初期佐藤氏の系譜的位置関係
鎌倉時代以前に成立した史料中で佐藤氏を称した記録(表1)のある人物のうち、系譜上の位置を概ね特定できる人物を系譜に落とし込むと次のようになる。
図1.鎌倉時代以前に「佐藤」を称した記録のある人物(★/▼)
- 佐渡守公行
- 公光
- 公清
- 季清
- 康清
- 仲清
- ★能清
- ▼西行
- 仲清
- 公俊
- 兼俊
- □□
- ★増包
- ★俊信
- □□
- 兼俊
- 康清
- 公郷
- 清郷
- 公広
- 有清
- 公広
- 公明
- 明兼
- 明時
- ▼業時
- ▼業連
- ▼業時
- 明時
- 明兼
- 清郷
- 季清
- 経範
- 経秀
- 秀遠
- 遠義
- 義通
- 高義
- ★盛高
- 高義
- 義景
- 信景
- ★広能
- 信景
- 家通
- 家光
- ▼家将
- 豊家
- ▼家将
- 家光
- 義通
- 遠義
- 秀遠
- 経秀
- 公季
- 公助
- □□
- □□
- ▼元治
- ▼継信
- ★忠信
- ▼秀員
- ▼元治
- □□
- 文郷
- 光郷
- ▼朝光
- 光郷
- □□
- 公助
- ▼明算
- 公清
- 公光
系図は主に『尊卑分脈』『続群書類従』による。「★」は同時代史料に記録のある人物、「▼」は後世の史料に記録のある人物、斜体は位置が不確定の人物を示す。
- 明算:諸系図に記録のない人物だが、『元亨釈書』によれば1021年生まれ1106年没である。公清が1045年から1081年まで武官として活動していた記録が残ることから、明算は公清の兄弟である可能性が高い。〔cf. 野口実『中世東国武士団の研究』戎光祥出版,2021,頁105.〕
- 増包・俊信:諸系図に記録のない人物。『桜会類聚』によれば文治4年(1188)に下北面であった。西行[1118-1190]は1130年代に下北面であったことから、増包・俊信は西行の孫あたりの世代と思われる。実名にカネ(包・兼)やトシ(俊)を用いている点から暫定的に兼俊の孫とみなした。
- 元治:継信・忠信兄弟の父として有名で、史料での登場頻度は高いが、その出自については公助(公輔)の系統とする系図と公郷の系統とする系図があり定まらない。暫定的に公助の系統とした。
- 秀員:諸系図に記録のない人物。奥州合戦(1189)に藤原国衡の郎党として息子とともに従軍、討死している。元治の同族と思われるが、具体的な関係性は不詳。暫定的に元治の兄弟とした。
- 広能:『葉黄記』(宝治1年5月9日条)に「波多野藤左衛門尉藤原広能」とある。「波多野系図」(『続群書類従』)にある同官職、同訓の「左衛門尉弘義」と同一人物とみなした。
- 家将:『吾妻鏡』(承久3年6月18日条)に「沼田佐藤太」「沼田小太郎」とある。それぞれ「波多野系図」(『続群書類従』)の沼田氏の系統に記載のある「太郎家将」「小太郎豊家」と同一人物であるとみなした。
表1.出典一覧
人物 | 出典 |
---|---|
明算 | 『元亨釈書』巻4,彗解2-3 |
西行 | 『百錬抄』保延6年10月15日条・『吾妻鏡』文治2年8月15日条など |
増包・俊信 | 『桜会類聚』文治4年3月11日条 |
能清 | 『鎌倉遺文』108ほか |
元治・継信・忠信・秀員 | 『吾妻鏡』文治1年2月19日・文治2年9月20日・文治5年8月8・9日条ほか |
朝光 | 『吾妻鏡』建保3年9月14日条 |
業時・業連 | 『吾妻鏡』嘉禄1年12月21日条・『勘仲記』弘安5年9月5日条ほか |
盛高 | 『鎌倉遺文』738 |
広能 | 『鎌倉遺文』19934・51366 |
家将 | 『吾妻鏡』承久3年6月18日条 |
系譜上の位置を確定できない初期佐藤氏
上述の人物以外にも、『鎌倉遺文』などで「佐藤」(もしくは「左藤」)を冠した人名は50以上検出できるが、系譜上の位置関係を特定できなかった。
以下はその人名のリストである。少なくとも既に鎌倉時代には東北から九州至るまで佐藤氏が広がっていたことがわかる。
朝廷関係者
- 「花山佐藤兵衛尉」(『華頂要略』建保1年8月6日条)
- 「佐藤左衛門成季」(『皇代暦』寛元4年9月4日条)
- 「佐藤左衛門尉宗兼」(『具支灌頂日記』宝治2年12月18日条)
いずれも武官や僧侶として院に近侍した人物で、佐藤氏の嫡流である季清の系統の可能性が高い。なお、「宗兼」を最後に朝廷関係者の佐藤氏は史料上確認できなくなる。〔cf. 「近畿地方の佐藤氏の歴史」〕
幕府関係者
- 「佐藤さ衛門尉」(『鎌倉遺文』9390)
- 「佐藤四郎兵衛入道」(『鎌倉遺文』10903)
- 「河村佐藤五郎入道」(『鎌倉遺文』21871)
- 「佐藤宮内左衛門尉」(『鎌倉遺文』22978・32135)
鎌倉幕府で重用された佐藤業連・業時の系統、波多野氏(河村氏)の系統と推察される。訴訟の処理や京都との連絡役を担当しており、佐藤氏・波多野氏の京武者としての出自が活かされている。のちの室町幕府においても訴訟処理を担当する引付衆に佐藤氏が確認でき、彼らの子孫と思われる。〔cf. 「近畿地方の佐藤氏の歴史」、「関東地方の佐藤氏の歴史」〕
東北地方
- 「佐藤次」(『鎌倉遺文』20526)
- 「佐藤五」「佐藤二郎」(『鎌倉遺文』26625)
前者は瀬原村(岩手県奥州市衣川瀬原)、後者は骨寺村(岩手県一関市厳美町本寺)の住民。平泉にほど近く、平泉藤原氏旧臣の佐藤氏が土着・帰農したものか。〔cf. 「東北地方の佐藤氏の歴史」〕
関東地方
- 「左藤四郎」(『鎌倉遺文』27757)
西毛呂郷(茨城県結城市北南茂呂・東茂呂付近)の住民。当地周辺は決して佐藤氏の多い地域とはいえず、関連する伝承等も不明である。〔cf. 「関東地方の佐藤氏の歴史」〕
中部地方
- 「佐藤兵衛太郎入道見阿」(『鎌倉遺文』32647)
越後国蒲原郡・三島郡周辺を拠点とした地頭クラスの人物と思われる。周辺では佐藤元治の子または孫が奥州合戦(1189)後に移住してきたとの伝承が多い。〔cf. 「中部地方の佐藤氏の歴史」〕
近畿地方
- 「佐藤太」(『平安遺文』3624・『鎌倉遺文』968)
- 「佐藤次郎」(『鎌倉遺文』8775)
- 「県佐藤四郎」(『吾妻鏡』承久3年6月18日条)
- 「左藤次大夫」(『鎌倉遺文』11355)
- 「佐藤三」「井谷佐藤太入道」(『鎌倉遺文』13007)
- 「左藤三郎」(『鎌倉遺文』14092)
- 「佐藤員正」(『鎌倉遺文』15291)
- 「佐藤二郎入道道性」(『鎌倉遺文』15774)
- 「左藤」(『鎌倉遺文』16142)
- 「佐藤次」(『鎌倉遺文』16848)
- 「左藤太郎入道」(『鎌倉遺文』17753)
- 「佐藤大夫」(『鎌倉遺文』18304)
- 「佐藤三」(『鎌倉遺文』18517)
- 「佐藤次」(『鎌倉遺文』20598・20609)
- 「佐藤二」(『鎌倉遺文』26029)
- 「佐藤三」(『鎌倉遺文』26505)
- 「左藤次」(『鎌倉遺文』26712・26918・27068など)
- 「左藤権守」(『鎌倉遺文』27356)
- 「佐藤五」(『鎌倉遺文』27578・27621)
- 「佐藤次郎」(『鎌倉遺文』28824)
- 「佐藤」(『鎌倉遺文』28736)
- 「佐藤次」(『鎌倉遺文』29450)
現代では佐藤氏の少ない地方だが、元来佐藤氏が近畿を拠点としていたこともあって記録は多い。京都や紀伊国の佐藤氏については公清や公季の系統と想定されるが、周辺の摂津国や大和国、近江国、越前国などの佐藤氏は出自不詳である。〔cf. 「近畿地方の佐藤氏の歴史」〕
中国・四国地方
- 「左藤大夫助真」「左藤四郎大夫助正」「左藤五郎大夫清正」(『鎌倉遺文』16862)
- 「佐藤二兵衛」(『鎌倉遺文』20470)
前者は安芸国安南郡(広島県安芸郡)、後者は備後国太田荘(広島県世羅郡世良町)の公文職。ともに出自不詳。後世、南北朝時代の出雲国日登郷(島根県雲南市日登)の地頭、室町時代の備後守護山名氏の重臣佐々木氏の代官、戦国時代の毛利氏家臣に佐藤氏が見えるが、それぞれの関係性もまた不詳。現代では、安芸郡や世羅郡に相当する地域に佐藤氏は多くないが、世羅郡に近い広島県福山市・尾道市・府中市に極めて多く、島根県雲南市・出雲市にも多い。〔cf. 「中国・四国地方の佐藤氏の歴史」〕
九州地方
- 「佐藤左衛門尉」(『鎌倉遺文』12286)
- 「左藤入道」(『鎌倉遺文』18252)
- 「佐藤」(『鎌倉遺文』23172)
- 「佐藤」(『鎌倉遺文』25389)
「佐藤左衛門尉」は鎌倉幕府中枢にいた佐藤業連や波多野氏の系統と思われる。その他の人物は上から豊前国宇佐郡、筑後国三潴郡西牟田、豊後国速水郡大片平の住民。豊前・豊後国に関しては豊前・豊後守護の大友氏に従って波多野氏の系統が入植しており、その末流と思われる。ただ、筑後国にまで入っていたとの記録・伝承はなく不詳。〔cf. 「九州地方の佐藤氏の歴史」〕