波多野氏(はたの-し)は佐藤氏の分流の一つ。

起源

平安時代後期、藤原公光の養子公俊(旧名・佐伯経範)が相模国余綾郡波多野荘(神奈川県秦野市)を領知したことを起源とする。

展開

平安時代末期、波多野荘を経営しながら朝廷に出仕した。公俊4代遠義(成親)は歌人としても活動した。遠義の嫡流は波多野荘や足上郡松田郷(神奈川県足柄上郡松田町)を拠点とし、庶流は足上郡河村(河村氏/足柄上郡山北町)や足上郡大友(大友氏/小田原市大友)、足上郡菖蒲(菖蒲氏/秦野市菖蒲)、足上郡沼田(沼田氏/南足柄市沼田)、武蔵国新座郡広沢(広沢氏/埼玉県朝霞市)などに展開した。いずれの系統も鎌倉時代には幕府に出仕して、全国各地に所領を得た[各記事・各項参照]。

関東地方

相模国

鎌倉時代、義通の次男忠綱の系統が嫡流となり、波多野荘などの所領を維持しながら、鎌倉・京都を拠点に六波羅評定衆を世襲した。特に忠綱の子義重は、承久の乱(1221)の恩賞地の越前国志比荘(福井県吉田郡永平寺町)に永平寺を建立して著名である。なお、忠綱の兄義経の系統は松田郷に残って松田氏を称した。

南北朝時代も波多野荘は忠綱の系統に継承されており、正平6年(1351)には忠綱6代高道(通貞)が、南波多野荘(秦野盆地のうち水無川以南)の一部と武蔵国河井郷(波多野出雲彦五跡/位置不詳/都筑郡河合郷、多摩郡川井村あり)を鎌倉公方の足利基氏から拝領している。[その後も足利氏に仕え、室町幕府では幕府評定衆・奉公衆、奉行衆・番衆として存続した。]

常陸国

戦国時代、常陸国に小田氏(あるいは土岐氏)に属した波多野(秦野)氏が見え、天文年間(1532-55)の信太郡根古屋城(稲敷郡美浦村大谷根古屋)・大谷城(稲敷郡美浦村大谷)の城主一族に「秦野刑部少輔義兼」「波多野刑部少輔秦治宗」などの名が見える。出自不詳。同地に子孫現存。

北陸地方

越前国

波多野義重が、承久の乱(1221)の恩賞として越前国吉田郡志比荘(福井県吉田郡永平寺町)に地頭職を得たことを起源とする。義重の系統は波多野氏の嫡流で、京都を拠点に六波羅評定衆を世襲した。[多くの場合、嫡流が京都や鎌倉に住み、庶流などの代官が現地で経営にあたった。]義重は寛元4年(1246)に曹洞宗開祖の道元を援助して、荘内に永平寺を開創した。

室町時代は、幕府評定衆・奉公衆、奉行衆・番衆として存続した。戦国時代には、波多野城(永平寺町花谷)を拠点とし、越前守護朝倉氏に属したが、天正1年(1573)織田氏に敗れた。同地に子孫現存。

越中国

波多野義重の一族が越中国礪波郡野尻(富山県南砺市野尻)に所領を得たことを起源する。延文1年(1356)に波多野下野権守が石黒荘院林郷(富山県南砺市院林)の濫妨を幕府に停止させられた。

中部地方

伊勢国

鎌倉時代、波多野義通の子義元の系統が伊勢国内に所領を持っていた。具体的な場所や経緯は不詳であるが、義元が伊勢権守に任じ(『尊卑分脈』)、伊勢神宮の神職の娘を妻とした(『吾妻鏡』)ことと関連すると思われる。本拠は鎌倉・京都にあり、現地には代官を派遣していた。文治3年(1187)には義元の子義貞の代官が多気郡櫛田郷(三重県松阪市櫛田町)内の土地を押領したとして訴えられ、所領を没収されている。

その後、南北朝時代には、建武1年(1334)・延文1年(1356)の飯高郡真弓御厨(松阪市阪内町)地頭に波多野景氏[彦八郎]が見え(『黄薇古簡集』)、同族と思われる。

戦国時代、伊勢国人の雲林院持行の家臣波多野有俊は、波多野義通の子孫と伝え、有俊4代有生は関氏を経て徳川忠長(甲府藩・駿府藩主)に仕え、5代有綱から徳川家光に仕えて幕府旗本となった。当初甲斐国(山梨県)に所領200石があったが、6代有元のときに武蔵国多摩郡(東京都)に移された。

越後国

戦国時代に波多野氏が見え、蒲原郡日出谷村(東蒲原郡阿賀町日出谷)の白山神社は永生6年(1509)に波多野久次郎が開創したと伝える。出自不詳。現在も阿賀野川流域に波多野氏が多い。

三河国

南北朝時代末から室町時代初めごろ、波多野義通9代行近が相模国から三河国宝飯郡御津荘森下(愛知県豊川市御津町豊沢)に来住したことを起源とする(『宝飯郡誌』)。大沢城(豊川市御津町豊沢)を拠点とした。

戦国時代初頭には、子孫の波多野時政(全慶)が、三河守護細川氏の援助を受けて、文明9年(1477)に主君の一色氏を討ったが、明応2年(1493)同じく一色氏の家臣であった牧野成時(古白)に討たれた。子孫は桶狭間の戦い(1560)、長篠の戦い(1575)などに従軍した。

江戸時代には森下村の庄屋、神職を務めた。現在も豊川市御津町御馬周辺に多い。

近畿地方

鎌倉時代には和泉国と紀伊国に、南北朝時代には河内国と摂津国に波多野氏の所見がある。戦国時代には因幡国出身の波多野氏が丹波国で大名として隆盛したのち没落した。

和泉国

波多野義通の孫盛高が、承久の乱(1221)の恩賞で和泉国軽部郷(大阪府和泉市・泉北郡忠岡町)の地頭職を得た。

紀伊国

鎌倉時代後期、名草郡勢多郷(和歌山市小瀬田・薬勝寺・仁井辺)の地頭に波多野広能(『薬王寺文書』)。

河内国

南北朝時代、河内国交野郡土井城(大阪府枚方市茄子作北町)の波多野帯刀の居城が攻め落とされた。

摂津国

14世紀半ばごろ、南朝の中村・野田・渡辺氏に摂津国の畑野左(右)衛門太郎跡[位置不詳]が与えられた。

15世紀末ごろには、丹波国多紀郡八上城(兵庫県丹波篠山市)の波多野氏[後述]が摂津国にも進出し、波多野清秀が野間荘時友郷(尼崎市武庫之荘)の代官を務めたほか、永正5年(1508)には清秀の子で管領細川高国の被官の波多野元清が杭瀬荘(尼崎市)を違乱したとして天龍寺に訴えられている。

丹波国

因幡国八上郡(鳥取県鳥取市・八頭郡の一部)出身で管領細川勝元に仕えた波多野清秀が、応仁の乱(1467)の功で丹波国多紀郡(兵庫県丹波篠山市)を拝領し、八上城を拠点とした。守護細川氏のもと丹波国西部の有力大名にまで成長したが、16世紀半ばに三好氏や松永氏と争って疲弊し、天正7年(1579)織田氏によって滅ぼされた。子孫は篠山藩士、小城藩士として存続したというが要調査。

山城国

江戸幕府の徒士の波多野氏は、波多野義通の系統と伝え、山城国山田村(不詳/与謝郡、葛野郡、相楽郡に山田村あり)に住んだことから山田氏を称していたが、寛政7年(1795)保春のとき波多野氏に復したという(『寛政譜』)。

中国地方

美作国

嘉禄3年(1227)、波多野経朝[義重の兄]が美作国に一村[村名不詳]を拝領した(『吾妻鏡』)。

因幡国

文保1年(1317)、因幡国八東郡四部保(鳥取県八頭郡八頭町)の地頭に波多野弥五郎らが見える。以後の動向は不詳だが、戦国時代には高平城(八頭郡八頭町日下部)を拠点とした波多野氏が見え、永禄2年(1559)に丹比氏によって滅ぼされた。

また、同じころ智頭郡南方村(鳥取県八頭郡智頭町南方)の水無城を拠点とした波多野氏がおり、天正年間(1573-92)に富沢谷に落ち延びて、その周囲を開発し、名字から「波多村」(鳥取県八頭郡智頭町波多)と命名した伝える。

なお、丹波国多紀郡の戦国大名波多野氏は「因幡国八上郡出身の吉見氏庶流で、母方の波多野氏に改めた」と伝える。

石見国・長門国

室町・戦国時代の石見国吉賀郡(島根県鹿足郡)の国人吉見氏の家臣に波多野氏が見える。戦国時代には、吉見氏のもと大内氏、のち毛利氏に属した。天文23年(1554)に長門国阿武郡勝山城(山口市阿東嘉年下)城主の波多野滋信が討死したほか、文禄3年(1594)、長門国阿武郡萩の萩春日社(萩市堀内)神主波多野元重などの記録がある。

石見・長門国の波多野氏は、地理的には石見国吉賀郡の北に接する美濃郡長野荘(島根県益田市)の地頭職であった波多野氏流菖蒲氏の系統が、吉見氏に属して長門国に展開したものと思われる。さらに明証はないが、吉見氏家臣の波多野氏は、鎌倉時代後期に吉見氏が能登から移る際に従ってきたとの伝承もある。

安芸国

戦国時代には、天正3年(1575)の毛利氏家臣に波多野氏が見えるほか、伝承では安芸国豊田郡中河内村(東広島市河内町中河内)茶臼山に波多野千手丸(『芸藩通志』)の拠点があったという。江戸時代には、高田郡吉田村(安芸高田市吉田町吉田)の祇園社(清神社)の神官、高田郡小山村(安芸高田市吉田町小山)の神官にも波多野氏がいた。

出自不詳。近隣では、備後国三谿郡(三次市)に鎌倉時代から波多野氏流広沢氏がいる。

九州地方

室町時代には対馬国の対馬氏家臣や豊前・豊後に進出した大内氏家臣に波多野氏[系統不詳]が見え、戦国時代には豊後国緒方荘で見える。

対馬国

室町・戦国時代の宗氏の家臣に波多野氏。応永8年(1401)以降所見がある。拠点は三根郡久地木之村(対馬市峰町吉田)。子孫は対馬市に現存する。

豊前国

応永26年(1419)、宇佐郡江嶋(宇佐市)の港に到着した周防・長門・豊前守護大内氏家臣に波多野三郎左衛門尉。石見・長門の波多野氏[先述]と同族か。

豊後国

文禄の役(1592-93)に大野郡緒方荘(豊後大野市緒方町)の波多野上総助、波多野宮内丞が従軍した。

なお、国内の伝承では、鎌倉時代初期に波多野信景や河村時秀が相模国から豊後国大野郡に来住したという。確かな記録では、鎌倉時代後期の大分郡稙田荘(大分市)の地頭に相模国御家人で大友氏に属した河村氏の所見がある。

雑載

  • 下野黒羽藩、出雲広瀬藩、越前鯖江藩、相模小田原藩に波多野氏。尾張藩、美濃高須藩に羽田野氏。陸奥会津藩に秦野氏。尾張藩に幡野氏、江戸幕府旗本御家人の幡野氏は清和源氏義親流という。備中新見藩に畑野氏。

現代の分布

美濃国から遠江国にかけて最も多く、関市(800人)、春日井市(600人)、浜松市(500人)と続く。ほか、新潟県北部、京都府北部、岡山市周辺、山口県北中部、大分市周辺にまとまって見られる。小地域単位では、上記のエリアの他には、東京都武蔵村山市中央・本町(計260人)、静岡県伊豆市修善寺(130人)、神奈川県海老名市中新田(90人)に多い。

ハタノ地名は、主に「畑野」の表記で全国各地にある。濃尾平野では、岐阜県山県市畑野、愛知県名古屋市熱田区幡野町、愛知県瀬戸市幡野町がある。

異表記──羽田野・畑野・幡野

波多野氏(24,800)と同音の名字に、羽田野氏(8,500人)、畑野氏(7,300人)、秦野氏(5,100人)、幡野氏(3,800人)、波田野氏(3,100人)などがある。多くは波多野氏(あるいは波多野荘)に由来すると思われるが、渡来系の秦氏に由来するもの、地形や地名(羽田、畑、端)に由来するものも含まれるであろう。

それぞれの分布を見ると、羽田野氏は大分県と愛知県・岐阜県に多く、畑野氏は特に強い傾向はないが神奈川県相模原市と熊本市に多い。秦野氏も特に傾向はないが、大分市と和歌山県紀の川市、神奈川県藤沢市に多い。幡野氏は山梨県、波田野氏は新潟県東蒲原郡阿賀町で多い。

大分県では人口順に羽田野氏(2,800人)、波多野氏(700人)、秦野氏(400人)と続き、地名では大分市羽田がある。

山梨県では幡野氏(1,300人)、畑野(300人)、波多野(80人)と続く。山梨県に接する神奈川県相模原市は畑野氏(300人)が全国で最も多く、その下流にあたる藤沢市は秦野氏(110人)が多い。山梨県大月市猿橋町猿橋幡野がある。

また、秦野氏は大分市に次いで和歌山県紀の川市・和歌山市(計300人)に多い。周辺では鎌倉時代後期に波多野氏が名草郡勢多郷(和歌山市小瀬田・薬勝寺・仁井辺周辺)の地頭を務めた記録があるほか、地名に紀の川市畑野上・畑野がある。

主な参考文献

  • 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
  • 平凡社編『日本歴史地名大系』(平凡社,1979-2004)
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
  • 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net
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