小野寺氏
目次
起源
首藤義通の子義寛が拝領した下野国都賀郡小野寺保(栃木市岩舟町小野寺)に由来する。
展開
東北地方
陸奥国
四本松氏家臣
四本松石橋家四老の一,小野寺久光は主君義久の死後佐竹氏に属した。
葛西氏家臣
磐井郡一関城を拠点とした。道綱のとき与えられたという。葛西氏に属した。
建武1年(1334)の中尊寺の修理にあたって小野寺彦次郎入道が調査を行っているが,一関小野寺氏との関連は不明である。
南北朝時代。14世紀前半の葛西氏家臣に東磐井郡釘子の小野寺道高,松川の小野寺重保。
戦国時代。
天正1年(1573)小野寺前司が前堀村(一関市中里)・流日形村(花泉町日形)のち,天正14年に日形および金成郷,天正16年小野寺肥後に前堀村。
小野寺左馬之丞清俊は天文一二年(一五四三)葛西家に仕えて前堀城主となり,天正二年没とある。長泉院は永正一二年(一五一五)の創建,開基は小野寺左馬之丞と伝え,「安永風土記」には左馬之丞の位牌・墓所があると記す。
天正2年(1574)小野寺五郎左衛門通次に藤沢本郷(藤沢町藤沢),保呂羽村(藤沢町保呂羽),四郎左衛門に寺沢村。
天正7年(1579) 小野寺主計頭が黄海村,小野寺五郎左衛門が岩井郡砂子田村。
天正七年(一五七九)小野寺新介が鈴木蔵人から狐禅寺村(一関市狐禅寺)。
天正10年(1582)小野寺前司に市野々村(一関市萩荘),中野村(真城中野)。
天正16年(1588)に小野寺五郎左衛門が奥玉村,小野寺三郎左衛門尉が薄衣村,小野寺肥後に富沢村(一関市弥栄)。
元和1年(1615)小野寺惣九郎が伊達政宗から大坂夏の陣での勲功の賞として中里村(一関市中里)・増沢村を得た〔『陸奥史叢』〕。
上野原要害館(上野平)の小野寺氏は葛西氏没落後は仙台藩に大工として仕えた。
金ヶ崎城(金ヶ崎町)は戦国時代葛西氏家臣小野寺氏の居城。藤沢館(瀬峰町藤沢)は葛西氏の家臣小野寺氏が居館したと伝える。同氏は観昌寺を開山したという。臥牛館(金成町沢辺)の城主は小野寺肥前道行。
瀬原(下衣川)の小野寺氏は葛西氏を経て伊達氏に仕え,家伝の胃腸薬「金命丸」を販売した。
松倉城(栗原市松倉)。城主小野寺道戒入道。「安永風土記」に小野寺氏を館主とする笹ヶ森館あり。奥州合戦の恩賞で栗原郡松倉里とその周辺を領知し,末裔の道戒入道が天正一三年(一五八五)伊達政宗に敗れ,羽州仙北(現秋田県南東部)に逃れたと伝える。
なお天文5年(1536)の葛西氏の寺池移転まで,葛西家臣小野寺氏が六代にわたって寺池城(登米町寺池)の城主であった[これにより小野寺氏は一関城に移った,寺池城主は小野寺氏でない説もあり]といわれ,さらにこれが保呂羽館であったともされるように(登米町史編纂資料集),保呂羽館の築城,城主の交替などについて詳細は不明である。
出羽国
庶流。13世紀半ば,奥州合戦の恩賞地として得ていた出羽国雄勝郡に移った。南北朝時代には川連と稲庭(雄勝郡稲川町)に分かれた。稲庭家が大名化し,戦国時代には稲庭から横手に居城を移した。関ヶ原の戦いで西軍に属して所領没収となり,江戸時代は津和野藩士として存続した。
分流に大森氏。遠江守景道の子孫五郎泰道から始まる。平鹿郡大森村。小野寺系図には義道の子孫五郎の子に康道とある。
関東地方
下野国
文亀3年(1503),古河公方政氏の下知状に小野寺宮内左衛門尉。
永禄三年(一五六〇)寺岡村(足利市寺岡町)は佐野氏の被官小野寺景綱の支配で,景綱は永禄四年(一五六一)には大久保村(足利市大久保)を長尾氏より拝領。
川崎村(足利市川崎町)の山伏貞瀧坊は小野寺氏の末流で,通氏5世の弘慶が明応2年(1493)に上洛して聖護院の弟子となり,貞瀧坊を称したことに始まるという〔『古河志』〕。通氏は小中新左衛門と称した。明応6年(1497)に熊野先達の小野寺不動坊。
四国地方
阿波国
正平7年2月,小野寺八郎が恩賞として阿波国朽田荘地頭職を得たが,7月までには失った〔『祖谷山喜多氏文書』〕。
雑載
○ 三春藩年寄,松江藩,赤穂藩に小野寺氏。江戸幕臣徒歩組に2家,出自不詳。
現代の分布
現代,一関市・気仙沼市を中心とする岩手県・宮城県に多いほか,庄内平野でも多い。
主な参考文献
- 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
- 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
- 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net)