藤で終わる名字(起源)
はじめに
藤で終わる名字(佐藤氏,伊藤氏,加藤氏,斎藤氏など)は,どのようにして誕生したのか,具体的には,いつ・どこで・誰が(どのような一族)が使用し始めたのか。本記事では,系図や伝承等にはなるべく頼らず,古記録等から検討する。
調査対象
藤で終わる名字は,存在が確認されているものだけで510種類ある。この全てについて調査をするのは困難であるため,当記事では,現人口1が1万人を超える18種の名字に加え,佐藤氏の同族である尾藤氏を調査の対象とした。
調査方法
「史料編纂所データベース」(東京大学史料編纂所)2を使用して,調査対象の名字の12世紀以前の記録3を検索した。
このほか,「藤」に輩行名を加えた文字列(藤太,藤二,藤三など)でも検索した。
結論
- 「○藤」(特に「○藤太」,「○藤二」)という形式の人名は,9世紀の中央貴族の個人名(字(あざな))としてみえるのが初出である。
- これを原型として,11世紀前後から官人や地方豪族などの階層に用いられるようになり,12世紀末までには武家の家系の名称(名字(みょうじ),名乗(なのり))として公的に使用される例が増えた。
最初期の記録の検討
9世紀(801年〜900年)
「○藤」が初めて人名として史料に現れるのは9世紀である。ただし,この頃は未だ字(あざな/個人の別名や通称)であり,名字のように世襲されるものではなかった。
- 893(寛平5)「
参議従四位下藤邦基
[……]文章生、〈字左藤生、〉
」〔『公卿補任』〕
- (1)は,藤原邦基[875-932]の字(あざな)である。
- また,邦基のほかにも,藤原兼通[925-977]と藤原道綱[955-1020]が「
内藤
」,藤原興風[10世紀前半]が「院藤太
」という字を使用していた。 - 「
左
」は,邦基の父が「左大臣」であったことによる。「内
」,「院
」の由来は未調査である。
- また,邦基のほかにも,藤原兼通[925-977]と藤原道綱[955-1020]が「
名字が個人名から派生した概念であることを踏まえれば,藤で終わる名字も,これらの字(あざな)が原型になっているということができる。
10世紀(901年〜1000年)
10世紀に入ると,個人名とも名字ともとれるような記録が出てくる。
- 933(承平3)「
伊勢国住人加藤太
」〔『柳原家記録』〕 - 940(天慶3)「
検非違使令追補羽藤太
」〔『貞信公記抄』〕
- (2)「
加藤
」とあるが,現代までつながる中世武家の加藤氏は11世紀後半の人物(加賀介藤原景道)を祖としているから,年代が異なる。個人名か,名字であるとしても現代の加藤氏の多数派とは関係のない「加藤」だろう。 - (3)「
羽藤
」も,名字としては愛媛県などに現存する(約2,500人)が,これと血縁的に繋がるかは不明である。
なお,ともに国名(加賀国,出羽国)に存在する一字である。
11世紀(1001年〜1100年)
11世紀には,現代の伊藤氏や進藤氏に繋がる可能性のある人名が見え始める。
- 1028(長元1):「
藤原高年字小藤太住近江国甲可郡
」〔『小右記』〕 - 1028(長元1):「
維衡朝臣郎等二人〈高押領使・伊藤掾〉
」〔『小右記』〕 - 1092(寛治6):「
兼貞字進藤太
」〔『中右記』〕 - 1092(寛治6):「
義綱朝臣武士二十騎召其内一人〈字進藤二,上野国人〉
」〔『為房卿記』〕
- (4)「
小藤太
」については,「藤太の子」を意味する個人名であって,世襲はされていないと思われる。- なお,この「
藤原高年
」については,後続の文章に藤原公行(佐藤氏の祖)の甥とある。近江国に居住している点,「小藤太
」を称している点も踏まえれば,藤原脩行(字・近藤太/近藤氏の祖)の子行景〔『尊卑分脈』〕の別名か,その兄弟であろう。
- なお,この「
- (5)「
伊藤掾
」は,平維衡(伊勢平氏祖)の郎党であることから,伊勢国の「伊」に由来するものと考えられる。- ただし,伊勢国起源の伊藤氏は,12世紀前半ごろの人物(伊勢守藤原基景)を祖としている〔『尊卑分脈』〕から,血縁的に繋がらない可能性もある。
- (6)(7)「
進藤
」については,進藤氏が11世紀半ばの人物(修理少進藤原為輔)を祖としていることから,同族であったとしても不自然ではない。
いずれも武官,地方豪族などにあたる身分の人物だろう。
12世紀(1101年〜1200年)
現代の名字につながる記録,個人名の記録ともに爆発的に増加する。藤で終わる名字は,(他の名字同様)この頃に確立されたものだろう。
前半(1101年〜1150年)
- 1106(嘉承1):「
釈明算姓佐藤氏
」〔『元亨釈書』〕 - 1111(天永2):「
相撲人真俊武藤太
」〔『長秋記』〕 - 1114(永久2):「
強盗左伊藤太
」〔『中右記』〕 - 1118(永久6):「
藤四郎
」〔『東大寺文書』〕 - 1118(元永1):「
藤原兼房
[……]子藤太
」〔『光明寺古文書』〕 - 1127(大治2):「
加藤権助依兼
」〔『平安遺文』2103) - 1133(長承2):「
小藤太入道
」〔『東大寺文書』〕 - 1140(保延6):「
佐藤右兵衛尉憲清
」〔『百錬抄』〕 - 1144(天養1):「
大将軍広実二男秀実 郎従二人〈弥藤次 内五男〉
」〔『高野山文書又続宝簡集』〕 - 1145(天養2):「
清原安行字新藤太
」〔『大庭御厨古文書』〕 - 1146(久安2):「
郎等字甲斐藤次
」〔『愚昧記』〕
このうち名字につながると思われるものは,(8)・(15)佐藤
,(9)武藤
,(10)左伊藤
4(斎藤?),(13)加藤
である。
後半(1151年〜1200年)
- 1168(仁安3):「
武家奉行斎藤四郎兵衛入道玄秀
」〔『平安遺文』3481) - 1173(承安3)「
字佐藤太
」〔『東寺百合文書』〕 - 1174(承安4):「
藤三弟藤太
」〔『東寺百合文書』〕 - 1178(治承2):「
高柳村 藤二郎
[……]藤三郎
」〔『鷹尾別符高良別宮旧記写』〕 - 1180(治承4):「
工藤庄司景光
」〔『吾妻鏡』〕 - 1180(治承4):「
斎藤滝口入道頼時登山発心
」〔『高野春秋』〕 - 1182(寿永1):「
古庄近藤太
」〔『吾妻鏡』〕 - 1182(寿永1):「
字加藤三元貞
」〔『愚昧記』〕 - 1184(寿永3):「
尾藤太知宣
」〔『吾妻鏡』〕 - 1185(元暦2):「
近藤
」〔『高野山文書続宝簡集』〕 - 1185(元暦2):「
近藤七
」〔『御池坊文書』〕 - 1186(文治2):「
近藤七
」〔「昭和46年3月重要文化財指定文書」〕 - 1186(文治2):「
内藤四郎
」〔『吾妻鏡』〕 - 1186(文治2):「
守護人首藤四郎
」〔『源平盛衰記』〕 - 1187(文治3):「
内藤九郎盛経
」〔『吾妻鏡』〕 - 1187(文治3):「
工藤左衛門尉助経
」〔『吾妻鏡』〕 - 1188(文治4):「
鎌田新藤次郎
」〔『吾妻鏡』〕 - 1189(文治5):「
新藤次
」〔『吾妻鏡』〕 - 1190(建久1):「
尾藤次
」〔『吾妻鏡』〕 - 1190(建久1):「
武藤小次郎
」〔『吾妻鏡』〕 - 1190(建久1):「
工藤左衛門尉祐経
」〔『伊東文書』〕 - 1191(建久2):「
内藤六盛家
」〔『吾妻鏡』〕 - 1191(建久2):「
武藤二郎資頼
」〔『吾妻鏡』〕 - 1197(建久8):「
伊作
[……]郡司小藤太貞隆
」〔『島津家文書』〕
(21),(22),(42)以外は,名字と思われる。
各名字の起源の検討
つづいて,調査対象の名字(19種)について,名字ごとの最初期の記録を2〜4件程度挙げて,その起源について検討した。なお,12世紀中に1,2件以下しか記録のない名字については,13世紀の記録にまで検索対象を広げた。
1字目の意味の解釈にあたっては,主に「姓氏家系大辞典」,「日本姓氏語源辞典・人名力」を使用した。
佐藤氏
佐藤氏の起源については,別の記事で詳しく取り上げているが,11世紀前半の藤原公行の官職「佐渡守」であろうと考えられる。
- 1106(嘉承1):「
釈明算姓佐藤氏
」〔『元亨釈書』〕 - 1140(保延6):「
佐藤右兵衛尉憲清
」〔『百錬抄』〕 - 1173(承安3)「
字佐藤太
」〔『東寺百合文書』〕
伊藤氏
伊藤氏には,伊豆国発祥と伊勢国発祥の2つの系統がある。
伊勢伊藤氏
伊勢伊藤氏は,佐藤氏流の藤原知基の養子基景が「伊勢守」に補任されたことを由来とし,基景の子基信は平正盛の家人となって,以降平氏に仕えたという。
- 1028(長元1):伊勢国人「
伊藤掾
」〔『小右記』〕 - 1249(建長1):「
岡見伊藤次
」〔『興福寺文永元年因明短釈裏文書』〕 - 1262(弘長2):「
大友の伊藤三郎
」〔『志賀文書』〕
ただし,(1)「伊藤掾
」は,基景の2世代以上前である。仮に,この「伊藤掾
」と基景が同族であるとすれば,伊藤氏の成立はもう少し早まることになるが,いずれにせよ伊勢国司の官名(伊勢掾など)が由来であろうと思われる。
伊豆伊藤氏(伊東氏)
伊豆伊藤氏は,10世紀後半ごろの藤原維職を祖とする。維職の系統は伊豆国伊東荘に土着していることから,この地名に由来すると思われるが,他の氏は官名由来が多いことを踏まえると,伊豆国司の官名由来(伊豆守,伊豆介など)ともとれる。また,この系統は「伊東
」とも表記されることがある。
- 1190(建久1):「
伊東三郎祐時……日向国地頭
」〔『伊東文書』〕 - 1293(永仁1):「
伊藤刑部左衛門尉
」伊藤祐頼〔『醍醐寺日記』〕
加藤氏
加藤氏は,11世紀後半の藤原景道の官職「加賀介」に由来する。
- 933(承平3):「
伊勢国住人加藤太
」〔『柳原家記録』〕 - 1127(大治2):「
加藤権助依兼
」〔『平安遺文』2103) - 1182(寿永1):「
字加藤三元貞
」〔『愚昧記』〕
ただし,(1)「伊勢国住人加藤太
」の記事は,景道より100年以上も遡るから別族と思われる。
斎藤氏
斎藤氏は,10世紀半ばの藤原叙用の官職「斎宮頭」に由来する。
- 1114(永久2):「
強盗左伊藤太
」〔『中右記』〕 - 1168(仁安3):「
武家奉行斎藤四郎兵衛入道玄秀
」〔『平安遺文』3481) - 1180(治承4):「
斎藤滝口入道頼時登山発心
」〔『高野春秋』〕
後藤氏
11世紀前半の藤原公則の官職名「備後守」か「肥後守」由来すると考えられる5が,どちらを指すのか判然としない。なお,「肥後守」の方が位階は上である。
正確な史料では,12世紀後半から所見がある。
- 1181(治承5):「
後藤五郎
」〔『壬生家古文書』〕 - 1188(文治4):「
後藤左衛門尉近成
」〔『桜会類聚』〕 - 1188(文治4):「
讃岐御目代字後藤兵衛尉
」〔『正閏史料外編』〕 - 1190(建久1):「
後藤内太郎
」〔『吾妻鏡』〕
近藤氏
近藤氏は,11世紀前半の藤原脩行の官職名「近江掾」に由来する〔『尊卑分脈』〕。
- 1182(寿永1):「
古庄近藤太
」〔『吾妻鏡』〕 - 1185(元暦2):「
近藤
」〔『高野山文書続宝簡集』〕 - 1185(元暦2):「
近藤七
」〔『御池坊文書』〕 - 1186(文治2):「
近藤七
」〔「昭和46年3月重要文化財指定文書」〕
遠藤氏
不詳。遠江国司の官職か。
- 1223(貞応2):「
遠藤左近将監為俊
」〔『吾妻鏡』〕 - 1247(宝治1):「
遠藤太郎左衛門尉同次郎
」〔『吾妻鏡』〕
斉藤氏
「斎藤」の異表記と思われる。
- 1222(貞応2):「
斉藤四郎時綱
」〔『三刀屋文書』〕 - 1239(暦仁2):「
斉藤兵衛入道
」〔『山代文書』〕
工藤氏
10世紀半ばの藤原為憲の官職名「木工頭」を由来とする。
- 1180(治承4):「
工藤庄司景光
」〔『吾妻鏡』〕 - 1187(文治3):「
工藤左衛門尉助経
」〔『吾妻鏡』〕 - 1190(建久1):「
工藤左衛門尉祐経
」〔『伊東文書』〕
安藤氏
- 1250(建長2):「
安藤太郎
」〔『吾妻鏡』〕 - 1251(建長3):「
安藤五郎入道光信
」〔『満願寺文書』〕 - 1262(弘長2):「
紀州安藤帯刀
」〔『真継家文書』〕
内藤氏
- 1186(文治2):「
内藤四郎
」〔『吾妻鏡』〕 - 1187(文治3):「
内藤九郎盛経
」〔『吾妻鏡』〕 - 1191(建久2):「
内藤六盛家
」〔『吾妻鏡』〕
須藤氏
武藤氏
- 1111(天永2):「
相撲人真俊〈武藤太〉
」〔『長秋記』〕 - 1190(建久1):「
武藤小次郎
」〔『吾妻鏡』〕 - 1191(建久2):「
武藤二郎資頼
」〔『吾妻鏡』〕
進藤氏
- 1092(寛治6):「
兼貞字進藤太
」〔『中右記』〕 - 1092(寛治6):「
進藤二
」〔『為房卿記』〕
江藤氏
- 1313(正和2):「
江藤内弥太郎
」〔『東寺百合文書』〕 - 1319(元応1):「
江藤次
」〔『大乗院文書』〕
首藤氏
- 1186(文治2):「
守護人首藤四郎
」〔『源平盛衰記』〕 - 1204(元久1):「
守護人山内首藤刑部丞経俊
」〔『吾妻鏡』〕
衛藤氏
- 1319(元応1):「
衛藤跡
」〔『東寺百合文書』〕
新藤氏
- 1144(天養2):「
清原安行字新藤太
」〔『大庭御厨古文書』〕 - 1188(文治4):「
鎌田新藤次郎
」〔『吾妻鏡』〕 - 1189(文治5):「
新藤次
」〔『吾妻鏡』〕
尾藤氏
- 1184(寿永3):「
尾藤太知宣
」〔『吾妻鏡』〕 - 1190(建久1):「
尾藤次
」〔『吾妻鏡』〕
参考文献
最初期の記録の検討
- 東京大学史料編纂所『史料編纂所データベース』(東京大学史料編纂所『史料編纂所データベース』)
- 「大日本史料総合データベース」
- 「平安遺文フルテキストデータベース」
- 「鎌倉遺文フルテキストデータベース」
各名字の起源の検討
- 太田亮『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会,1934-1936)
- 宮本洋一『日本姓氏語源辞典・人名力』(name-power.net)