盛衰記』に登場する公卿徳大寺実定(1139-1192)の従者。当時、朝廷内で冷遇されていた実定に、近宗が厳島神社への参詣を勧めたところ、参詣後に実定が大納言に任じられたため、褒美として但馬国城崎郡(兵庫県豊岡市)に所領を得たという。なお、『源平盛衰記』の原型である『平家物語』では、「藤原重兼」が参詣を勧めたということになっている。

徳大寺実定の厳島参詣と大納言補任の因果関係は創作で、当時の記録によると実定が実際に厳島に参詣したのは大納言に任じられた2年後のことである2。また、従者の佐藤近宗や藤原重兼が実在したかどうかは不詳で、佐藤氏の系図類に記載がないほか、佐藤氏が但馬国城崎郡に所領を得た形跡もない。

ただ、佐藤氏では義清(西行)が徳大寺実定の祖父・実能に仕えた3ほか、清兼(義清の叔父)、兼俊(義清の従兄弟)など「兼」を含んだ人物が散見4され、このモデルになっていると思われる。

佐藤継信・忠信(『平家物語』など)

軍記物語『平家物語』、『源平盛衰記』、『義経記』や浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』に登場する兄弟。陸奥国信夫郡の豪族佐藤元治の子で、平泉藤原氏(奥州藤原氏)の近臣。のち源義経の近臣として西国に赴き、義経を庇って討死した。

西行(『西行物語』など)

下表の作品などに登場する僧侶・歌人。もと鳥羽院の下北面の武士、徳大寺家の家人であったが、23歳で出家して以降、東北から中国・四国までを行脚して多くの和歌を残した。

表1.西行が登場する主な文芸作品
ジャンル作品名
歌論『西行上人談抄』
説話集『古今著聞集』『古事談』『沙石集』『撰集抄』
物語『西行物語』『西行物語絵巻』『雨月物語』
軍記物語『源平盛衰記』
『江口』『西行桜』
落語『西行』『西行鼓ヶ滝』
長唄『時雨西行』
浄瑠璃『軍兵富士見西行』

後藤基清・基綱(『承久記』)

軍記物語『承久記』に登場する父子。承久の乱(1221)で幕府方についた子基綱は、幕府の指示で、後鳥羽院方についた父基清を自身の手で斬首した。

基清は紀伊国田仲荘預所佐藤仲清(西行の兄)の実子で、源義朝の郎党後藤実基の養子となり後藤家を継いだ。実基は軍記物語『平家物語』と『平治物語』に登場する。後述のように、基清の子基綱とその子孫は歌人としても活動した。

作者としての佐藤氏

佐藤氏の歌人とその系譜

歌人西行が抜群に有名であるが、このほかにも歌人を多数輩出している。『吾妻鏡』には後藤基綱波多野経朝朝定伊賀光宗(光西)が歌人として活動した記録5があり、『千載和歌集』には波多野成親(秀遠)やその曾孫経因の和歌が収録されている。

図1.歌人として活動した佐藤氏
  • 佐藤公行
    • 公光
      • 公清
        • 季清
          • 康清
            • 仲清
              • 能清
              • 後藤基清
                • 基綱
            • 義清西行
      • 波多野経範
        • 経秀
          • 秀遠成親
            • 遠義
              • 義通
                • 忠綱
                  • 経朝
                • 義元
                  • 義定
                    • 朝定
                • 経因
      • 公季
        • 公助
          • 文郷
            • 光郷
              • 伊賀朝光
                • 光宗光西

特に、西行の大甥にあたる後藤基綱とその子孫は歌道家としての地位を確立していたようで、下表の通り多数の和歌集に作品が収録されている。

表2.後藤家の各勅撰集への入集実績
人物掲載
基綱『新勅選』『続後撰』『続古今』『続拾遺』『続後拾遺』『新千載』『新続古今』
基政『続後撰』『続古今』『続拾遺』『新後撰』『玉葉』『新千載』
備前『続古今』
三河『新後撰』『玉葉』
基隆『続古今』『続拾遺』『新後撰』『続後拾遺』『新拾遺』『新続古今』
基頼『続拾遺』『新後撰』『玉葉』
基雄『風雅』

中川博夫「後藤基綱・基政父子(一)」(『芸文研究』48,1986)頁38-39より抜粋。

図2.後藤家の系譜
  • 左衛門尉基清
    • 佐渡守・玄蕃頭基綱
      • 六波羅評定衆基政
        • 六波羅引付頭基頼
          • 佐渡守基宗
            • 壱岐守基雄
      • 宗尊親王女房女(備前)
      • 宗尊親王女房女(三河)
      • 六波羅評定衆基隆
        • 基宗

『尊卑分脈』より抜粋。

作品実例

西行(佐藤義清)

  • 何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる(『西行上人集』)
  • 願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ(『続古今和歌集』)
  • なげけとて 月やはものを 思はする かこちがほなる 我が涙かな(『千載』)
  • もろともに 眺め眺めて 秋の月 ひとりにならむ ことぞ悲しき(『千載』)
  • 都にて 月をあはれと 思ひしは 数よりほかの すさびなりけり(『新古今』)
  • 惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ(『玉葉』)
  • 身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ(『詞花』)
  • 風になびく 富士の煙の 空に消えて ゆくへも知らぬ 我が心かな(『新古今』)

藤原成親(波多野秀遠)

  • 枯れはつる 小笹が節を 思ふにも 少なかりける よゝの数かな(『千載』)

藤原経因(波多野経因)

  • はかなしな 憂き身ながらも 過ぎぬべき この世をさへも 忍びぬからん(『千載』)

藤原基綱(後藤基綱)

  • しらすげの まののはぎはら さきしより あさたつしかの なかぬ日はなし(『新勅選』)
  • ありし夜の 夢は名残も なきものを 又おどろかす 山のはの月(『新続古今』)
  • 思へただ さらでもさゆる 山おろしに 雪をかさぬる あさのころも手(『新千載』)
  • うき事の 猶も聞えば いかがせん 世のかくれ家と 思ふ山路に(『続後拾遺』)

藤原基政(後藤基政)

  • いにしへの 春のみ山の さくらばな なれしみとせの かげぞ忘れぬ(『続拾遺』)
  • おろかなる 心は猶も まよひけり をしへし道の 跡はあれども(『新後撰』)
  • ある世にも なしとこたへし 偽の やがてまことに なるぞかなしき(『新千載』)
  • 相坂の 夕付鳥は いまぞなく みやこの空は 夜ふかゝりけり(『拾遺風躰』)

参考文献

  • 野口実『伝説の将軍:藤原秀郷』(吉川弘文館,2001)
  • 中川博夫「後藤基綱・基政父子(一):その家譜と略伝について」(『芸文研究』48,1986)頁31-63.
  • 中川博夫「後藤基綱・基政父子(二):その和歌の事績について」(『芸文研究』50,1986)頁66-90.

  1. 名は季治、秀春とも表記される。信夫荘は、信夫郡が荘園化・私領化したもの。 ↩︎

  2. 『玉海』および『山槐記』よれば、徳大寺実定が大納言に任じられたのは治承1年(1177)3月、厳島神社に参詣したのは2年後の治承3年(1179)3月である。 ↩︎

  3. 『源平盛衰記』 ↩︎

  4. 『尊卑分脈』 ↩︎

  5. 『吾妻鏡』建暦3年(1333)2月2日条、寛喜2年(1230)3月19日条、貞永1年(1231)11月29日条、寛喜3年(1231)9月13日、天福1年(1233)4月17日・5月5日など。 ↩︎

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