系図編
阿波国の佐藤氏系図
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阿波郡伊月
徳島県阿波市市場町伊月に伝わる系図である。
出典:佐藤清隆『佐藤一族:家系と歴史』(東洋書院,1981)
天正10年(1582)より伊月村に土着したという「鰭石丸」が幼名で記されているため,この頃に成立した系図と思われる。その祖父長常や父長勝も,他の史料に見え,地名(徳島県板野郡上板町「佐藤塚」)にも残っているので,特に疑いなく実在したものと見てよいだろう。問題となるのはそれ以前の系譜です。
- 公清から基雄までは,有清の子秀信(出羽庄司)と基清の子基成(左兵衛尉)以外は,註釈含め『尊卑分脈』と同じである。
- 秀信(出羽庄司)を載せる系図は,岩手県下閉伊郡山田町,新潟県長岡市与板町,岐阜県加茂郡富加町にもあります。ほか,大分県に「出羽庄司」が来住した伝承があるほか,福島県白河市大信の系図には「出羽庄司正信」の記載がある〔以上,『佐藤一族』,『角川姓氏』〕。
- 基信(佐藤六郎)は,他の史料でも建武3年(1336)に北朝の細川氏に従って土佐国で戦闘に参加した記録があり〔『南路志』〕,世代的にもそれほど矛盾はない。
- しかし,この南北朝時代初頭の基信から戦国時代の長常に至るまでの約200年間をわずか2代で繋いでおり,杜撰である。実際に長常らが,基信の子孫である(と言い伝えられてきた)としても,系譜は逸失して分からなくなっていたということになる。
以上から,この系図は,戦国時代の三好氏家臣の佐藤氏が,『尊卑分脈』の記載や「佐藤六郎基信」の伝承などを参考に作った系図であり,史実として信用できるのは長常以下3代のみに限られる。また,「基信」が後藤氏流に繋がることや「出羽庄司」の記述について,さらに丁寧に検討すると面白いかもしれない。
ほか,関連すると考えられる情報も紹介する。
- 徳島県内の別の伝承では,基信と同じく北朝の細川氏に従い,高河原城(名西郡石井町高川原)に住んだという佐藤綱兼という人物がおり,公俊(相模守,公清の兄弟)から14代であるといい〔『阿波国古文書』〕,本系図とは異なる系統とされている。しかし,地理,年代,職業を考えると,基信との関係を連想させる。
- 同時代かつ似た名前の人物として,山形県や大分県の系図・伝承に,南朝の新田氏に従った「佐藤基久」という人物が出てくる。