人物編

藤原公清

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藤原公清(ふじわら の きんきよ/生没年不詳/別名・藤原公成1)は,平安時代後期の武官。藤原秀郷の6世孫2

多くの系譜等で「佐藤氏の祖」と見なされてきたが,実際には公清の祖父公行が佐藤氏の祖である可能性が高い(後述)。

出自

藤原公光の子で,10世紀半ばの北関東の豪族藤原秀郷から7代後の子孫にあたる。公清の家系は,秀郷の子孫のうち関東を離れて京都に進出した系統で,武官や国司などに任じられた一族である。〔「軍事貴族(Wikipedia)」〕

公清の居所は不明であるが,父公光の邸宅は三条(京都市)にあった3。また,紀伊国那賀郡(和歌山県北中部)を所領とした4

経歴

生没年は不詳であるが,推定では11世紀前半から末ごろ存命したと考えられる。

官位は下記の通りである。

  • 長久1年(1040)右兵衛少尉正六位上〔『大間成文抄』5
  • 治暦4年(1068)従五位下検非違使〔『本朝世紀』6
  • 永保1年(1081)従五位〓左衛門尉〔『水左記』7

ほか,時期不明であるが,「伊豆守」にも補任されていた〔『江都督納言願文集』〕。

佐藤氏の祖に関する議論

佐藤氏は,公清の官名左衛門尉に由来すると考えられてきた8

しかし,系図を確認すると公清の子孫だけでなく,公清の兄弟の子孫も佐藤氏を称している。すなわち,佐藤氏は公清ではなく,その父以前の人物に由来する可能性が高い。中でも,公清の祖父公行が「渡守」に就いた記録9があることから,佐藤氏は(「衛門尉公清」というより)「佐渡守藤原公行」に由来すると考えるのが妥当であり,今日の通説的な見解になっている。

親族

  • 父:藤原公光(相模守)
  • 母:不明
    • 妻:不明
      • 季清(従五位下・左衛門尉・上総権守)
      • 公郷(従五位上・尾張守)
      • 公澄(従五位下・左衛門尉)
      • 明算(高野山検校)10
    • 養子
      • 助清[資清](主馬首)首藤氏の祖
  • 義弟:経範[公俊]
  • 弟:公季[公仲・公脩]

系図については,「『尊卑分脈』の佐藤氏系図」参照。

参考文献

  • 野口実『中世東国武士団の研究』(戎光祥出版,2021)〔高科書店,1994〕
  • 野口実『伝説の将軍:藤原秀郷』(吉川弘文館,2001)
  • 野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館,2007)
  • 野口実『坂東武士団の成立と発展』(戎光祥出版,2013)
  • 野口実「紀伊佐藤氏:西行を生んだ武芸故実の本流」(『本郷』130,2017)
  • 目崎徳衛「佐藤氏と紀伊国田中荘」(『聖心女子大学論叢』43,1974)
  • 湯山学「一つの願文:西行の父祖」(『日本古代・中世論集』,1980)

  1. 『江都督納言願文集』 ↩︎

  2. 公清の父公光が祖父の養子となっている(『尊卑分脈』)ため,7世とも。 ↩︎

  3. 『小右記』長元1(1028)年9月8日条。 ↩︎

  4. 紀伊国那賀郡は,藤原秀郷が平将門の乱(939-940)を鎮定した功績で拝領したという(『江都督納言願文集』,『吾妻鏡』寿永3年[1184]2月21日条)。 ↩︎

  5. 『大間成文抄』寛徳2年(1045)の項。 ↩︎

  6. 『本朝世紀』治暦4年(1068)11月21日条。このとき同じく従五位下叙任者の中に源清経がいる。清経の娘は佐藤仲清・憲清(西行)兄弟の母。 ↩︎

  7. 『水左記』同日条。 ↩︎

  8. 佐藤氏が左衛門尉公清由来であるとする説は『寛政重修諸家譜』(1812年成立)の記述に基づく。姓氏研究の基本図書である『姓氏家系大辞典』に採用されたことで,以後同書を参照する多くの書籍等で見られる。 ↩︎

  9. 『左経記』万寿3年(1026)12月5日条,長元4年(1031)6月27日条,長元6年(1033)5月2日条,『小右記』万寿4年(1027)2月26日条,長元1年(1028)8月8日条に「前佐渡守公行」などと記録がある。特に『左経記』によると佐渡守退官後,散位のまま死亡している。 ↩︎

  10. 明算の記録は諸系図にないが,佐藤氏であったことや,生没年から,公清の兄弟に当たる。 ↩︎