分流編

鎌田氏

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首藤資清の子通清は,源為義に仕えて,遠江国磐田郡鎌田御厨(静岡県磐田市鎌田)に住した。光政の子政佐は文治2年(1186)島津忠久に従って,薩摩に移住し,以後島津氏重臣として存続した。文明17年(1485)には日向国櫛間牟田迫での合戦の恩賞として伊作荘永谷名(鹿児島県日置市東市来町湯田永谷)を拝領した。

○ 源義朝の郎党の筆頭に鎌田次郎正清(のち兵衛正家)。上総国を拝領した。

○ 甲斐国巨摩郡鎌田(山梨県甲府市)は鎌田正清の領地と伝わる〔『甲斐国志』〕。また,建暦3年(1213)に鎌田兵衛尉が和田合戦の恩賞として都留郡福地郷(山梨県大月市)地頭職を得た〔『吾妻鏡』〕。

○ 備中国後月郡出部村の鎌田城(岡山県井原市上出部)は建久年間(1190-1199)の鎌田正清の居城と伝える。

○ 江戸幕臣の鎌田氏。山内経俊の子俊晴11世清俊が,足利義満の命で鎌田通清の所領を得て鎌田氏を称したといい,清俊6世正久は武田氏を経て徳川氏に仕え,以後幕臣として存続した〔『寛政譜』〕。

○ 現代の分布 現代都城市・鹿児島市に多い鎌田氏はこの末流と思われる。

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